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へっぽこ鬼日記 第十三話

第十三話 思慕の木
 手を繋ぎながら歩く俺と花姫様の姿は他の人の目にどう映るのだろう。
 今は一族の姫と婿候補という曖昧な関係だが、俺は誤解を招いても良いと思っていた。
 誰かとすれ違ったわけではないが、俺達を見てどんな反応があるのか少し知りたくもあった。
 奥御殿の中庭までの道程を知らない俺を、促しながら歩く花姫様は何度見ても可愛らしい。
 季節の花々を見て回りたいと話す姿が浮足立っている子供にも見えて、俺は気付かれないようにそっと笑った。


 庭に出てからは、今度は花姫様が俺の手を軽く引きながら説明を始めてくれる。
 散歩の場所として選択されるだけあって、中庭は見事な造りと広さを誇っていた。

「これは……また見事な庭ですね」
「驚かれましたか? 本殿の庭とは造りも広さも違うのですよ。本殿の庭は、主に客人をもてなす目的で造られた飾庭(かざりにわ)に位置付きます。変わって奥御殿の庭は、長い年月をかけて東条好みの造りに整えられてきました。広さもかなりのものですわ。中庭と呼ばれるこの場所と、更に先にある奥庭に分かれております」

 広々とした庭園内にはS字を描くように曲がった水路。
 その水路の元となる大きな泉には幾つもの中島が築かれており、そこへは頑丈な造りの石橋で渡れるようになっている。
 泉の形は丸や四角という単純な形ではなく歩行回遊目的の為に複雑で、俺の居る場所から見える景観に奥行きを与えていた。
 泉の中には人が行き来できそうな緑芝に覆われた場所もあれば、水面に顔を覗かせるように組まれた大きな石が群衆する岩島もある。
 実物の大きさがどんなモノなのかは不明だが、それを見ていると水上の遥か彼方に浮かんでいるようにも見えた。
 くすんだ色合いと苔の緑で覆われた岩面は、きっと冬には雪で白くなって季節を感じさせてくれるだろう。
 四季によって移り変わる草木は至るところで庭の姿を変える役目を担っていた。
 泉の淵に沿って植えられた木々は季節を楽しむ為に様々だ。今は全て緑で顔を隠している状態だが、それが春や秋になれば各々の役目をしっかりと果たしてくれるはず。
 所々に整えられた植木と様々な花が咲く花壇は主に石灯篭(いしどうろう)の近くにあり、庭のポイント的な印象を受けた。
 他にも、園内の歩行を促す敷石と飛石から成る道があった。

 もはや、ただの庭ではなく庭園だ。
 驚く事に俺が居る場所はまだほんの一部でしかないらしい。
 その規模の物が続けて二つあると考えた方がしっくりくるかもしれない。
 そんな風に花姫様の説明を受けながら、俺達は庭園の中をゆっくり時間を掛けて回った。
 朝の陽が草花を鮮やかに照らし、小鳥の囀りと俺達が地面を踏みしめる音が静かに響く。
 大敗した理性軍も穏やかに流れる時間の中で傷を癒し、その空気に本能軍も随分と落ちついたようだ。

 そして、花姫様と更に奥に向かおうとしていた頃だった。
 奥庭への道なりにある花壇の前を、白い物体が何度も往復している事に気付いたのは。
 花姫様と足を止めて問題の方向を見据えていると、その物体の正体が明らかになった。
 俺の目には、花壇の前を猛スピードで走り抜けている白猫と、花壇の周りを優雅に飛ぶ蝶が映る。

 ――……ってあの猫、ユキちゃんじゃねーか!
 何かすげぇ猛ダッシュの勢いでジャンプして蝶をハンティングしてるんだけど!?

 どうやらユキちゃんは俺の影から勝手に出て、蝶を追いかけ回して遊んでいたらしい。
 確か前にも飛んでいる蝶を追いかけて庭の花壇に突っ込んでいたような記憶が……。
 あの時は荒らしてしまった花壇を適当に直して、その場を退場したはずだ。
 もしかしたら、あのお転婆娘のユキちゃんは同じ事を仕出かすかもしれない。
 蝶もふよふよ飛んでいるから簡単には捕まらないが、あの様子では時間の問題だ。

「あの、藤見様……」
「ええ、お察しの通りです。――ユキ」

 このままユキちゃんを放置していたら悪戯をされてしまう。
 今回は花姫様も一緒なので、下手な誤魔化しはできないから早々に止めるに限る。
 そう思い立った俺は、俺の猫だと気付いた花姫様に頷いて、蝶を追跡するユキちゃんを止めるべく名前を呼んだ。
 ちょうど捕獲に成功した蝶を前足で押さえ付けていたユキちゃんは、その声にピクリと反応して返事をするように小さく鳴いた。

「蝶を放して此方においで」

 その言葉に従う意思はあるらしい。
 ユキちゃんは俺と自分の足元の蝶を見比べ、少し不服そうな動作で蝶を開放した。
 捕まっていた蝶は特に命の危険には晒されていなかったようで、開放された後は先ほどと同じように花壇の周りを飛び回っている。
 そして、名ハンターのユキちゃんは俺の言葉通りトコトコと軽い足取りで近づいて来た。

 そこでふと、繋いでいた花姫様の手が俺から離れる。
 急に消えた温もりに若干の戸惑いを感じながら花姫様に目を向けると、花姫様は俺達に向かってくるユキに目線を少しでも近づけるべく、膝を折った体勢を取っていた。

「藤見様、ユキ殿に触れてみても宜しいですか?」

 あれ、花姫様って猫が苦手なんじゃなかったっけ?
 一メートル弱の距離を保って待機したユキちゃんを見て、心なしか弾んだ声で訊ねてきた花姫様に、そんな疑問を抱いた。

 思い描くのは、昨晩の涙を流す花姫様の姿だ。
 目を閉じる事で、様々な記憶が鮮明に瞼の裏に映る。
 震えた言葉と共に溢れ出た雫は白い頬を濡らし、淡い月光に縁取られた。
 それはまるで月の光に濡れているようで、俺は全身の血液が噴き出しそうなくらいに熱くなり、簡単には次の句が紡げなくなった。
 慰める事が目的だったが、その頬に触れて涙を拭い、溢れる感情に突き動かされるまま花姫様の耳元に唇を寄せた事も事実だ。
 そして、その事実の中には、確かに苦手な猫を前にして泣き出した花姫様がいた。
 だが、その苦手意識は一夜明けると興味に変わっていたらしい。

 俺より近くに居る花姫様が気になるのか、ユキちゃんは頻(しき)りに俺を見上げては花姫様に視線を戻す。
 判断を仰いでいるような行動は猫というより、人間らしいというか……。

「構いませんよ。ですが、なるべく優しく触れてやって下さい」

 相手が陽太ならユキちゃんも牙を剥くかもしれないが、花姫様なら大丈夫だろうと思った俺はユキちゃんに目配せしながら答えた。
 ユキちゃんも異論はないようで、俺の言葉を了承して自ら花姫様に小さな体を擦り寄せる。
 最初は恐る恐る触る花姫様だったが、嫌がらないユキちゃんに安心して少しずつ撫でる範囲を広げていく。
 程なくして、警戒心が完全に消えたユキちゃんが二足立ちして抱っこを強請るようにまでなった。
 そして、にゃーんと鳴き縋るユキちゃんの鼻先を人差し指でちょんっと触りながら、花姫様が笑った。

「ふふっ、可愛い……何を話しているの? にゃー?」

 あはは、ちょっと失礼して地面転がりまくっていいかな。
 いい歳した男が両手で顔を覆ってキャーキャー叫んでゴロゴロしていいかな。
 『にゃー』が、花姫様の口から素敵な『にゃー』が出ましたゴチソウサマです!
 大好きな可愛い人と可愛い白猫ってだけで俺のツボを刺激しまくりなのに、『にゃー』と来ますか!
 花姫様は決して語尾に『にゃー』を付けたわけではない。
 ただ、単純に猫と意思疎通しようとして『にゃー』と問い掛けただけだ。
 しかしそれだけで『にゃー』の破壊力は抜群だ。この『にゃー』はある意味兵器だ。
 これはレア物に違いない。恐らく花姫様の『にゃー』など滅多に耳にする事ができないだろう。
 もしかすると花姫様も『にゃー』初体験かもしれない。つまり俺は人生で一度あるか無いかの『にゃー』を体験する事が出来たのだ。
 グッジョブ、ユキちゃん! 素敵な『にゃー』をありがとう!

 と、にゃーにゃー煩い俺だが、いつの間にか花姫様がユキちゃんを抱き上げている事に気付いて我に返った。
 ユキちゃんを抱いて立ち上がり、俺の隣に再び並んだ花姫様は腕の中の小さな命に顔を綻ばせている。
 触れる手つきは俺が頼んだ通り優しく、慈愛に溢れていた。
 撫でられているユキちゃんも、それを心地よく思ったのか……どさくさに紛れて花姫様の胸元に頭を押し付けているではないか。

 ぐはっ、な、何て羨ましい! ちょっと変わってくれ!
 変態思考が顔に出ないよう必死に我慢した俺だが、内心ではユキちゃんが羨ましくて仕方が無い。
 もし俺が同じ事をすれば、小萩さんや千代さんに限らず東条の面々にフルボッコにされ、ボロ雑巾のようになった状態で城の外に投げ捨てられるだろう。

 その情景を想像して思わずブルリと震え上がってしまった。
 だが恥ずかしい事に、花姫様に甘えるユキちゃんを見過ごせるほど大人ではなかった。
 花姫様の腕に居るユキちゃんに手を伸ばし、宙で掌を上に向けた状態で止める。
 俺の掌サイズのユキちゃんが乗るには十分なスペースだ。
 その動作を不思議そうに花姫様は見ていたが、ユキちゃんは俺の意図を瞬時に理解して行動に移した。
 俺の掌に重さを感じさせないよう乗り移り、腕を渡っていつもの定位置である俺の肩口に後ろから張り付く。
 そこに落ち着いてから一声鳴いたのは俺への報告にも、花姫様への謝礼にも聞こえた。

 抱えていた温もりが消えた事で、少しだけ寂しそうな顔をしてユキちゃんを見ている花姫様。
 その視線にさえも嫉妬して、俺はユキちゃんの渡り用に伸ばしていた手で再び花姫様の手を握った。

「抱えたままでは、手が繋げませんので」

 あと、俺がもっとヤキモチ焼いちゃいますよ。
 その言葉は何とか飲み込んだけど、本音を匂わせた俺は花姫様の目に如何映っているのだろうか。
 反応を待つ時間はどぎまぎとして余裕がない俺の心を更に緊張させる。
 ユキちゃんを遠ざけてでも手を繋いだ大人気ない俺を、拒絶しないで欲しいと願ってやまなかった。

 そんな俺の心配を余所に、軽く繋いだ手が花姫様によって指を絡め合う繋ぎ方に直される。
 そこから伝わる、どちらのものか判らない熱が俺達の繋がりを証明していた。
 決して離れないよう、花姫様が笑顔を浮かべて手に力を込めてくれる。瞳に俺の姿を映して輝いたその表情がまぶしい。
 どうやら俺の自分勝手なワガママを受け入れてくれるようだ。
 感極まって自然と笑みが洩れそうになる。
 咳払いを一つして、俺は緩みそうになる口元を隠すためにもう片方の手で口元を隠した。
 そして、まだ暖かさの残るそれを今度は俺から握り返して、奥庭に続く道へ歩みを進めた。

 俺と繋がる花姫様の手は白く細い。
 この手が握り返してくれるだけで、どれほど胸が打ち震えたことか。
 きっと花姫様は知らないのだろうと、俺は花姫様の手を引きながら思ったのだった――。



◆◇◆



 あんぐり。
 まさにその言葉が今の俺には相応しいだろう。
 先ほどの庭園を目にして驚いた俺だが、それを凌ぐ景色が俺を待っていたのだ。
 そう、奥御殿の中庭の更に奥、通称『奥庭』には俺の想像を遥かに上回った世界が広がっていた。

 陽の光により鮮明に映るはずの庭全体には薄い霞みが掛かり、白い花と緑芝の先にはアクアブルーに透き通った小さな泉。
 その泉の上にある中島に向かって白の石橋が架かり、中島の中央には長い枝を左右に伸ばした薄水色の葉や蕾を付ける不思議な木が一本あった。
 どこからともなく、鳥の羽ばたきの音と囀りが一つ。
 風が緩やかに枝を揺らし、抜けたそれが覚えのある香りを俺に運んだ。


 ここは本当に東条の城内なのか。
 先ほどまで歩いていた庭と同じ名前で呼べる場所なのか。
 天上世界の一部を切り取って、そのまま移したような場所が、同じ世界とは思えない。
 呆然とする意識の中でそんなことを考えていた、なんて口に出してしまえば呆れた顔をされるのだろう。

「藤見様、如何なさいましたか?」

 言葉を告がない俺を心配した花姫様に、繋いでいる手を軽く引かれる。
 感じる視線の方向を見れば、花姫様の瞳がじっと俺を捉えて離そうとしない。

「失礼ですが、あの木は一体……?」

 単なる好奇心だが、あの不思議な木が気になった。
 交差していた視線を外して、もう一度水色の木に熱い視線を送る。
 水色に輝く葉や蕾を持つ木など、今までに見た事も聞いた事もない。
 もし閉じた蕾が開いたならば、どれほど美しい花を咲かせてくれるのだろうか。
 その木を目に焼き付けるために近づく理由を探しているけれど、その言葉を直接口にする事は出来なかった。
 神秘的で、幻想にも思える木に近づく事を、恐れ多いと感じている臆病な自分が居るからだ。
 下からじっと見つめられて居心地の悪くなった俺が目を向ければ、まだ俺を見ていた花姫様の視線に再会する。
 その視線を投げかける目はとても優しく、くすりと笑う花姫様を見て俺は思わず俯いてしまった。


 そんな俺の気持ちを汲んでくれたのか、花姫様は自ら先に歩き出して俺を不思議な木の下まで連れて来てくれた。
 遠目からは大木に見えたが、実際に近づいてみると普通の木と何ら変わりない。
 だが薄靄(うすもや)の中で露に濡れたようにキラキラと輝く葉と蕾は明らかに現実離れした物だ。

「これは思慕(しぼ)の木と呼ばれております」
「思慕の木、ですか」
「はい。この木は触れる者の――……」

 呆けたままの俺への説明のために口を開いた花姫様だが、木の名前を教えてくれた後は何故か口を噤んでしまった。
 ぱっと繋いでいた手が離され、視線はきょろきょろと泳いでいる。
 触れるべきか否か手を宙に何度も彷徨わせ、自分から求めているのかと思えば、そうでないような節もある曖昧な動作だ。

「……花姫様?」

 呼びかけた声は空しく空気に消える。
 いきなり落ち着かない様になった花姫様の名前を呼んでも、返されるのは意を汲めない視線だ。
 何か問題でも起こったのだろうか、と確認しようと口を開きかけた俺は、花姫様の手が力の込め過ぎで白くなるくらいきつく桜色の打掛の袖を握りしめている事に気付いた。

 まずはそれを何とかしようと思った俺は、平静を装って花姫様を止めるべく自分の手を伸ばそうとした。
 が、傍に寄る俺を、媚びのない透明な眼差しで真っ直ぐ見据える花姫様がひどく幼げに見えて、俺の戸惑いを誘う。
 そして、その僅かな隙をついて花姫様が俺に向かって次の言葉を紡いだ。

「思慕の木は……、その、この木は……」

 その言葉が説明の続きである事を理解するのに、一拍ほどの時間を要した。
 力強く握っていた手からは俺の願い通り袖から離れたが、今度は胸の前で何かに祈るように組み直された。
 触れ損なった事は残念だが、花姫様の意志で成るそれを無理やり解かせる権利は俺には無い。
 まぁ、袖を握っていた時ほど力は込められていないようなので安心して良いだろう。
 お祈りポーズの花姫様を見て、これはこれで可愛いなと胸を高鳴らせながら言葉の続きを待った。

「ふ、触れる者により逐一色が変わる、東鬼の地に一本しか存在しない木です。あの、藤見様も興味を持たれたのでしたら、お触りになっては如何でしょうか?」

 ひえー、一本しか存在しないなんて国宝じゃん。
 国宝なら神秘的な生え方をしているのも納得できる……――って、え、俺が触っても良いの? 

 花姫様の思わぬ申し出に、様々な思考が渦巻いて反応が遅れた。
 確かに、『触れる者によって色が変わる』という言葉に興味を引かれた。
 触ってみたいと思った矢先のことだから、その言葉は純粋に嬉しい。
 が、国宝級の物に俺のような一般人が何の知識もない状態で触って大丈夫なのだろうか。

 ……いや、何か恐れ多くて触れねーわ。
 もし俺が触って、この綺麗な水色から変な色になったら問題になりそうだし。
 俺って結構後ろめたい事も考えるから、かなり汚い色になると思うんだよね。
 奨めてくれた花姫様には悪いけど、今回は断らせてもらおう。
 自分の知りたくない部分を知ってしまいそうで怖い上に、やはり恐縮してしまうから。

 そんな理由から、チキンすぎる結論を出した俺は眉を八の字に下げて首を横に振った。

「このように貴重な木に、私などが触れる事は許されないと思うのです」
「そっ、そのような心配は無用ですので、ご安心下さい!」
「ですが易々と触るにはあまりにも……」
「思慕の木に触れる事は、だ、誰でも可能でございます」
「しかし、」
「どうかお願いします、藤見様……っ。一度だけ、一度だけで良いので思慕の木の枝に触れて頂けませんか……?」

 だが、意外な事に花姫様がその事について譲らない姿勢を取った。
 落ち着きがない状態のままだが、縋りつく様は俺の結論をグラグラと揺るがし、同情を誘う。
 そして最後は『お願い』という手段にまで出た花姫様を拒む事などできない。
 祈り縋るような形で組まれた手は胸の前にあり、くりりとした大きな瞳で上目遣いに小首を傾げながら願う姿は最高に可愛らしく、どんな願いでも聞き届けたくなる威力があった。

 もともと俺は好きな子を甘やかすタイプなので、可愛らしいお願いに弱い。
 それが今まさに実行されている現状を感謝し、否応なしにも気分は上がっていく。
 しかし急上昇していく俺の機嫌とは逆に、花姫様の気持ちはネガティブ方向へ下降しているらしい。
 不安の色を浮かべる花姫様を見て、胸の奥から湧き上がった嵐のような愛おしさに目が眩んだ。
 けれども、涙を流す花姫様の顔も好きだが、泣いて欲しいとは思わない。
 だから俺は、花姫様の安心を誘う目的で少し口調を和らげて甘やかすような声を出した。
 それを聞いて、少しでも花姫様が喜んでくれたなら俺も幸せだ。

「では、御言葉に甘えて」

 サクサクと地面を踏みならして、俺は思慕の木から伸びる枝に手を伸ばした。
 その拍子に、肩に乗ったままだったユキちゃんが地面に降りて俺の邪魔にならないよう影の中へ戻る。
 気が効くなと思いながら、特に無理なく伸ばした位置にある枝は小さな水色の蕾と葉が多く付いているモノ。
 色が変わるという事だが、変な色にならない事だけを祈って俺は枝の先端に少しだけ触れた。
 すると、触れた指に温かで浸透するような感覚が残った。
 湯船に手を浸した時に似た感覚に親近感を覚え、無意識の内に固くなっていた身体から自然と力が抜けていく。
 そうして、時間にすると十秒ほど経過した頃だろうか。
 急にザァッ……と思慕の木の枝全部を強く揺らすほどの風が吹き抜けたのは。
 あまりの強さに俺は反射的に目を瞑ってしまい、水色の視界が閉ざされた黒に塗りかえられる。
 枝に触れていた手を離しそうになったが、何とか我慢して風が抜け切るのを待つ。
 葉が風に揺らされて大きな音を立て、はらはらと俺の頭や頬を掠めて落ちていくのを感じた。

 そして吹き荒れていた風が収まり、閉じていた眼を開けた次の瞬間――。
 俺の視界に広がったのは、先ほどの水色ではなく……新雪を映したように見事な『白』だった。

「これは――……」

 色が変わるとしても、触れている枝の葉と蕾が少し変色する程度だと思っていた。
 だが、現実は俺の適当な予想を超越して思慕の木全体の色を『白』に変えたのだ。
 露に濡れた葉や蕾は水色だった時より輝きを増し、思慕の木という存在をより神秘的に見せる。

 すっげー、本当に木の色が変わった。
 枝の先に少し触れただけで変色するなんて、どんな仕組みなのだろうか。

「藤見様……」

 そんな事を考える俺の耳に、震えたような花姫様の声が静かに届き、力なく四方へ広がり消えてゆく。
 それを追って思慕の木に魅了されていた視線を声の方向に移すと、俺の名を口にした花姫様が呆然と佇んでいた。
 よく見れば声だけではなく、その細い体も震えている。いや、震えているというより――……。

「は、花姫様っ、どうされたのですか……?」

 ええええ! ちょ、花姫様が泣いてるんですけどおぉぉ!?
 ななな何、どうしたのっ? 本当は余所者が木に触っちゃダメだったとか!?

 焦った俺は慌てて花姫様に駆け寄るが、花姫様は涙に濡れた黒曜石の瞳で真っ直ぐに俺を見つめるだけだ。
 涙の原因が何か不明な俺には、何をどう言えば良いのか分からない。
 かけるべき言葉を探すことすら出来ず、今ばかりはもう少し滑らかな舌がほしいと切実に思った。
 そして、どうしようかと無駄な時間を考えに費やしてしまった結果。
 状況が良い方向へ動くはずもなく、俺との言葉無い間にも涙は零れ続け、ついにはぐずぐずと鼻を鳴らして花姫様が本格的な『泣き』を始めてしまった。

「藤見様っ、わたし……、」 

 また名前を呼ばれたと思ったと同時に、身体をふわりと柔らかな熱が覆った。
 気がつけば自分の零れる涙を拭っていた花姫様の手が、俺の背に回っている。
 抱き付かれている、と認識した途端に全身が硬直した。
 その変化を捉えたのか、花姫様の背に回った手に更に強く力が込められた。
 と言っても、か弱い女性の力では痛くも痒くもない。

 混乱する頭で状況を整理しだした俺は、そろり、と視線を下げて丁度胸元にある頭を盗み見た。
 すんすんと鼻が鳴る音が聞こえるので、未だ涙は止まっていないらしい。
 とりあえず直ぐに打開策は思い付かないので、行き場のない手は花姫様の背中に回し返しておいた。
 すると、その途端に花姫様の震えが止まり、固さが抜けた身体を俺に委ねて来たではないか。

 え、何これ。今日って俺の誕生日か何かだっけ?
 いやいや、タオル的な意味で花姫様が抱き付いて来た事は分かるけど、俺ってば超幸せ者じゃね?
 ありがとう神様! 好きな子に抱きつかれるなんて、何て素敵なサプライズ!
 こんな風に幸せな時間を過ごす機会なんて滅多に訪れないと思うので、心行くまで堪能しようと思いますっ。
 頭の中では女性デュオが歌って踊る、男は狼な曲が流れているが無視だ無視!

 そこで冷静さを欠いて調子に乗った俺は、花姫様を抱き込むような体勢で両腕を回してみた。
 花姫様の身体から漂った甘い香りにあてられ、頭がくらくらとする。
 こんな風に触れる機会など滅多にない俺は、その小ささと柔らかな感触に戸惑いが隠せない。
 が、それ以上に、嬉しさにデレっと緩んでしまいそうな顔を何とか取り繕って、良い高さにある頭に唇を寄せた。




 一体、どれほどの時間が経過したのだろう。
 心地好い静寂に時間の流れを忘れ、感じる温もりに完全に慣れた時――。
 ようやく落ち着いた花姫様が、俺の腕の中でもぞもぞと抱擁から抜け出そうと動き始めた。
 もちろん、簡単に解放する気のない俺は腕の力を緩めるだけに止め、それ以上離れる事を許さない。

 僅かに出来た隙間で精一杯の抵抗を試みた花姫様と、一度視線が合い、すぐに逸らされる。
 そんな花姫様を見て俺はため息を一つ吐く。
 次に片腕は背に、もう片方は頭に、そして触り心地の良い髪に自分の頬を擦り寄らせた。

 少しうつむいた花姫様の頭を撫でながら思う。
 花姫様は素直な反応をする方だが、自ら何かを求める事には酷く臆病だ、と。
 だから、こうやって感情を素直に表してくれることがことのほか嬉しい。
 唐突に泣き出したかと思えば甘えるような仕草を返されて、どうすれば良いのかと俺を混乱させたが、向けられた縋るような視線や、差し出された手の感触が今でも手や背に残っている。
 結果的にはそれに応えるように抱擁を返したが、それが本人にとって良い事だったのか、悪い事だったのかは分からない。
 だが、他の婿候補達の隣に立つ姿を想像する事さえも拒むほどの嫉妬心は、俺の心を囚えて離さない人が出来たからだ。

 触れあっていれば、温もりと共に伝わる鼓動が気持ち良いと感じる。
 だが、本当は落ち着いても仕方がないと考える時もあり、そんな矛盾に俺は溜息を吐く。
 安心できる場所だと認識してくれるのは嬉しい。
 しかし、やはり恋焦がれる身としては相手にも同じ気持ちであってほしいと思ってしまうのが恋情というモノだ。
 同じだけの愛情を返して欲しいとまでは言わない。
 だけど、その一割でも良いから自分の行動に胸を高鳴らせて欲しいと思うのだ。
 こうして抱きしめている間も、自分は安心感を覚える以上に熱い想いを滾らせている。
 それを理解しろとも言わない。
 だが、安全だと思える人物も、時には情を露わにする事を知っておいて欲しい。


 ――……そんな事を考えたせいか。
 気が付けば、俺は花姫様の頬に掌を這わせていた。
 甘い香りに誘われるまま、ほぼ無意識の内に傾けた形で顔を寄せ、はっと気付いて閉じかけていた目を見開いた。
 すると、視界に映ったのは、同じく目を張って息を止めたままガチガチになっている花姫様の顔だった。
 その様子は見るからに必死で、俺は謝罪の言葉を発さずに苦笑した。
 朱色に染まった頬を見て、嫌がっているとは思わない。
 だが、気持ちと雰囲気に流された自分が無理をさせてしまった事は明白だ。

 触れるまで数センチという距離をそれ以上近づけないように気を配りながら、俺は徐々に花姫様から顔を遠ざけた。
 本当は離れがたくて仕方無いが、その気持ちを何とか押し殺して花姫様の頬から手を引き剥がした。
 離した手は何処に向かうべきかと行き先に惑い、逡巡して結局は花姫様の頭の上へ運んだ。
 浮かべた笑みは苦し紛れのそれだと察知されないで欲しいと思った俺だが、次第に表情を変えていく花姫様に首を傾げてしまった。
 何故か花姫様は自分の口元を指で触れながら、肩すかしをくらったかのような顔をしているのだ。
 もしかすると、花姫様も覚悟してくれたのかもしれない。
 そんな考えが脳裏を過るが、急ぎすぎると結果が伴わない可能性は否めないので、それ以上の行動は慎む事にした。

「そろそろ落ち着かれましたか?」
「え……?」

 突然の問い掛けに、花姫様はパチクリと眼を瞬かせた。
 どうやら俺の言葉は即座に耳へ馴染まなかったようなので、もう一度同じ意味合いの言葉を口にする。

「涙は止まったようですね」

 花姫様の目元に指を這わせ、スッと拭うように一撫ですると、言葉の意味を理解した花姫様の顔がみるまに赤くなった。
 返す言葉を探そうにも見つからないようで、花姫様は顔を赤くして眼をうつろわす。
 その動揺っぷりに思わず笑い声を立ててしまいそうになるが、さすがに意地悪が過ぎると思って口を緩めるだけにした。

「申し訳ありません、取り乱してしまって……」
「花姫様に大事が無ければ良いのですよ。ですが、差し支えなければ理由をお聞きしたいと思っております」

 と繋げれば、花姫様は複雑そうに顔を歪めて理由を言い渋った。
 花姫様は何度も目を泳がせ、どう言えば良いか思案しているようだった。
 流れで察すべきなのかもしれないが、如何せん相手が無知な俺では望みが薄い。
 この情けない表現はあながち間違いではないのだが、俺としても理由なく泣かれた事が気になっているため、後の参考にも知っておきたかった。
 だから少し卑怯かもしれないが、俺は表情を崩さないまま、絶対に頷いてくれるであろう言葉を選んで口にした。

「無理にはお聞きしません。花姫様の涙の原因を生み出した張本人の私には言い難いでしょうから……」
「ちっ、違います、誤解です藤見様っ! わたしが泣いてしまったのは藤見様のせいではありません……!」

 ハイ成功ー。ネガティブ演技で騙してゴメンね、花姫様。
 幾度の会話から学んだ事だが、意外にも花姫様は他者の感情という物に敏感だ。
 姫という立場故に身に付いた物なのかもしれないが、意識せずとも言動から感情を汲む技術は大したもの。
 この美点に花姫様との会話中に何度も助けられた俺が言うのだから、間違いない。
 今の会話は、それを利用させてもらっての成果だ。
 『諸悪の根源は俺なんだ、しょぼーん』と落ち込んだ俺を、泣き出した本人の花姫様が本当の理由と比べないはずがない。
 例え俺の演技が真実だったとしても、言葉巧みに『気にするな』と口にするはず。
 それに、先ほどの花姫様の返答から『俺のせいではない』事が分かった。 
 ――あとは花姫様の口から語られる理由を聞くだけだった。


 花姫様の涙を見て困惑しないためにも、涙の理由を知っておきたい。
 と、まるで問題の解答を聞くような心構えでいた俺だが、花姫様の言葉を耳にした瞬間、俺の冷静な部分が易とも容易く打ち消されてしまった。

「その、じ、実は少し具合が悪くなって……。そ、そうっ、身体が辛くて思わず涙が溢れ出てしまったのです!」
「具合が……!?」

 そりゃマズイ! 泣き出すほど辛いなんて、余程の事だ!!
 朝の風は少し冷たく感じるかもしれないから、油断しているとすぐに風邪をひいてしまう。
 特に、花姫様は身体の線が細く俺としては何時か病に陥ってしまうのではないかと不安だ。
 身体を冷やしていないかと、慌てて触れた花姫様の肩口は細い。先ほどまで繋いでいた手も最初は内心驚いたものだ。

 語られた『理由』を聞いて焦った俺は、抱きしめたままだった花姫様を離した。
 次いで頭部にあった手で前髪を上げ、さらさらと指の隙間から落ちる髪を何度も払い除けながら生え際をゆっくりとなぞる。
 隠れていた花姫様の額を露わにし、俺は何の迷いもなく自分の額をそこへやった。
 
 額に感じる熱は俺と同じか、それより少し高い程度か。
 思ったほど有効でなかった手段に舌打ちしたい気持ちを抑え、俺は合わせていた額を離した。
 やはり知識のない俺があれこれやるより、部屋に戻って医師を呼ぶ方が手っ取り早い。
 そうと決まれば行動に移すべきだ。
 花姫様の前髪を元通りに撫でて直した俺は、呆然としている花姫様の背を押して奥庭の出口へと歩きだした。

「部屋に戻りましょう、花姫様。これ以上具合が悪くなる前に休むべきです」
「え……、部屋に? あのっ、もう平気なので、もっと藤見様と……」
「なりません。あまり駄々を捏ねるようでしたら抱き上げてお連れしましょうか」
「抱き上げて……、っ、だだだ駄目です、重いので結構です!」
「昨晩も貴女を抱きましたが、そのような問題はありませんでしたよ」
「ふっ、藤見様っ、そのお言葉は――」

 どうやら花姫様に、俺の提案を受け入れる気はないようだ。
 散歩を嫌がる子犬のような可愛らしい抵抗と抗議をする花姫様を脳内でねじ伏せ、強行手段を選択する事を決めた。
 その瞬間、何かに気がついたかのように、花姫様が身体をビクリと肩を震わせた。
 おや、と思ったが車が急に止まれないのと同じで、既に動き出していた俺の手も止まらない。

「きゃあっ!」

 短い悲鳴と共に、花姫様の顔が真っ赤に染まる。
 口をパクパクとさせた花姫様が何を言おうとしているのかは、もちろん理解できている。
 その答えを返すように笑みを隠さずに浮かべると、今度は真っ赤な顔を両手で隠して小さくなってしまった。
 その愛らしさに細めた眼を更に細くして、俺は可愛らしい姫を抱き上げている両腕に力を込める。

 抱きしめたいという思いがないわけではない。
 だが、今はこの傍に在る温もりをただ感じているだけで満足だ。
 今この瞬間は自分の物だと、確認するように早鐘を打つ自分の鼓動に耳を傾け、俺は庭の芝を強く踏みしめたのだった――。

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また読めてうれしいです
  • ちか
  • 2013/03/28(Thu)22:31:59
  • 編集

ありがとうございます

コメントありがとうございます。
そんな風に感じ続けて頂けるよう、これからも努力致します…!

田中莎月
  • 2013/03/31 01:50