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へっぽこ鬼日記 幕間八(五)

幕間八 (五)
 月明りに照らされた中庭は、似合いの二人を幻想的な世界へ誘っているように見えた。
 溶けるような表情、とは今の恭様を指す言葉なのだろう。
 至極優しい声色は耳に甘い痺れを残し、胸の奥に言い表せない疼きを生み出す。
 遠目で事を見守る自分でさえこの状態なのだから、直接情を受ける花姫様は堪らないはずだ。
 半ば上半身が覆い被さるような体勢で花姫様と見つめ合う姿は、恋仲と言わずして何と称すべきなのか。 

 何時だったか、女性は聴覚で感じると聞いた事がある。
 情事の際に加虐的な言葉や音に過敏な事も一説では有効だと説かれている。
 落ち着いた男の声を好ましく思ったり、耳元での囁きに本能的に震えるのが確たる証拠。
 月明りの下、身を寄せ合う男女の鬼に何か進展を期待するな、という方が異常だ。
 少なくとも普段とは格段に違う恭様の声に、溺れる手前の花姫様は反応せざるを得ないだろう。
 藤見の鬼の恋情で重要なのは『落とす』『落とさない』ではない。『共に落ちるか』『引き摺り落とすか』だ。
 前者は言葉通り、同意の上で心身溶けるまで情の底に堕ち果てる事を意味している。
 それに反して、後者は相手が手強い場合にあらゆる手段を駆使して環境から攻める事を意味する。
 恋情に溺れなくてはならない状況、溺れずにはいらない環境を意図的に作り出すそれは『狂愛』。



 離れた場所で、そんな恭様と花姫様を見守る自分達は言わば野次馬だ。
 自分だけなら迷わず席を外し気配を消して事の行く末を見守るのだが、残念ながら今は恭様への敵意を剥き出しにしている千代がいる。
 大人しい女人なら迷わず放置しておく。しかし今にも妨害し兼ねない千代に、それは叶わない状態だった。
 花姫様を守ろうとする従者としての心構えは理解できるが、色恋沙汰まで踏み込むのは度が過ぎる。
 先ほど恭様を助勢した自分が大きな事を言える立場ではないのだが、オレは千代の妨害は凶事に繋がる気がしていた。

 だからオレは、恭様を妨害しようとする『千代の妨害』を決めた。
 このまま放っておけば、その内に大声を上げて場を白けさせてしまいそうだ。
 その前に、ギリギリと音が鳴りそうな強さで歯を噛み締めている千代の怒りの矛先を逸らす事にした。
 幸いと言って良いのかは微妙だが、オレは千代に良い印象を抱かれていない。
 嫌味の一つでも言えば、視線だけでもオレの方へ向ける事はできるだろう。

「くっ……花姫様の酌で酒を飲むとは、贅沢なっ!」
「申し出たのは花姫様です、女中殿」
「姫様は酌婦ではありません。女子(おなご)と酒が飲みたいのであれば、他を当たれば良いのです!」
「貴女の目は腐っているのですか? 女人と酒を飲む事が目的ではありませんよ」
「何を呑気な事をっ! 酒瓶の中身は音沁水なのですよ!?」

 焦ったように二人に向き直る千代を見て、なるほど、とオレは小さく呟いた。
 どうやら千代は、恭様が花姫様に赤の杯を渡して音沁水を飲ませる事を警戒しているらしい。
 キッ、と目を吊り上げて睨んでくる千代は、やはり怖いもの知らずだと思う。
 この行動が情報を集めての物なら、相手をする自分も千代に対しての認識を改めなくてはならない。
 だがこの若い女忍は、どう贔屓目に見ても情報や証拠に基づいた動きをしているようには見えないのだ。
 良く言えば勇敢だが、悪く言えば無謀。紙一重な現状に置かれている己を理解できていないのも致命的だ。
 この分では、駆け引きも下手なのだろうと千代の顔を見ながら思う。
 口先で嘘や真実を巧みに操る、話術は大切な事だ。それを千代が出来るとは到底考えられなかった。

 別に千代がこの先苦労しようが、オレには関係ない。
 だが、悪戯心により千代で遊んでみたいとも今のオレは考えていた。
 ……どうやら、千代の妨害を阻止するというオレの目的の裏には、恭様が花姫様を落とすという確信があるようだ。
 そのせいか、自分でも驚くほど心に余裕がある。少なくとも、恭様の言動を気にしつつ千代に嫌がらせをする程度には。
 そうなれば早速実行してみよう、とオレは『不思議そうな表情』をして千代に言葉を投げた。
 恭様ほどの演技力は無いが、単純思考の千代を騙せる腕は持っているつもりだ。

「おや……、何故そのように音沁水を警戒されるのですか?」
「はぁ? まさか従者殿は音沁水の意味を知ら――っ!!」

 そこで言葉を詰まらせて、千代は恭様に酌をする花姫様を一度見てから勢いよくオレに向き直った。
 その顔は明らかに何かを思い付いたもの。これで本当に女忍なのかと尋ねたくなるほど分かり易い女だ。

「音沁水には何か意味があるのですか?」
「お、音沁水の意味は……ふふっ」

 恐らく根も葉もない事をオレに伝え、オレから恭様へその情報が回るように仕組むつもりなのだろう。
 その証拠に千代はオレの腕を両手で掴み、そわそわしながら音沁水について語り始めた。
 当然、オレもその話に意気揚々と乗ってみる。

「えー、音沁水は別れの酒として有名で、互いに飲み交わす事で決別を意味します」
「別れの酒ですか。では、花姫様が飲まれると我が主と別れる事になるのですね?」
「そうなのです! それは従者殿も望まぬ事でしょう?」
「えぇ、そんな事は何としても喰い止めねばなりません」
「では従者殿から藤見様にお話下さいませ。今ならまだ間に合います!」

 さあさあ、と不敵な笑みを浮かべる千代に対して深い溜息しか出てこない。
 知らぬフリをしている手前、表立って息を吐く事はしないが何故かオレ自身が情けなくなった。
 実は女忍を装った武家の娘かもしれない、という可能性も考えたが身の振りは忍の物。
 しかし、このような腕前で東鬼一ノ姫である花姫様の護衛が務まるとは思えない。
 単に実力が追い付いていないのか、オレの気付かない才能を隠し持っているのか。
 女鬼なので同性である花姫様に付いている、という理由が一番有力なのだが……どうもしっくり来ない。

「女中殿の本業は女忍でしたね」
「えっ? はい、姫様の女忍兼女中ですが、それが?」
「嘘を吐くとは思っておりましたが、あまりにも話術の心得が無いので再確認を」

 理由は話中で探ると決めて、俺は千代で遊ぶ事を早々に諦めた。
 暫くは遊べるかと思ったのだが、相手をするオレの方が疲れてしまいそうな気がしたからだ。
 そもそも駆け引き下手という時点で、有意義な会話を楽しめるはずがない。
 子供でももう少しマシな嘘を考え付くだろう、と思って千代に掴まれていた手を強く払った。
 そこで千代はようやく、急激に冷めたオレの視線に疑惑を抱いたようだ。

「っ、私は嘘など……!」
「では親交の酒である音沁水を、別れの酒だと本当に勘違いされていたのですか?」
「お、音沁水の意味を知っているではありませんか!」
「知らぬ、とは一言も申していません」
「卑怯なっ、何と卑劣なのですか、この悪人!」
「子供の口喧嘩ですか。まぁ、私が貴女にとって善人でない事は確かですね」

 キーキーと騒ぎ出した千代に、オレはしれっとした顔で答えてやった。
 最低だ最悪だと煩い千代を無視しながら恭様と花姫様に再び目をやれば、ちょうど花姫様から恭様が杯を受け取っている所だった。
 どうやら花姫様は、赤の杯で恭様から注がれた音沁水を飲み干し、その杯を恭様の手に返したようだ。
 恭様に音沁水と杯の話をした覚えはないが、敬愛すべき主は存じ上げていたらしい。
 第一関門は難なく突破したな、とほくそ笑みながら未だ文句を言っている千代に視線を戻した。
 奇怪そうにオレの顔を見た千代だがオレの笑みが意味するモノに気付き、慌てて恭様達の方へ顔を向ける。
 時既に遅し、という言葉が今の千代には似合いだろう。

「あああっ……そ、そんなぁ」

 ガクリと肩を落とし、恨めしそうに恭様を見る千代の言葉には先ほどの覇気が全く無い。
 浮き沈みの激しい女だと思いながら、オレは千代を鼻で軽く笑った。
 もちろん、激情した千代が喰って掛かって来る事も想定済みだ。
 再三思うが、本当に女忍なのだろうか、この娘は。

 涙目で下から睨みつけてくる千代の表情は、折れぬ心を表しているようだ。
 もともと自分は打たれ強い者を疎ましく思う反面、好んで相手する傾向がある。
 それは千代にも当て嵌まる事で、こうして嫌味を言ったり、小馬鹿にしたりするのを思いの他楽しいと感じていた。
 まぁ、気に入らない考えを真っ向から否定する事は変わらないが。
 弄んで壊す対象か、愛でて壊さぬ対象かを両天秤に掛けているとでも言おうか。
 ――だが、恭様に無礼を働く者は両天秤に掛ける間もなく壊すに限る。

「これは抜け駆けです! 音沁水を使うなど、他の婿候補の方々に悪いとは思わないのですか!?」

 よくもそのような言葉が言えたものだ。
 花姫様付きの女中業を兼務しているなら、他の婿候補達の妨害を目の当たりにしていたはず。
 それによって悲しんだ花姫様も、卑屈な手で幼稚な策を仕掛けた婿候補達を見ただろうに。
 それでも尚、この台詞が出るとは……どこまでも思考や行動が空回りする女忍だ。ここまで愚鈍だと逆に清々しい。

 この千代という女忍の頭は忍らしい考えより先に、一般の女鬼と近い考えが表に出ていると感じた。
 感情を押し殺さぬ所も、陰から見守らぬ姿も、婿候補を一括りにして敵と見做している考えも。
 状況を判断し、策を練り、数多の業で敵を薙ぎ払い主の為に命を散らす。そんな忍の教育を受けたとは思えなかった。
 ……恭様への妨害は、敵を薙ぎ払う部類に成らなくも無いが。

「女忍殿は実践経験が少ないのではありませんか?」
「実践が……? どういう意味でしょうか」

 思考は知識と経験により、判断できる種類が増える。
 知識だけで経験の少ない者は口先だけの小者が多く、経験だけで知識が少ない者は手数が限られる。
 千代に置きかえるならば、知識と経験は忍と女中の業種で今まで蓄積されてきたもの。
 色恋沙汰に嫌悪感を抱いているような様子から、まだその方面は子供の域を抜け切っていないと判断できる。
 宝物を取り上げられそうになっている子供と千代を重ねれば、婿候補への反発も分かる。
 が、忍の知識や経験は如何だろう。
 知識はそれなりにあるとは思うが、明らかに判断を増やす為の経験が不足している。

「例えば十人の刺客がたった一人を仕留める場合、結果がどうなるかご存じですか?」
「……瞬く間に一人を仕留めて終わり、だと思います」
「ではその話を、花姫様に置き換えてみて下さい」
「狙われる一人が花姫様で、狙う刺客が婿候補という事でしょうか」

 眉を寄せている千代の言葉に、オレは軽く頷いた。
 対象が花姫様と婿候補になった事で、千代の真剣さも増して顔つきが変わる。
 こうして見ると、確かに一介の女中に落ち着くには過ぎた女鬼だ。
 自分の中でまとめた答えを告げるために、オレに向き直った千代の目は強い意志を宿していた。

「一時の協定を結んで他者への妨害を行い、自分が最後の一人になるまで裏切りを繰り返すと思います」

 なかなか的を射た回答に、最低限の判断ができる事を悟る。
 千代の言葉通り、彼等は己が最後の一人になるまで協力と裏切りを繰り返すだろう。
 まず妨害対象は最も有利な恭様。強敵を早い段階で脱落させてしまう選択は間違っていない。
 そうやって脱落者を増やし、最後の一人となって消去法で東鬼の長の座を狙っている。
 ただ、最後の一人にとなっても、東条側が拒む可能性も否めないが。
 少なくとも、花姫様が敗者となる可能性はぐんと下がる。

「えぇ、一対一になれば狙われる側の方が勝者となる確率が高くなるでしょう」
「……確かにそうですが、その理屈では花姫様が勝者となるはずです」
「――ですが、その心理を心得た刺客が一人居たとすれば?」

 千代への問い掛けは、ここからが本題だ。
 最初に千代が思い浮かべた十人の刺客は、均一の力量を持つ者達。
 一人を狙うという目的だけを遂行する為に、束になったり、各々が他者にとっても効率の良い動きをしたり。
 多様な技術を駆使して一人を狙うので、千代が口にした最初の回答のような結果に導かれる。
 しかし、刺客と狙われる者を婿候補と花姫様に置き換えた場合はどうだろう。
 一人を狙うという目的は変わらないが、果たして彼等が束になるだろうか。他者にとっても効率の良い動きをするだろうか。
 多様な技術を、一人を狙うためだけに駆使するだろうか。同じ目的を持つ他者を気にしないのだろうか。
 千代の言うように、彼等は一時的な協定を結んで他者を妨害し、己の為に他者を裏切るだろう。
 周りを蹴落として、己が最後の一人となり邪魔者が消えてから初めて目的へ真正面から向き合う。
 まったく愚かな事だ。そんな言葉が、千代の考えから聞こえてくる。

 だが、オレから言わせれば千代の誤算はここにある。
 一つ。婿候補の浅ましい考えを見て、全ての者の力量が同じだと認識している事。
 一つ。蹴落とされる側の婿候補が、容易く脱落してしまうと結論付けている事。
 一つ。協定を結んだ婿候補を心変わりさせてしまうほどの者を、侮っている事。
 一つ。他の婿候補など眼中に無く、最初から目的だけを見据えている者が居るのを見落としている事。
 そして最後に一つ。最も愚かなのは相応しい判断が出来ない己だと気付いていない事――。
 そう、最も愚かなのは千代だ。

「抜け駆けという言葉は、弱者が生み出した逃げ道でしかないのですよ」

 己の意向に沿わぬ結果を前にして、弱者が口にする情けない言葉。
 そんな主張を許すなら、抜け駆けに分類される行いなど山のようにある。
 他者同士の利害を一致させた協定を結んだ事も、妨害される側から見れば抜け駆けだ。

「仕留める十人の側も、仕留められる一人も、そんな言葉を口にしたとて結果は変わりません」

 初めから目的は一つだ。十人の刺客が手に入れるべきは、たった一人。
 脇目を振り、目的から意識を逸らした時点で既に敗者への道を辿っていたのだ。
 それを抜け駆けだ何だと後になって叫ぶのは、子供が駄々をこねるのと同じ。

「十人の内、誰か一人が葬るべき一人を仕留めた時、きっと貴女は同じように抜け駆けだと言うのでしょう」

 音沁水を使って、花姫様と親密な関係を築く礎を作り上げたのが恭様でなくても、千代は同じ事を言っただろう。
 それは他の婿候補への哀れみから出た言葉ではない。その言葉に婿候補への慈悲などない。
 結局は、何もできなかった自分への後悔だ。十人の刺客でもなく狙われる一人でもない『外野』である事への怒り。
 意図的か、無意識かは知らない。
 しかし、己が介入しようと考えている時点で千代は間違っている。
 一歩間違えば、守るべき対象である花姫様を危険に晒してしまうほどに。

「我が主が花姫様に恋慕の情を植え付ける事に、他の婿候補達の了承が必要ですか? 花姫様が特定の異性を想う事に、従者でしかない女忍殿の確認や了承が必要ですか? 何より――、女忍殿が守るべき主、花姫様は女忍殿の了承が必要だとお考えなのですか?」
「それはっ……」

 口早に捲し立てるように一息で言い切ったオレに、千代は暫し唖然とする。
 一瞬顔を歪め、問い詰めるオレの視線を受け止めきれずに千代は衣の袖を強く握って目を伏せた。
 

「本当に女忍殿を見ていると――……縊(くび)り殺したくなる」

 冗談ではない残酷な言葉が、オレの口から簡単に零れる。
 弾かれるように顔を上げた千代を冷め切った視線で見下し、貼り付けていた笑顔を消した。

「忍を辞めろ、千代。お前の愚かさは己で主の危険を招く域に近い」

 過ちを上手く正せないままの従者は、必ず自らの失態で主を危険に晒す。
 根本を解決しないまま表面上で取り繕っても、結局被害を被るのは上に立つ者だ。

「お前では東鬼の継承権を持つ花姫様を守る事ができない。婿を選び始めた今、東鬼だけではなく他族の鬼達も強い関心を持つだろう。今までのように、危険の少ない場所で緊張感に欠けた生活ができると思うな」

 今はまだ、花姫様の婿選びの事を他族に詳しく知られていない。
 だが日が経てば経つほど他族の関心は強まり、場合によっては間者も送り込まれる。

 花姫様の立場は安全なようで誰よりも危険だ。
 東鬼の跡目を継ぐ事ができない花姫様が、誰を長に選ぶのか。そこに愛情が有ろうが無かろうが、他族にはどうでも良い事だ。
 重要なのは、東鬼を統べる実力があるか。もし力も器も持たぬ半端者が長になると聞けば、停戦協定が結ばれている現状に変化が起こる事も示唆しなければならない。
 それ以前に、東鬼の長が代替わりする事を許さない可能性さえある。東鬼が根絶やしにされる機になる事も、無いとは言い切れない――。

 そんな、常に危機感を持って生活しなければならない環境で、足枷になる考えを持つ女忍は役に立つどころか足手纏いになるだけ。
 今の千代は、東鬼の長を選ぶ事さえも邪魔しているのだから。

「もう一度言う。お前では、――――花姫様を守れない」
「っ……戯言を!」

 逆上した千代が、隠し持っていたクナイを手にしてオレに襲いかかった。
 千代が狙った先はオレの肩。急所どころか致命傷さえも与えられない場所。
 この攻撃さえも忍らしくない千代を哀れに思いながら、オレはその攻撃を難なく受け止め、怒りに顔を染める千代を床に押さえ付けた。

 丁度、泣き出した花姫様を宥める恭様と目が合ったが、其方に集中して頂く為に問題ない旨を身振りで伝える。
 恭様が再び花姫様に集中しだしたのを確認して、オレも千代に視線を戻す。
 恭様の仕掛けも大詰めのようなので、邪魔が入らないよう千代を拘束すべく懐を探って縄を取りだした。
 千代の手を縛る縄――この細紐は大変丈夫で、拘束以外にも多用できるので普段から持ち歩いている。
 専ら荷を縛るだけの活躍だったが、こうして本来の目的に使用されて細紐も浮かばれた事だろう。



 後ろ手で千代の手首を縛り終え抑え付ける力を緩めると、下からオレを睨む千代が居た。
 細い手首には紐の痕目が残り、非力ながら必死に抵抗した様子が感じられる。
 表情を伺えば、泣き出すのを我慢しているような顔。
 そんな千代に、僅かな罪悪感が芽生えたので、オレは一度深呼吸して冷淡な自分を宥めた。
 これ以上追い込まずとも、考える頭があるのだから行動も少しずつ変化していくはずだ、と判断して。

「少しきつく縛り過ぎましたね……痛くありませんか?」

 叱りつけた子供をあやすように、優しく。
 恭様がよく使う『飴と鞭』の比率を思い出しながら、オレは千代の手首にそっと触れた。

 主と同じで千代も色恋沙汰には免疫が少ないのだろう。
 ビクリと大きく反応した千代の目は、怒りと悲しみ以外に困惑が生まれた事を語る。
 指の腹を紐の淵に沿って動かすと、千代は首を激しく横に振って声を上げた。
 上擦った声が千代の動揺を露わにして、オレの悪戯心を刺激した。

「きっ、気安く触らないで下さい、この悪人!」
「私は加虐趣向を持ち合わせていますが、悪人ではありません」
「加虐趣向…………ひいいいっ、十分異常ではありませんか!!」
「失礼ですね、自覚しているので引き際は心得ています。さて女忍殿。これ以上虐められたくなければ、拘束を解いてみて下さい」
「ふん、忍を馬鹿にするのもいい加減にして欲しいものですねっ。こんな細紐でできた縄で私の自由が奪えると――って、この縄、逆に締まって……!?」
「これはまだ試作段階ですが、拘束用に私が改良した物なのですよ。紐の素材自体が特殊な作りになっているので、簡単には抜けられないでしょう?」
「何ですかその笑顔! 悪人! 変態!」
「へんた……本当に口の悪い方ですね。ついでに足も縛っておきましょうか」
「ええええっ、ちょ、嫌です、こんな芋虫のような格好……!」
「ははっ、芋虫ですか。お似合いですね、芋虫娘」
「~~~っ殺す、絶対殺す! この悪人従者めぇ!!」

 ……相手が嫌悪するオレでは、千代にとっての色恋沙汰は暴言を吐く機会にしかならない事がよく分かった。
 オレも同じく、相手が千代では小馬鹿にした言葉や、反応を見て遊ぶ事しかできない。
 手足を縛られた無様な姿で床に転がる芋虫娘、もとい千代は相変わらずの目で俺を睨みつける。
 その千代に、オレも相変わらずの様子で小馬鹿にしたような笑いを返す。
 そして更に逆上する千代。
 もはや定番になりつつあるが、オレの中では今までの感情が少しだけ変わっていた。
 気分を例えるなら、つまらないと思っていた玩具の楽しみ方に気付いた、というところだ。

「こんな風に私を馬鹿にして、さぞ楽しい事でしょうねっ!」
「楽しいか、楽しくないかで答えを出すなら前者です。私は意外にも貴女とこうしている時間が嫌いではないらしい」
「は、はぁ?」
「実力の不足している女忍としての貴女は愚鈍だが、その必死さは女鬼としての貴女を非常に好ましいと、私に思わせていますよ」
「――っ……!」

 カァッ、と赤くなる千代の頭を掴んで無理やり目を合わせる。
 それに対して驚きに目を張る千代だが、熱には浮かされず強い眼差しが返って来た。


「だから忠告だ、千代」

 額が触れそうになる距離まで顔を近づけても、千代は逃げなかった。
 オレの言葉に耳を傾け、意志の強い眼で対抗してくる千代に怖れという感情はない。

「実力が足りないのであれば努力し、オレに馬鹿にされない忍になってみろ。花姫様をお守りする立場を誇りに思い、何が何でもその地位を他者に譲るな。『守る』という事は全てを賭ける事だ。もしその時が来たなら――迷わず命を散らせ」
「全てを、賭ける……」

 ポツリと言葉を漏らした千代から、オレは近づけていた顔を離して次の反応を待った。
 沁み込ませるよう何度か口にした後、ニヤリと、『女中の千代』ではなく『女忍の千代』が笑う。
 それは、揺るぎなく固まった心根を現すような、挑発的で怖い物知らずな微笑み。
 最初と同じに見えて、内に秘めた決意の強さは格段に違うそれは、オレの口端を上げさせる程度には頼もしい。

 とりあえず、これで己の主を危険に晒すような真似はしないだろう。
 恭様を妨害するのはオレや恭様自身が阻むので、行き過ぎた行動さえしなければ良い。
 妨害と疑問は似ているが全く別の事なので、忍ならばそこから再びやり直せる。
 東鬼の長を選び始めた、この時期。他族の関心や介入を防ぐ事は難しい。
 今までの暮らしが大きく変わる事に、多くの者が認識を改め生き方を変化させなくてはならない。
 千代に偉そうな事を言ったオレも、それは例外でなく。 
 それでも、千代に忠告した言葉の最後にだけは、従わなくてはならない状況を回避して欲しいと思うけれど――。
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