へっぽこ鬼日記 第三話
第三話 黒の黙示禄
初老の女性に案内された場所は、何畳あるのか尋ねたくなるくらい広い部屋だった。
部屋の中にはすでに二十近くの人が集まっており、俺が室内に足を踏み入れたと同時に視線が集まった。
まるで品定めでもするような視線に恐縮してしまったが、何とか姿勢を正したまま我関せずという態度を取り続ける。
見つめ返す、なんてマネはしない。何故なら、視線が合った瞬間ケンカを吹っかけられたら困るからだ。ケンカはダメ、だって痛いのヤダもん。
そんな俺の態度が良い方向に転んだのか、集まっていた視線は程なくして興味を失ったように消えてしまった。
名家の顔合わせというからには、この場に居るメンバーが該当者なのだろう。だが何のための顔合わせか、理由が分からない。
だから、特にやる事もない俺は、お返しとばかりに横目で室内にいる人達について探ることにした。次は俺が観察する番だ。
二十人ということは、俺と陽太のように主従が一組(セット)とするなら、十組の主従がいる事になる。
主従と言ってもさまざまで、陽太のような付き人は幅広い年齢層だ。恐らく最年少は陽太だが、渋くて素敵なおじ様も居れば今にもポックリしちゃいそうなお爺さんも居る。
ただ、主に該当する者は俺と同年齢くらいの人が多い印象を受けた。
各家の当主が来ているのだと思っていたが違ったようだ。俺のように息子や弟を代理として、という事なのかもしれない。
しかし、俺の場合は厳密に言ってしまえば違う。
城までの道中で陽太の愚痴から得た情報によると、俺――藤見恭――の父親は、道楽三昧の息子に痺れを切らせて、顔合わせに参加するようにと強制命令を下したそうだ。
つまり……片や、家の代表として華々しく送り出されたお坊ちゃん。片や、ぐーたらな生活を親に激怒され強制となった馬鹿息子、という決定的な違いがあるのだ。
オイオイ。何だ、この差は…。
無事に顔合わせを終えたとしても、家に帰った瞬間、抜刀した親父が出迎えるとか勘弁してくれよ!? 親父の顔知らんけど。
そんな風に数日先の自分の身を心配していると、どこからか甲高い鐘の音が数回聞こえた。城内に響き渡るこの音が意味するのは――
「時間みたいですね」
陽太の言葉通り、これが刻限を知らせる音なのだろう。門の所で会ったお爺さんも刻限のことを言っていた気がするので、間違いないと思う。
俺達がこの広い部屋に案内された後は誰も増えていない上、鐘が鳴るまであまり時間がなかったことから、実は俺もギリギリだったという事が分かる。
その鐘が鳴り終わってしばらくすると、この部屋に向かってくる数人の足音が廊下から聞こえた。
気付いたのは俺だけではないようで、他の物たちも背筋を伸ばして部屋の入り口の襖を真剣に見つめている。
そして、完全に足音が部屋の前で止まると襖が左右に音も無く開き、華美な着物を着込んだ中年の恰幅の良い男がドカドカと部屋に入ってきた。
“恰幅の良い男”と表現した通り、着物を着ていても分かるポヨンポヨンの腹部が目立つ。
たぶん、この人が東の鬼一族で一番エライ人なのだろう。
うーん……。一族のトップというからには、シャープなナイスミドルを想像していたのだが、どうやら俺の予想は外れたみたいだ。
ちょっと夢が壊れたかも? と思っていたら恰幅の良い男――もうポッチャリさんでいいや――に向かって周りの人達が床に頭を付けるようにしていることに気づいた。
うおおお! 見た目で油断していたけれど、ポッチャリさんは超エライ人だった! ヤベ、完全にタイミングを逃した。どどど、どうしよう!?
顔や行動には出さないが、内心で焦りまくっていた俺は失態を回避する道がないか、と周りを視線だけで探った。
すると、嬉しい事に俺以外にもタイミングを逃した者が数人いたようで、ポッチャリさんに頭を下げていなかった。
それを見て安堵し、ニヤけそうになる顔を引き締めたのは言うまでもない。名付けて、『赤信号皆で渡れば怖くない』作戦だ!
……なんて胸を張ってみた俺だが、やはりポッチャリさんの行動が気になる。
多くの人が頭を下げている中、俺を含めた数人だけが不動のままじっとポッチャリさんの動きを待っていた。
そんな俺達の視線に気付いていると思われるポッチャリさんは、上座の近くまで歩みを進めた。
そして、何故かその場所に座らず俺達の方を振り返って室内を一通り見渡した。次いで満足気な表情を浮かべたポッチャリさんは、部屋に入る時に後ろに付いて来た人たちに向かって頷いてみせた。
音もなくその中から一歩前に出たのは、俺を城門の中で迎えてくれた初老の女性。
頭の上に疑問符を浮かべたまま、成り行きを見守っていることしかできない俺を余所に、よく通る声で彼女は淡々と言葉を紡いだ。
「頭を下げている方はお帰り頂きます」
……はい?
俺は頭を下げていないので対象外であるが、何を言われたのか理解できなかった。
その言葉に、頭を下げていた人達は慌てて顔を上げ、初老の女性を見る。多くの視線が集まるその人は、気品溢れる姿であるからこそ、淡々とした言葉と表情に凄みが増しているような印象を受けた。
注目を集めても変わらず堂々としている彼女は、半ば呆けている者達に理由を語った。
「東条家当主の顔も知らぬ方に話などありませぬ。いくら名家の出身であろうとも、当主と使用人の区別もできぬ方に話は不要」
チラリ、と彼女が見た先には上座から少し離れた場所に移動しているポッチャリさん。
釣られるようにしてポッチャリさんを見た者達の顔が、怒りや困惑に満ちた。
「幸いな事に城下には多くの宿がございます。そちらで各当主殿への言い訳をお考えになりながらお休み下さいませ。――さぁ、早々にお帰りなさい!」
うわぁ、そういう事ですか。
つまり、ポッチャリさんは東条家の当主に見せ掛けたダミーさんなんだ。
東の鬼一族の長と、単なる使用人であるポッチャリさんを見分けられない者は強制退出。
あ、危なかった……。タイミングが合っていたら、俺も頭下げていたに違いない。
パンパンと手を叩きながら捲くし立てる女性のおかげで、安堵の息を吐いた俺には誰も気付かなかったようだ。
そんな俺とは逆に、頭を下げてしまった人は素直に納得できない。
明らかに雑になった対応と言い捨てられた言葉に苛立ったのか、帰れと告げられた者達は女性に向かって声を荒げ始めた。
不機嫌さを隠しもせず立ち上がった数人は、怒りで顔を赤くしている。その中でも特に怒りをあらわにしている男達が、一際大きな声でその女性に一歩近づいた。
「おのれ、無礼者め……っ。貴様、私を誰だと思ってそのような対応をしておるのだ!」
「貴方様の事はよく存じ上げております。お家の名にご本人の器量が足りぬ方である、と」
「な、何だと!? ええい、たかが使用人の分際で生意気な! 貴様など斬り殺してくれるわ!!」
激情した男が腰の刀を抜き、それに釣られて他の男達も続いて女性との間合いを取った。
ピリピリとした空気が広間を満たし、生の時代劇に近い状況に心の中で感動している俺と、陽太以外が攻撃態勢を取っている。
陽太のことは単に自分の後に控えているので姿が確認できないだけだが、怯えたり戸惑ったりしている様子は感じられない。
クスッ、と小さな笑い声だけが聞こえてきたので、恐らく状況が飲みこめずにいるだけだろう。
まるで時代劇のようなシーンに、エキストラの立場にいる俺は不謹慎にも少しワクワクしていた。
テレビでしか見た事のない状況を、もう少し近くで見せてもらいたいと思うくらいにはテンションが上がっていた。
もちろん、刃物を向けられている女性を助けるべきだとも思った。
だが、女性の後に立っているポッチャリさんを含む他の使用人達が、特に焦った様子もなく静観するような雰囲気を醸し出しているので、心配には至らないと判断したのだ。
使用人達の中には、明らかに『武士』のような身なりをした人もいるので、いざとなれば彼等が動いてくれる気がした。
それに、俺みたいな一般人が止めに入っても反撃されて一撃でお陀仏に決まっている。
そうして、俺はこの場を見届けることに決めた。
――が、二人を見つめていると、男達の進行方向に黒い塊があることに気付いた。じっとその物体を見つめて、塊の正体が何か観察する。
ん~……? あの畳汚れてないか? シミやゴミかな? もしかして墨? いや、虫のような気もするけど……ここからじゃよく見えな――って、ゴキ様だあぁぁぁ!
イヤァァァー! 俺、虫ダメっ、虫嫌いなんだよおぉぉ! だだだ、誰か早くゴキ様をお外にご案内してさしあげて下さいっ。間違っても仕止めようなんて思わないように!
理由? ばかバカ馬鹿、仲間の逆襲が怖いからに決まってるでしょ! え、自分でやれ? むむむむ、むりムリ無理! だって怖くて現在進行形で動けません。
ヤツが近くに来ない事を祈るだけしか……ギャアアァ徐々に距離が近づいてるよ! ヤツ、だなんて呼び方してゴメンなさいゴキ様ああああ!!
「っ、恭様……!」
どうした陽太、そんな焦った声を出して。今取り込み中だから後にしてくれないかな?
さっきまで笑っていたのに顔色が悪くなっているのが少し気になるけど、話はゴキ様がお帰りになってから――って、そうか!
ははーん、陽太。実はお前もゴキ様が苦手なんだな? さすが同胞。幽霊もゴキ様も苦手だなんて、本当に気が合うな。もはや俺達は主従ではなく親友だな!
大丈夫、心配しなくても逃げ出す準備は万全だし俺は親友を置いて行きはしない。
自慢じゃないが逃げ足には自信があるんだ。ピンチになると驚きのスピードだよ? 陽太の足が遅くても引っ張ってやるから安心しろ!
……なーんて、あっはっはー。本当に自慢になってないよ、笑えてきちゃうね!!
「き、貴様、一体何を笑っておるのだ!」
おっと、誰だよ。この緊張した空気の中で笑ってるヤツは。そりゃあ、真剣な人達は怒るに決まってるよ。
そういう問題は自分の非を認めて、早く謝れば大抵の場合なら許してくれ――……あれ?
チクチクと突き刺さる視線に疑問を持って時間をかけて周りに目を配ると、室内にいる全ての人の視線が俺に注がれていることに気付いた。
意味が分からず、何となく笑ってその場をやり過ごそうとしたら声を上げた男の視線が更にきつくなった。
その反応から、男達の怒りの矛先が自分なのだと俺はやっと気付いた。男の言葉から察するに、どうやら変な誤解を招いているらしい。
心の中でゴキ様に謝罪し、同じ弱虫仲間である陽太と逃亡することを考えていた俺の何かが逆鱗に触れたようだ。
先ほど自分で言った通り、俺は早々に自分の非を認めることにした。……ただ、ゴキ様が苦手だという点は恥ずかしいので伏せておく。
「私はただ、いつ逃げ出すか、と考えていただけですよ」
「に、逃げ出すだと……? 一体何に逃げ出すと言うのだ!」
「貴方は酷い人ですね。それを私の口から言えと? ――こんなにも近くにいるのに、まだ気付いていないのですか?」
徐々に俺達に近づいてきているゴキ様に……!
ま、まぁ、そりゃそうか。こんな綺麗なお城にゴキ様が居るなんて夢にも思わないよな。俺も考えてなかったもん。実際目の当たりにしちゃうと所詮夢だったけど。
言葉の意味が理解できなかったのか、刀を持った男はポカンと呆けた表情で俺を見返していた。
ゴキ様の件は口に出したくないので、これ以上話すことはないとばかりに男から視線を逸らす。
と、――次の瞬間、俺とその男に向かって四方八方から黒い物体が飛んできた。
「――……っ」
一瞬にして、頭の中が真っ白になった。
理由は単純明白だ。この状況で黒い物体が何かなど、考えるまでもない。
声を上げなかった自分を褒めてやりたいと思う。いや、上げる暇など存在しなかったんだ。息をする事さえ忘れるほどに、それは俺の全てを支配したのだ。
“黒い物体=ゴキ様”の方程式が頭の中で確立され、気がつけば俺は無我夢中で鞘がついたままの刀を振り回していた。
刀なんて持っていたか? という疑問が一瞬だけ脳裏を過ぎるが、それどころではない。
今は最悪の事態を回避する事が先決だ。全身でゴキ様を拒否する動きも忘れずに。
って、冷静に実況してみたけどやっぱりゴキ様はイヤアアアァァァ!
黒い物体が増えたようにも見えたけど、まさか仲間のゴキ様達が助けに来たの!?
迷いゴキ様を助けるために馳せ参じられたんですか? 集団で襲撃ですか? 何でその対象が俺なの、ちょっ…ヤーメーテー! ま、まさか服に引っ付いてないよね? ……うおおおおっ、考えるんじゃなかったっ!
服にゴキ様が付いていることを想像して焦った俺は、更に力強く振り払った。
恐ろしくて目を開くことができない状態のままだが、確実に手応えがある。
時折、金属音や押し殺したような声が聞こえるが自分のことで精一杯の俺に確認する術は存在しなかった。
そんな無茶な動きをしていたのが原因なのだろう。
息を止めていたのも合わさり、頭に血が上ってしまい、体が大きく傾いてしまったのだ。
崩れ落ちそうになる膝を心の中で叱責し、俺は脚に力を入れた。一度後方に下がり、体勢を立て直すために、だ。
もちろん、床に居るゴキ様をプッチンしないよう細心の注意を払い、できるだけ遠方に飛び退くことを意識した。
かなりの数のゴキ様を叩き落した気がするので、きっと畳の上は大惨事だ。
そして、無事に数歩飛び退いた先には、しっかりとした畳の感触があった。
間違っても俺が想定している大惨事(プッチン)の影響を受けていない場所だ。
もう大丈夫だろう。目を開くことに勇気が必要だが開かねば何も進まない!
そう考え、安全圏まで移動できたと思った俺は、心して今まで閉じていた目を開いた。
「…………は?」
しかし、目を開いた先は俺の予想とはかけ離れた光景があった。
ゴキ様が大量にいると思っていた畳の上には突き刺さった手裏剣やクナイ。
抜刀していた男達は、手裏剣やクナイの持ち主だと思われる忍装束の者達……忍者に縛り上げられている。
そして俺から少し離れた場所には、フラフラと今にも倒れそうな忍者が二人。更に視線を隣に向ければ、ちょうどそのタイミングでクナイを忍者の一人に投げ返した陽太。
あれれー……? 何この状況、一体何が起こったの?
に、忍者さん大丈夫ですか? 立ち上がらない方が良いのでは?
それに陽太も危ないからそんなモノ投げちゃダメだろ!
咎める意味を込め、俺が横目で見やった陽太は、視線に気付いた瞬間に頬を緩めて頷いた。え、意味が分かりません。
あの、どなたか俺に説明をお願いしても宜しいでしょうか……?
混乱する俺と、上機嫌で俺の後ろに再び控えた陽太に、周りの人達がゴクリと息を呑んだ事は全く気づかなかった。
部屋の中にはすでに二十近くの人が集まっており、俺が室内に足を踏み入れたと同時に視線が集まった。
まるで品定めでもするような視線に恐縮してしまったが、何とか姿勢を正したまま我関せずという態度を取り続ける。
見つめ返す、なんてマネはしない。何故なら、視線が合った瞬間ケンカを吹っかけられたら困るからだ。ケンカはダメ、だって痛いのヤダもん。
そんな俺の態度が良い方向に転んだのか、集まっていた視線は程なくして興味を失ったように消えてしまった。
名家の顔合わせというからには、この場に居るメンバーが該当者なのだろう。だが何のための顔合わせか、理由が分からない。
だから、特にやる事もない俺は、お返しとばかりに横目で室内にいる人達について探ることにした。次は俺が観察する番だ。
二十人ということは、俺と陽太のように主従が一組(セット)とするなら、十組の主従がいる事になる。
主従と言ってもさまざまで、陽太のような付き人は幅広い年齢層だ。恐らく最年少は陽太だが、渋くて素敵なおじ様も居れば今にもポックリしちゃいそうなお爺さんも居る。
ただ、主に該当する者は俺と同年齢くらいの人が多い印象を受けた。
各家の当主が来ているのだと思っていたが違ったようだ。俺のように息子や弟を代理として、という事なのかもしれない。
しかし、俺の場合は厳密に言ってしまえば違う。
城までの道中で陽太の愚痴から得た情報によると、俺――藤見恭――の父親は、道楽三昧の息子に痺れを切らせて、顔合わせに参加するようにと強制命令を下したそうだ。
つまり……片や、家の代表として華々しく送り出されたお坊ちゃん。片や、ぐーたらな生活を親に激怒され強制となった馬鹿息子、という決定的な違いがあるのだ。
オイオイ。何だ、この差は…。
無事に顔合わせを終えたとしても、家に帰った瞬間、抜刀した親父が出迎えるとか勘弁してくれよ!? 親父の顔知らんけど。
そんな風に数日先の自分の身を心配していると、どこからか甲高い鐘の音が数回聞こえた。城内に響き渡るこの音が意味するのは――
「時間みたいですね」
陽太の言葉通り、これが刻限を知らせる音なのだろう。門の所で会ったお爺さんも刻限のことを言っていた気がするので、間違いないと思う。
俺達がこの広い部屋に案内された後は誰も増えていない上、鐘が鳴るまであまり時間がなかったことから、実は俺もギリギリだったという事が分かる。
その鐘が鳴り終わってしばらくすると、この部屋に向かってくる数人の足音が廊下から聞こえた。
気付いたのは俺だけではないようで、他の物たちも背筋を伸ばして部屋の入り口の襖を真剣に見つめている。
そして、完全に足音が部屋の前で止まると襖が左右に音も無く開き、華美な着物を着込んだ中年の恰幅の良い男がドカドカと部屋に入ってきた。
“恰幅の良い男”と表現した通り、着物を着ていても分かるポヨンポヨンの腹部が目立つ。
たぶん、この人が東の鬼一族で一番エライ人なのだろう。
うーん……。一族のトップというからには、シャープなナイスミドルを想像していたのだが、どうやら俺の予想は外れたみたいだ。
ちょっと夢が壊れたかも? と思っていたら恰幅の良い男――もうポッチャリさんでいいや――に向かって周りの人達が床に頭を付けるようにしていることに気づいた。
うおおお! 見た目で油断していたけれど、ポッチャリさんは超エライ人だった! ヤベ、完全にタイミングを逃した。どどど、どうしよう!?
顔や行動には出さないが、内心で焦りまくっていた俺は失態を回避する道がないか、と周りを視線だけで探った。
すると、嬉しい事に俺以外にもタイミングを逃した者が数人いたようで、ポッチャリさんに頭を下げていなかった。
それを見て安堵し、ニヤけそうになる顔を引き締めたのは言うまでもない。名付けて、『赤信号皆で渡れば怖くない』作戦だ!
……なんて胸を張ってみた俺だが、やはりポッチャリさんの行動が気になる。
多くの人が頭を下げている中、俺を含めた数人だけが不動のままじっとポッチャリさんの動きを待っていた。
そんな俺達の視線に気付いていると思われるポッチャリさんは、上座の近くまで歩みを進めた。
そして、何故かその場所に座らず俺達の方を振り返って室内を一通り見渡した。次いで満足気な表情を浮かべたポッチャリさんは、部屋に入る時に後ろに付いて来た人たちに向かって頷いてみせた。
音もなくその中から一歩前に出たのは、俺を城門の中で迎えてくれた初老の女性。
頭の上に疑問符を浮かべたまま、成り行きを見守っていることしかできない俺を余所に、よく通る声で彼女は淡々と言葉を紡いだ。
「頭を下げている方はお帰り頂きます」
……はい?
俺は頭を下げていないので対象外であるが、何を言われたのか理解できなかった。
その言葉に、頭を下げていた人達は慌てて顔を上げ、初老の女性を見る。多くの視線が集まるその人は、気品溢れる姿であるからこそ、淡々とした言葉と表情に凄みが増しているような印象を受けた。
注目を集めても変わらず堂々としている彼女は、半ば呆けている者達に理由を語った。
「東条家当主の顔も知らぬ方に話などありませぬ。いくら名家の出身であろうとも、当主と使用人の区別もできぬ方に話は不要」
チラリ、と彼女が見た先には上座から少し離れた場所に移動しているポッチャリさん。
釣られるようにしてポッチャリさんを見た者達の顔が、怒りや困惑に満ちた。
「幸いな事に城下には多くの宿がございます。そちらで各当主殿への言い訳をお考えになりながらお休み下さいませ。――さぁ、早々にお帰りなさい!」
うわぁ、そういう事ですか。
つまり、ポッチャリさんは東条家の当主に見せ掛けたダミーさんなんだ。
東の鬼一族の長と、単なる使用人であるポッチャリさんを見分けられない者は強制退出。
あ、危なかった……。タイミングが合っていたら、俺も頭下げていたに違いない。
パンパンと手を叩きながら捲くし立てる女性のおかげで、安堵の息を吐いた俺には誰も気付かなかったようだ。
そんな俺とは逆に、頭を下げてしまった人は素直に納得できない。
明らかに雑になった対応と言い捨てられた言葉に苛立ったのか、帰れと告げられた者達は女性に向かって声を荒げ始めた。
不機嫌さを隠しもせず立ち上がった数人は、怒りで顔を赤くしている。その中でも特に怒りをあらわにしている男達が、一際大きな声でその女性に一歩近づいた。
「おのれ、無礼者め……っ。貴様、私を誰だと思ってそのような対応をしておるのだ!」
「貴方様の事はよく存じ上げております。お家の名にご本人の器量が足りぬ方である、と」
「な、何だと!? ええい、たかが使用人の分際で生意気な! 貴様など斬り殺してくれるわ!!」
激情した男が腰の刀を抜き、それに釣られて他の男達も続いて女性との間合いを取った。
ピリピリとした空気が広間を満たし、生の時代劇に近い状況に心の中で感動している俺と、陽太以外が攻撃態勢を取っている。
陽太のことは単に自分の後に控えているので姿が確認できないだけだが、怯えたり戸惑ったりしている様子は感じられない。
クスッ、と小さな笑い声だけが聞こえてきたので、恐らく状況が飲みこめずにいるだけだろう。
まるで時代劇のようなシーンに、エキストラの立場にいる俺は不謹慎にも少しワクワクしていた。
テレビでしか見た事のない状況を、もう少し近くで見せてもらいたいと思うくらいにはテンションが上がっていた。
もちろん、刃物を向けられている女性を助けるべきだとも思った。
だが、女性の後に立っているポッチャリさんを含む他の使用人達が、特に焦った様子もなく静観するような雰囲気を醸し出しているので、心配には至らないと判断したのだ。
使用人達の中には、明らかに『武士』のような身なりをした人もいるので、いざとなれば彼等が動いてくれる気がした。
それに、俺みたいな一般人が止めに入っても反撃されて一撃でお陀仏に決まっている。
そうして、俺はこの場を見届けることに決めた。
――が、二人を見つめていると、男達の進行方向に黒い塊があることに気付いた。じっとその物体を見つめて、塊の正体が何か観察する。
ん~……? あの畳汚れてないか? シミやゴミかな? もしかして墨? いや、虫のような気もするけど……ここからじゃよく見えな――って、ゴキ様だあぁぁぁ!
イヤァァァー! 俺、虫ダメっ、虫嫌いなんだよおぉぉ! だだだ、誰か早くゴキ様をお外にご案内してさしあげて下さいっ。間違っても仕止めようなんて思わないように!
理由? ばかバカ馬鹿、仲間の逆襲が怖いからに決まってるでしょ! え、自分でやれ? むむむむ、むりムリ無理! だって怖くて現在進行形で動けません。
ヤツが近くに来ない事を祈るだけしか……ギャアアァ徐々に距離が近づいてるよ! ヤツ、だなんて呼び方してゴメンなさいゴキ様ああああ!!
「っ、恭様……!」
どうした陽太、そんな焦った声を出して。今取り込み中だから後にしてくれないかな?
さっきまで笑っていたのに顔色が悪くなっているのが少し気になるけど、話はゴキ様がお帰りになってから――って、そうか!
ははーん、陽太。実はお前もゴキ様が苦手なんだな? さすが同胞。幽霊もゴキ様も苦手だなんて、本当に気が合うな。もはや俺達は主従ではなく親友だな!
大丈夫、心配しなくても逃げ出す準備は万全だし俺は親友を置いて行きはしない。
自慢じゃないが逃げ足には自信があるんだ。ピンチになると驚きのスピードだよ? 陽太の足が遅くても引っ張ってやるから安心しろ!
……なーんて、あっはっはー。本当に自慢になってないよ、笑えてきちゃうね!!
「き、貴様、一体何を笑っておるのだ!」
おっと、誰だよ。この緊張した空気の中で笑ってるヤツは。そりゃあ、真剣な人達は怒るに決まってるよ。
そういう問題は自分の非を認めて、早く謝れば大抵の場合なら許してくれ――……あれ?
チクチクと突き刺さる視線に疑問を持って時間をかけて周りに目を配ると、室内にいる全ての人の視線が俺に注がれていることに気付いた。
意味が分からず、何となく笑ってその場をやり過ごそうとしたら声を上げた男の視線が更にきつくなった。
その反応から、男達の怒りの矛先が自分なのだと俺はやっと気付いた。男の言葉から察するに、どうやら変な誤解を招いているらしい。
心の中でゴキ様に謝罪し、同じ弱虫仲間である陽太と逃亡することを考えていた俺の何かが逆鱗に触れたようだ。
先ほど自分で言った通り、俺は早々に自分の非を認めることにした。……ただ、ゴキ様が苦手だという点は恥ずかしいので伏せておく。
「私はただ、いつ逃げ出すか、と考えていただけですよ」
「に、逃げ出すだと……? 一体何に逃げ出すと言うのだ!」
「貴方は酷い人ですね。それを私の口から言えと? ――こんなにも近くにいるのに、まだ気付いていないのですか?」
徐々に俺達に近づいてきているゴキ様に……!
ま、まぁ、そりゃそうか。こんな綺麗なお城にゴキ様が居るなんて夢にも思わないよな。俺も考えてなかったもん。実際目の当たりにしちゃうと所詮夢だったけど。
言葉の意味が理解できなかったのか、刀を持った男はポカンと呆けた表情で俺を見返していた。
ゴキ様の件は口に出したくないので、これ以上話すことはないとばかりに男から視線を逸らす。
と、――次の瞬間、俺とその男に向かって四方八方から黒い物体が飛んできた。
「――……っ」
一瞬にして、頭の中が真っ白になった。
理由は単純明白だ。この状況で黒い物体が何かなど、考えるまでもない。
声を上げなかった自分を褒めてやりたいと思う。いや、上げる暇など存在しなかったんだ。息をする事さえ忘れるほどに、それは俺の全てを支配したのだ。
“黒い物体=ゴキ様”の方程式が頭の中で確立され、気がつけば俺は無我夢中で鞘がついたままの刀を振り回していた。
刀なんて持っていたか? という疑問が一瞬だけ脳裏を過ぎるが、それどころではない。
今は最悪の事態を回避する事が先決だ。全身でゴキ様を拒否する動きも忘れずに。
って、冷静に実況してみたけどやっぱりゴキ様はイヤアアアァァァ!
黒い物体が増えたようにも見えたけど、まさか仲間のゴキ様達が助けに来たの!?
迷いゴキ様を助けるために馳せ参じられたんですか? 集団で襲撃ですか? 何でその対象が俺なの、ちょっ…ヤーメーテー! ま、まさか服に引っ付いてないよね? ……うおおおおっ、考えるんじゃなかったっ!
服にゴキ様が付いていることを想像して焦った俺は、更に力強く振り払った。
恐ろしくて目を開くことができない状態のままだが、確実に手応えがある。
時折、金属音や押し殺したような声が聞こえるが自分のことで精一杯の俺に確認する術は存在しなかった。
そんな無茶な動きをしていたのが原因なのだろう。
息を止めていたのも合わさり、頭に血が上ってしまい、体が大きく傾いてしまったのだ。
崩れ落ちそうになる膝を心の中で叱責し、俺は脚に力を入れた。一度後方に下がり、体勢を立て直すために、だ。
もちろん、床に居るゴキ様をプッチンしないよう細心の注意を払い、できるだけ遠方に飛び退くことを意識した。
かなりの数のゴキ様を叩き落した気がするので、きっと畳の上は大惨事だ。
そして、無事に数歩飛び退いた先には、しっかりとした畳の感触があった。
間違っても俺が想定している大惨事(プッチン)の影響を受けていない場所だ。
もう大丈夫だろう。目を開くことに勇気が必要だが開かねば何も進まない!
そう考え、安全圏まで移動できたと思った俺は、心して今まで閉じていた目を開いた。
「…………は?」
しかし、目を開いた先は俺の予想とはかけ離れた光景があった。
ゴキ様が大量にいると思っていた畳の上には突き刺さった手裏剣やクナイ。
抜刀していた男達は、手裏剣やクナイの持ち主だと思われる忍装束の者達……忍者に縛り上げられている。
そして俺から少し離れた場所には、フラフラと今にも倒れそうな忍者が二人。更に視線を隣に向ければ、ちょうどそのタイミングでクナイを忍者の一人に投げ返した陽太。
あれれー……? 何この状況、一体何が起こったの?
に、忍者さん大丈夫ですか? 立ち上がらない方が良いのでは?
それに陽太も危ないからそんなモノ投げちゃダメだろ!
咎める意味を込め、俺が横目で見やった陽太は、視線に気付いた瞬間に頬を緩めて頷いた。え、意味が分かりません。
あの、どなたか俺に説明をお願いしても宜しいでしょうか……?
混乱する俺と、上機嫌で俺の後ろに再び控えた陽太に、周りの人達がゴクリと息を呑んだ事は全く気づかなかった。
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