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へっぽこ鬼日記 第九話

第九話 広がる波紋
 ――……ポチャン。

 小石が水に投げ込まれるような音に、意識を掬い上げられる。
 まどろみの中を彷徨うような感覚の中、周囲を見渡せば白一面の世界。
 空や地面など存在しない、真っ白な空間で俺は一人佇んでいた。

「夢……?」

 首を傾げながら、日当たりの良い場所でユキちゃんと一緒に昼寝をしていた事を思い出す。
 部屋から気付かない内に瞬間移動などあり得ないので、夢という結論に至ったわけだが。
 夢にしては妙に生々しい気がする。自分の吐く息も心臓の音も鮮明に感じるのだ。

 と言っても、やはり夢は夢でしかない。
 所詮ただのリアルな夢だという結論を下して、俺は考えるように腕を組んだ。
 突っ立っているだけでも時間が経てば夢は覚めると思うが、ただ立っているのも暇だ。

 ふと足元を見れば、飛石が先を示すように続いている事に気付く。
 気付く、というよりは俺が暇だと思った瞬間に浮き出てきたって感じだ。
 つい先程までは上下左右、白一色の世界だったはずだから。

 自分の夢に言うのも何だが、怪しすぎる。
 この仕掛けは俺を楽しませるためなのか、俺を陥れるためなのか。
 夢の中なので生命の危機に晒されるという事は無いと思うが、あからさまな誘いに乗るのも悔しい。


 ――……ポチャン。

 そんな風に躊躇(ためら)う俺を急かすように、1つ目の飛石の周りに波紋が広がった。
 どこまでも続いてく波紋は、俺達が世界の中心だと告げている気がした。
 催促するような水音と波紋は止む事はなく、俺を誘うように一定の音楽を奏でていく。

「はぁ……、進めば良いんだろ」

 息を吐きながら大きく肩を落とした後、飛石に一歩を踏み出せば水音はピタリと止んだ。
 その代わりに、進む先を示すかのように1つ先の飛石が更なる波紋を描く。
 飛石の波紋に導かれるまま10歩ほど足を進めて振り返ると、歩んだはずの飛石は綺麗サッパリ消え去っていた。
 振り返った先にある景色は、やはり白一色の世界。

 変な夢だなぁ、と思いながら再び進行方向を向けば相変わらず波紋を描く飛石達。
 飛石の誘うままに進むのも面白くないので2つ先の飛石に乗ったり、一人で『じゃんけんグリコ』をしたりしてみた。

 一人じゃんけんなど無謀だと思ったが、無心でやれば案外続くものだ。
 グーで勝った時に例のポーズ(両手を斜め上にあげて片足を折り曲げれたアレ)を決めれば感動も一入(ひとしお)。
 そして『チョコレート』が一番進めると思っていたのに『パイナップル』と歩数が同じだという事実に気付いたのは一人じゃんけん三十戦目の時だった。
 奥深さを痛感させられたぜ。侮れねぇな、『じゃんけんグリコ』。





「グ・リ・コ! ――……ん?」

 三歩目の着地を例のポーズでビシッ!と決めた俺は足元を見て首を捻った。
 随分な時間を『じゃんけんグリコ』で費やした頃に、ようやく一直線だった飛石に変化が見られたのだ。

 目の前には、分かれ道だ。
 これまで一直線だった飛石の道は、左右に分かれている。
 行く先を示していた波紋は、左右に分かれている飛石から描かれていない。
 俺が自由に選択して良いのだと解釈し、決めポーズを解除して腰に手をあてながら考える。
 左道の先に何があるのか、と遠方に目を凝らしても続く飛石と白の世界しか確認できない。
 では右道の先は?と右を向いて目を細めたが、違いのある風景を見る事は叶わなかった。
 目的地や正解、という明確なモノが無いので選ぶ気持ちもいい加減なものだ。
 だから俺は、考えるのも程々に切り上げて左の飛石を選択した。


 ――――ズキンッ……。

「っ……」

 しかし、その選択を拒むかのような額への鈍い痛みが俺を襲った。
 足元の飛石達はゴボゴボと嫌な音を立てて泡となって消える。
 片手で両目を覆うようにして額を押さえれば、俺が乗っていた飛石も泡になって消え失せた。
 一瞬だけ胃が持ち上げられるような浮遊感を覚えた後、白い世界はプツンという音を立てて消え去ってしまった。

 じわじわと痛みを増す額を強く押さえつつ、次第に遠退く意識を流れに任せてしまう。
 硬い地面や波紋の広がった水面の感触はなく、ただ重力に従って下へ落ちて行くだけ。


――――……ポチャン。

 最後に俺の記憶に焼きついたのは、白い世界で聞き慣れてしまった水音と、しっとりと落ちてきた闇色だった――……。



◆◇◆



「――――ぅ、ん」

 最初に気になったのは、酷い渇きを訴えている喉。
 起き抜け特有のかすれた声が水分を欲しているのだと感じて、一気に意識が浮上した。

 あぁ、やっと夢から覚めるんだ。
 そう思いながら目を開くと、差しこんだ夕日の朱色と白くて柔らかい存在が確認できた。
 近すぎてハッキリ見えなかったそれは、俺の鼻の頭を一舐めして距離を取るために離れて行く。
 どうやら俺の胸上に乗ったユキちゃんが顔を覗き込んでいたようだ。
 子供のように幼い仕草に、自然と俺の口元は緩んで笑みが零れてしまう。

 夢の中で感じたように、眉間の辺りが微かに痛む気がするが大袈裟に騒ぐほどでもない。
 喉もカラカラだが、陽太に言って水や茶を用意してもらえば解決する事だ。
 仰向けに寝転んだままの体制を戻そうかな……と、ぼんやりした頭で考える。

 そんな中、俺の視界いっぱいに広がっていたユキちゃんがピタリと動きを止めた。
 一定の距離で離れるのを止めた後、猫にしては垂れ気味の大きな目と視線が重なる。
 撫で回したい衝動を抑えて、行く末を見守っていると黒い瞳がキラリと光った気がした。
 そして可愛い茶色の耳をピクピクと動かしたと思ったら、何故かもう一度近づいてくるではないか。
 それも結構な勢いをつけて、だ。
 それはつまり――……。


 ゴスッ!

「ぐはっ!」

 ま さ か の 頭 突 き !
 痛っ、ちょ、マジ痛ぇからぁぁぁ!
 何で頭突きなの、それにユキちゃん石頭すぎるんですけどぉぉ!?
 割れてない? 俺の頭は無事? 俺の頭パーン!してない??

 大ダメージを受けた額を押さえながら、仰向けだった体制から半回転してうつ伏せになる。
 胸の上に居たユキちゃんも必然的に香り良い畳の上に降り立つ事になり、軽い足取りで俺の傍に寄ってきた。
 ゆらゆらと耳と同じ茶色の尻尾を揺らしながら擦り寄る姿は非常に可愛らしいが、今の君は俺の額を割る兵器にしか見えない。

「にゃーん」

 何を勝ち誇った顔してんのユキちゃん!
 君のお陰で俺の頭がパーンしちゃうトコロだったんだから!!
 したり顔で上機嫌な鳴声を上げたユキちゃんに、俺は上半身だけを起こして苦い顔を向ける。
 左手で片目と共に額を押さえているので、残りの眼で小さな白い存在を睨んだ。
 これは少し教育が必要だと判断した俺は、怒るために全身に力を入れ直す。

 めっ! という風に大人が子供を叱るようにすれば、一瞬だけ身体が跳ねるユキちゃん。
 俺が怒っている事を即座に理解したようで、慌ててゴロン……とお腹を見せて寝転んだ。
 アレか。犬で例えれば降参か。服従ポーズか。つまり反省か。

 かーわーいーいー!
 畳に背を預けたままクネクネ動く姿が可愛いさに磨きをかけている!
 ……はっ。こ、これは作戦か!
 胸キュン作戦とは何て卑劣なんだ。冷静になれ俺。流されるな俺。額の痛みを思い出せ俺。

 厳しく叱るつもりで額を押さえていない方の手を伸ばせば、掌(てのひら)に幾つもの軽い衝撃。
 ユキちゃんは果敢にも短い手足で猫パンチや猫キックを繰り出してきたのだ。
 少し力を入れて更に圧してやれば、四肢で踏ん張ってプルプル震えている。

 ……あは。もう俺の額なんかどうでもイイや。違う意味で頭パーンしちゃいそうだし。
 今は心行くまで可愛いユキちゃんとボクシングごっこして遊ぶ事にします!




「恭様はユキを甘やかし過ぎですよ?」

 そんな風に、両手で作った俺の拳とユキちゃんの手足とでポコポコと攻防しながら遊んでいると、俺達に差す夕日を遮(さえぎ)るように長く伸びた影が動いた。

 影の主(ぬし)は盆を持って部屋に入ってきた陽太。
 盆の上には温かい茶が乗せられているのか、夕冷え漂う空気が少しだけ暖かくなった気がする。
 丁度喉が渇いたと思っていたので、そんな気遣いがとても嬉しい。

 だが、その暖かさとは反対にユキちゃんを見る陽太の視線はキツイもの。
 同じように、ユキちゃんも俺の手から抜け出して陽太と真っ向から対面し威嚇の体制を取っている。

「甘やかしているように見えたか?」

 崩していた体制を起こして畳の上に座り直せば、畳と緑茶の香りが風に乗って俺に届く。
 近づいてくる陽太の姿を逆光を背景に見上げながら問うと、作法の手本のような動作で陽太は俺の近くに歩み寄った。

「少なくとも、オレの目にはそう見えました。いくら戯れているだけと言っても、ユキの態度は少し問題でしょう。もしオレの影獣が同じ事をしたなら、罰として尻尾を掴んで振り回します」

 怖っ、陽太怖っ!
 えっと、その怖さがかげもの? と契約できない理由じゃね?
 動物虐待で訴えられるから止めておいた方が良いよそれ。

「躾(しつけ)も大切だが、可愛がる事も同じくらい必要なんだぞ?」
「……やはりオレの教育理念では影獣と契約する事は難しいのでしょうか」
「まぁ、別に焦って考えを変える必要もないと思うけどな。いつかお前に合う相棒が現れた時になれば、自然と接し方が変わるはずだ」

 確か、かげもの? と契約するには相性が大切だと言っていた。
 今みたいに怖い発言をした陽太には打たれ強い獣が相応しいのかもしれない。
 もしくは、陽太のスパルタ教育に従えるM気質な相棒が、ね。

 俺は陽太じゃないから相棒を選んでやる事はできない。
 だから結局、選ぶのは陽太で選ばれるのも陽太に運命的な繋がりを感じる獣なのだろう。
 要は陽太がどれだけかげもの?を必要として上手く扱う気があるかだ。
 相性とは必要性も愛情も、時に厳しさも必要な事なのだから。
 とにかく、本当にかげもの?が欲しいなら少しでも扱いを知っておいた方が良いと思う。
 動物は敏感な生き物だから飼い主の感情に過剰反応するはずだ。
 教育や躾と同じくらい、可愛がるという事も知れば可能性が上がるかもしれない。

「ホラ、陽太も触ってみるか?」
「オレはユキに嫌われていますので、触らせて貰えませんよ」
「嫌う?」
「同族嫌悪、という事でしょうか。オレもユキも恭様の傍で仕え、恭様をお守りする役目を担っていますので」

 フン、と陽太が鼻を鳴らすと、ユキちゃんも機嫌悪そうに茶色の尻尾を床に叩きつけた。
 子猫のユキちゃんを敵視する陽太も陽太だけど、それに応戦するユキちゃんも大概だ。
 これも一種の相性という事なのだろうか。もちろん二人の相性は最悪という判定になるのだが……。

 傍仕えという俺に馴染みのない地位を取り合われても何とも言えない。
 俺の中では、陽太もユキちゃんも『傍仕え』というより違う言葉が当てはまる。
 俺が誰よりも頼りにするのは陽太で、何故かそれが当然だと思えてくるのだ。
 『傍仕え』なんて、一線引いた関係ではない。俺と陽太はもっと親密な関係だ。

「陽太は傍仕えというより、親友だからなぁ」
「え……」
「この子も護衛というより癒し的な存在だよ。まぁ、どちらにせよ俺にとってお前達が大切なのは変わりない」

 だから少しは仲良くしろよ?と言いながらユキちゃんの頭を撫でる。
 小さな頭の上を二、三度往復してから、この話は終わりにしようと軽く伸びをした。

 これ以上言っても、睨みあっている状態の今は進展しないと思ったからだ。
 無理に仲良くさせようとしても、当人同士にその気が無ければ解決しない。
 時間を掛ける方向に持っていく事にしよう。時間が経てば、いつの間にか仲良くなっているかもしれないし。


「陽太、その茶を貰ってもいいか?」
「は、はい……」

 慌てたように俺の傍に腰を下ろした陽太から、少し冷めた茶を受け取る。
 ぬるい茶が喉の奥まで潤すように口内に広がり、流れ込んでくるまま一気に飲み干した。

 陽太が持った盆の上に空の湯飲みを置けば、盆が傾いて畳の上に転がる湯飲み。
 あれ? と思いながら陽太を見れば、呆けた表情で俺を見て固まっていた。

「陽太?」
「――……っ、も、申し訳ありません!」

 我に返ったように、硬直状態を解いた陽太はいつものように素早い動きで湯飲みを拾い上げる。
 幸い、湯飲みの中身は残っていなかったので畳を汚す事はなかった。
 陽太にしては珍しいミスを不思議に思ったが、咎める要因は無い。

 それよりも、急に落ち着きが無くなった陽太が心配だ。
 昼に比べて気温も下がってきたし、俺より働き回っているから疲労も蓄積しているはず。
 もしかしたら、疲れが溜まって体調が悪くなったのかもしれない。

「大丈夫か?」
「はい。湯飲みは割れていませんし、畳も汚れては……」
「いや、俺は陽太の体調の事を聞いてるんだぞ?」
「え、あの、大丈夫です、問題ありません」
「そうか? 調子が悪いなら早めに休むようにしろよ」

 ポンポン、と陽太の頭を軽く叩けば再びカチーン!と固まった。
 少しだけ肩を竦めたような形で固まる陽太は、視線だけをゆっくりと俺に向けてくる。
 動物が自分を触る者を見るような眼に、大型犬を彷彿させられて笑いが込み上げてきた。
 それを誤魔化すように、わしゃわしゃと髪を乱してやっても陽太は抵抗しなかった。

 話題を変えようと思って陽太の頭から手を離したのと、俺の腹が鳴ったのは同時だった。
 そう言えば、朝飯を食べて以来何も口にしていない。
 この世界では朝飯は『朝餉(あさげ)』と呼ばれ、晩飯は『夕餉(ゆうげ)』と呼ばれるそうだ。
 しかも食事は一日二回のようで、小腹が空いたらお八(や)つを食べるらしい。

 もちろん、朝に陽太と交わした何気ない会話で得た情報だ。
 俺が情報を集めたというより、陽太がこの城での生活について説明してくれたんだけどね。


「あー、何か腹減ってきたな。今日の夕餉は何だと思う?」
「ゆ、夕餉にはもう少し時間が必要だと思いますが……。献立を確認しに行ってみます。人参が出ても残さずに食べて下さいね」

 そう言って、陽太は乱れた頭のまま逃げるように部屋を出て行った。

 ちょ、おま、何で俺がニンジン苦手なの知ってんの?
 嫌いじゃないよ、苦手なだけ。残さないでちゃんと食べるよ。
 でも本当に献立にニンジンが入ってたら困るなー、と思いながら立ち上がって、俺は部屋の出入口から朱色の空を仰いだ。

 外から聞こえるのは、鳥の羽ばたき音。
 巣に戻る鳥達が群れを成し、黒い影を作る。
 存在する物全ての影を生み出す夕焼けは、ただ黙って成り行きを見守っているようにも見える。
 短い夕刻が過ぎ、これから始まる長い夜。
 近づく時を感じながら、思い馳せるように目を閉じたのだった――。



◆◇◆



 あの後、平然とした顔で部屋に戻ってきた陽太だが、やはり少しだけ様子が違っているような印象を受けた。
 結構な時間を掛けて観察してみたが、陽太は照れたように笑っては慌てて表情を引き締める事を何度か繰り返している。
 俺が風呂から戻った今現在も意識を何処かに飛ばしていた。
 元から表情豊かなヤツだとは思っていたが、その顔は思い出し笑いに似ている。

 思い出し笑いか……。
 ははーん。さては陽太、むっつりスケベだな。
 思い出し笑いをするなんて、厭らしい妄想しちゃってるんだろ。
 良いよ、イイよ。年頃の男の子だもんね。思春期だもんね。仕方ないよね!
 夕餉の時も俺に茶を出しながらボケーっとしてたしな。
 湯飲みに溢れる寸前まで注がれた茶を飲むのは結構大変だった。

 ん? 夕餉のニンジン?
 ふふふ、もちろん食べましたよ。楽勝です。
 狙ったかのように煮物の中に君臨していたので、お茶で流し込みました。
 何度も言うけど嫌いじゃないよ。苦手なだけ。好き嫌いはダメだもんね!

 思い出し笑いをする陽太に、ニンジン攻略成功に含み笑いをする俺。
 誰にも見られてないよね?今の俺達は完全に不気味主従だ。


「失礼します。藤見恭様に、お届け物でございます」

 そんな不気味主従の隙を突くように、現れた訪問者。
 聞いた事のある声なので、最初に俺達をこの部屋に案内してくれた女中さんだと思った。

 もちろん、その声に特に慌てず対応するのは陽太だ。
 完全に周囲への注意を怠っていた俺だが、陽太は気付いていたようで声が掛かる前に姿勢を正していた。
 直接俺に取り次ぐのではなく、要件を聞くために部屋の外へ出る陽太を眺める。

 どんな時でも自分の仕事を忘れない姿勢は流石(さすが)だと思う。
 そして油断しまくりの俺も流石だ。ここが戦場なら瞬殺されてるよね。

 これ以上の醜態を晒すわけにはいかないので、俺も姿勢を正す。
 何か話を聞く必要性があるかも、と予測しての行動だ。
 しかし残念ながら、俺の行動は無駄な杞憂に終わってしまった。
 女中さんは陽太と短く会話しただけで、帰ったからだ。

 足音が遠退き完全に聞こえなくなった後、陽太が黒い箱を片手に部屋に戻ってくる。
 何だそれ? と陽太を見ていると、信じ難い言葉と一緒に目の前に差し出される箱。

「恭様、花姫様より文が届きました」
「……は?」

 差し出された黒塗りの箱を受け取りながら、間抜けな声を出してしまった。
 確かに花姫様に手紙を送った記憶がある。
 午前中の見合い後に、小萩さんの言付(めいれい)で渋々書いたはずだ。
 それも、『呼ばれたら会いに行く』という内容の舐めた手紙を。
 そんな調子に乗った手紙に対して返事がくるとは思っていなかった。

 だから今の俺は動揺しまくっている。
 完全に放置プレイだと予想していたのに何だこの展開は。
 ラブレターで校舎裏に呼び出した好きな子が登場した感覚と同じだ。
 ……や、校舎裏に好きな子を呼び出した事なんか無いけどね?

 更に、動揺とは違う感情が溢れ出る事にも気付いた。
 くすぐったいような、気恥ずかしいような感情。

 ――俺は今、喜んでいる。
 両目尻と耳元が徐々に熱くなり、心臓が駆足で脈を打つ。
 こんな些細な繋がりが嬉しくて気持ちが高調しているんだ。
 実らない恋だと諦めたはずなのに、一度思い描いた未来が再び脳裏に浮かぶ。

 だが『糠喜(ぬかよろこ)び』という言葉があるくらいだ。
 あてが外れて、後でガックリするような一時的な喜びに踊らされる可能性もある。

 早まるな俺。内容も確認せずに喜ぶな俺。
 もしかしたら『お前なんか早く消えろ』という内容もあり得る。
 本当にそんな事が書かれてたらショックだ。きっと立ち直れないよ俺。
 駄目だ、手紙を読む勇気がない……!


 しかし手紙を読まないのも失礼なので、俺は黒塗りの箱に手を掛けた。
 中に入っていたのは、滑るような肌触りの折り畳まれた紙。
 触れているだけで指先が暖かく感じられて、興奮と恐怖に軽く震えが走った。

 折り目を数えながら開き墨色の丁寧な文字に目を走らせる。
 手紙の内容は俺を罵るモノなのか、俺を必要としてくれるモノなのか。


「――っ……!」

 だが、手紙を見た瞬間に俺の心臓は音を立てて凍りついた。
 紙という白上に存在を主張する文字が俺を惹きつける。
 内容云々よりも、飛び込んできた文字に目を奪われてしまう。
 その文字を指の腹でなぞれば、痺れに似た情動が俺を支配した。

 墨の香りが仄かに残る手紙に綴られている文字が、俺に慣れ親しんだものだったから。

 ににに、日本語だああぁぁぁ!
 この世界の文字は日本語だったああぁぁ!
 勝手に象形文字とか想像してたけど、日本語で書かれているよコレ!
 片仮名は見当たらないけど、漢字と平仮名が書かれてるよ、俺でも手紙が読めるっ。
 ありがとう神様! 俺は未だ貴方に見放されていなかった……!!

 手紙を片手に、急上昇するテンション。
 そのテンションに釣られてか、端が上がっていく俺の口。
 膝立ちでガッツポーズをとりそうになったが、それは何とか我慢した。
 文字は少しだけ崩されているが、十分読める範囲だ。これなら、筆の扱いに慣れれば俺でも文字を書く事が出来る。
 文字が読み書き出来るという事は、大抵の事には困らない。
 店に入るにも軒先の看板に書かれた文字を見れば何の店か分かる。
 ブラブラと出歩いて迷子になったとしても、ジェスチャーと万人が理解できる文字さえあれば何とかなる。
 不安要素が一つ消えただけで、ここまで安心できたのも久しぶりだ。


「随分と嬉しそうですね、恭様」
「そりゃ嬉しいさ、陽太も読んでみてくれ!」

 ばばーん!と効果音が出そうな勢いで陽太に手紙を見せた。
 両手で手紙を広げる俺が、陽太の顔の前に手紙を突きつけている形だ。
 白い手紙が俺達の間を遮るように存在しているので、陽太の反応は声でしか分からない。


「なるほど、明日の午後は花姫様とお過ごしになるのですね」

 え、そんな事が書いてるの?
 内容を一文字も読まずに見せちゃったんですけど。

 満面の笑みで手紙を見せておいて、今更読み直すのもカッコ悪い。
 陽太に気付かれないよう、俺は紙の後ろから透けた文字を読んでみた。

 少し時間が掛かってしまったが、陽太の言った事は本当だ。
 『明日、未(ひつじ)の刻にお茶でも飲みませんか?』みたいな事が書いてある。

 未ってアレだよな。十二支の。
 十二支で二十四時間を現しているという事だから未が何時かを計算すれば良いんだ。
子(ね)の刻が零時、丑(うし)の刻が二時……未は八つ目だから十四時か。
 おー、確かにお茶には良い時間だ。小腹が空くので茶菓子も大歓迎だ。

「では早急に返事を致しましょう。その文箱(ふばこ)を使いますので、お渡し頂けますか?」

 その言葉に、陽太との間にあった手紙から黒塗りの箱へ視線を移す。
 開け放たれたまま無造作に置かれている、手紙の入っていた箱。
 それは見事な光沢を放っている上に、上品な桜の花が描かれた。

 そう言えば、何故花姫様からの手紙は箱に入った状態で送られてきたのだろう。
 確か俺が送ったのは厚手の紙に要件を書いた紙を包み、水引のような紐で縛った質素な手紙だった。
 陽太に任せたので、作法に間違いは無いと思っているのだが確かめずにはいられない。

「何故、これを使うんだ?」
「恭様の文箱は義正(よしまさ)様宛てに使用中でございます。契りを交わすか不明な方より、旦那様の方が優先だと思いましたので」

 義正様? 旦那様?
 ……あぁ、藤見家の当主様か。つまり藤見恭(おれ)の父親だ。
 ふむふむ。優先順位で藤見家当主と花姫様を両天秤に掛けたという事か。
 確かに、花姫様との関係が絶望的なので身内を優先させた気持ちも理解できる。
 花姫様に出す手紙に文箱を使って、返って来なかったら困るという事だろう。
 文箱は高級そうだしね。職人の技が光る!って感じだ。

 咎めるような事も手紙に書かれていないし、陽太が当然のような顔をして質問に答えているから問題ないと思う。
 ま、失礼な行動じゃないならいいや。怒られたら、その時に謝ったり逃げ出したりすれば良い。

 それよりも、藤見家の当主に手紙を送った理由の方が気になる。
 放浪息子の監視を命令されている可能性が一番濃厚だが、下手な事が書かれていないか心配だ。
 俺の言動で東条家と藤見家の仲を悪くさせる要因があったなら、謝っても許されない事だ。

「文には何を……」
「恭様が簡単には帰る事ができそうにない旨をお伝えしました。婿の件は進展が期待できますし、暫くは婿候補として滞在予定だと」

 あ、そういう事か。滞在の予定とか家の人は気にするからね。
 良かった、俺の行動が大きな問題を巻き起こしたのかと思ったよ。

 安心して体の力を抜くと、陽太が少し身を乗り出して質問を寄越した。
 何だその顔は。悪戯(いたずら)を企んでいるような顔に、親近感を覚えるが良い予感はしない。

「それに、恭様も花姫様との逢瀬を心待ちになさっていますよね」
「んー……婿の事は特に気にして無いけどなぁ。まぁ、その、何だ。花姫様と話がしたいと思っている事は否定できないが」
「ふふっ」

 笑うなコラ、恥ずかしいだろうが。
 俺をからかえるネタを手に入れたからって調子に乗るなよぉ?
 腕を組んで睨むと、陽太は眉をハの字にしてもう一度笑った。俺の渾身の睨みも効果は薄いようだ。残念。


「では、明日のお召し物は気合を入れて用意させて頂きます」
「あぁ、陽太に任せるよ」
「うーん、恭様は長羽織もお似合いですから悩みますね。しかし今回は思い切って羽織を止め、紬反物にこだわってみるのも……」

 立ち上がって部屋に備え付けられている箪笥(たんす)へ歩みを進める陽太。
 箪笥の引出しを開けて陽太が取り出してくる着物や羽織は、どれも落ち着いた色合で『飾らない男』って感じでカッコイイ。

 センス良いな陽太。
 でも、それ以上に気になっている事があるから聞いていいかな。

 その箪笥の中は四次元な空間に繋がる白いポケットと同じ仕組み?
 俺の記憶が正しければ、城に来た時点では完全に手ぶらだったはずだよね。
 いつの間に箪笥の中を充実させたのかな? 四次元な空間と繋がっているとしか考えられないんだけど。

 ブツブツと箪笥の前で着物を選んでいる陽太を尻目に、訪ねたい衝動を押さえて腕を組み変える。
 布が擦れる音を耳にしつつ、着せ替え人形だけは回避したいと思いながら縁側に出た。
 明るい光に誘われて夜空を見上げれば、浮かぶ銀色の月が在った。

 夜のやや冷えた空気が肌をなぜる。
 湯冷ましには適応な風だろうが、今は少しだけ肌寒い。
 緩やかに吹く風が草木を揺らし、静かな夜に音楽を生み出した。
 銀色に輝く月は、満月には少しだけ足りないようだった。


「明日の未の刻、か」

 手紙に指定された時刻を自分で口にしてみれば、じわじわと現実を示してくる。
 挽回の余地無く終わってしまった花姫様との恋。
 傷が浅い内に退こうとしたのは俺だが、生まれた熱は未だ消えていない。
 見合いの席では大失恋で終わってしまったけれど、この機会に縋りつく自分が居る。

 簡単に諦めてしまった想いだが、もう少しだけ歩み寄ってみたい。
 花姫様の姿を思い出せば、俺を一瞬で虜にした美しい容姿で睨んでいる。
 彼女が抱いているであろう俺への気持ちを代弁するような記憶に、苦笑する事しかできない。

 それでも、見た事もない笑顔に想いを馳せるだけで幸せになれる俺は単純なのだろう。
 現物を目にした時に卒倒しないか心配だが、それを現実に近付けるために努力したい。
 緊張と期待によって熱を帯びる体を落ち着かせる為に、俺は闇に溶けるような息を吐いた。


 そんな俺を、陽太が微笑みながら見ている事には気づかずに。
 俺は明日再び、決戦の時を迎える事になりそうだ。
 改めた決意を胸に、もう一度見上げた月は一層美しく輝いているように見えた――

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