へっぽこ鬼日記 幕間五
幕間五 花姫視点
十七年前、東鬼一族の長を務めている東条家に一人娘として生を受けた。
しかし、もともと体が丈夫でなかったお母様はわたしを産んですぐに床(とこ)に臥(ふ)せてしまった。
男児でない私が第一子として産まれ、他に子を生す事が難しい状況で周囲が口を揃えて進言したと聞く。
『側室を迎えて世継ぎを』と。
この言葉を、お父様は頑なに拒まれた。
お父様にはお母様以外の女性を愛する意志が無かったから。
当時の東条家嫡子のお父様が、東鬼の中では地位の低い家出身のお母様を見初めて婚姻したのだと何度もお二人から話を伺っていた。
まだ老臣達の言葉の意味が分からない程小さな頃に聞いた、お二人の話に憧れた。
お母様を想って何度も何度も田舎町に足を運び、告白を繰り返したというお父様。
身分の差や周囲の反対に苦しんだけれど、何時しかお父様が訪ねてくるのを心待ちにするようになったというお母様。
お父様のように、心から愛する女性を妻にして下さる殿方に出会いたかった。
お母様のように、心から愛する男性を夫にして支える存在になりたかった。
お二人のように、心から愛する方を生涯の伴侶として選んで幸せになりたかった。
でもそれ以上に、声を押し殺して涙を流すお母様の姿を見たくなかった。
そんなお母様を抱きしめて何度も何度も小さな声で謝るお父様の姿も見たくなかった。
まだ子供のわたしを気遣ってくれる大好きな家臣達に悲しい顔をして欲しくなかった。
だから決めた、決意した。
わたしが関わる老臣達の言葉で、お父様とお母様を悲しませたりはしない。
わたしが関わる老臣達の言葉で、わたしの大切な人を悲しませる事は許さない。
小さくて未熟なわたしでも、この意志は強かった。
「東鬼に過去最高の繁栄を齎(もたら)して下さる方を夫とします」
わたしは東に生まれた鬼の姫。
その『鬼』という言葉の通り、全てを鬼にして生きよう。
「東鬼一族の長として相応しい方を愛し支えます」
求めなくてはならないのは、老臣が課す重圧に負けない強い心を持つ有望で絶対的な存在。
必要なのは誰をも圧倒させてしまう能力(ちから)を持ち、東鬼の長を背負う覚悟を持つ者。
愛など必要ない。
恋など私は知らなくて良い。
そんな事に憧れていた心は凍らせてしまえば良い。
「皆で共に私の夫となる方を、東鬼の長に相応しい方を選ぶ事をお約束します」
わたしの大切な人を悲しませようとする者は、その眼にわたしの姿を焼き付けよ。
今この瞬間、東の鬼に身も心も全てを捧げると決めた鬼姫(わたし)の姿を。
長になる者の所有物として、わたしはこの東の地を守るために生きよう。
この身と心を捧げる事で治まるような小さな争いなら、喜んで差し出そう。
それから老臣達は、お父様とお母様に世継ぎの話はしなくなった。
代わりに、東鬼の長として相応しい男鬼がどのような者かわたしに聞かせてきた。
婚姻可能な歳に近づくまでは、例え家臣であっても婚期の男鬼をわたしへ近づけない徹底ぶり。
このままでは『皆で選ぶ』のではなく『老臣達が選ぶ』事になってしまう。
見兼ねたお父様が婿選別の見合いを企画しなければ、気づかない内に東条の長が選ばれていただろう。
老臣達が選んだ男鬼であれば誰も反対しないと思う。
老臣達が選んだ男鬼であれば立派に東鬼を統べる事ができるとも思う。
東鬼の長を務める者との間に想いが存在しない事は理解している。
それでも、せめて生涯支えるであろう相手は自分の目で確かめたい。
だから自分も参加できる『見合い』という形に賛同した。
老臣達が渋ったが『一定の能力がない鬼は対象にするつもりは無い』と切り捨てた。
お父様が見合い前に厳しい選考を行う事を伝えると、老臣達は反対しなかった。
能力や家柄の低い鬼を東鬼の長に据え置く気が皆無だから。
こうして十七になって間もないある時期に、わたしの生涯の伴侶を決める――否、東鬼の長を決めるための見合いが実施される事になったのだった。
きっと、わたしの選んだ道は霧が酷い迷い道。
それでもわたしは構わない。
霧が晴れても目に入るのは、空は灰色で地は乾いた砂に覆われた淋しい世界だから。
それでもわたしは道を歩む。
道の先に色鮮やかな世界が広がっているという期待は最初から持っていないから。
それでも良い、良いはず。
何度も同じような道を繰り返し歩み、最後の目的地が虚しいモノだと知っているから。
それでも、それでも、お母様は私を見て泣いていたけれど――……。
そして見合い当日だった今日。
結論から言えば、わたしの決意は簡単に打ち砕かれてしまった。
最初は褒め言葉や貢物でわたしの興味を引こうとする面々に、溜息が出た。
次に、当然のように『東鬼の長』という地位や権力に己が如何(いか)に相応しいか説き伏せる姿に気持ちが冷めた。
最後に気がつけば、わたしは恋と愛を望んでくれた彼に心を奪われていた……。
わたしを見つめていた、彼の熱を持った視線が忘れられない。
そして失望したように熱の色を無くした彼の表情も。
瞬時に冷めた眼へと変貌させた時の、底知れない絶望感が再び襲いかかる。
声を出そうとしても言葉は出ず、必死の思いで伸ばした手は彼を止められなかった。
東鬼の姫としてではなく、一人の女鬼として想ってくれる彼の気持ちを踏み躙(にじ)ったのはわたし自身。
知らない。こんな気持ちは知らない。
けれどこの気持ちは幼い頃から憧れてやまなかったモノ。
怖い。怖くて怖くて仕方がない。
それでもこの恐怖に向き合いたいと願う自分(わたし)が居る。
婿候補の方々について詳細が明記されている書筒の山から、藤色のモノを手に取る。
一度だけ目を通していた書筒の内容を思い出そうとすると、胸が締め付けられるように痛くなった。
他の書筒と比べて内容の少なすぎる藤色の書筒が歯痒く、彼の事を知ってはならないという天の意志なのかと思えた。
鼻の奥がツンとして瞳に涙が溢れそうになる。
堪えるようにして体に力を入れると、藤色の書筒を無意識の内に抱きしめていた。
わたしとの隔たりだった御簾(みす)を上げ、向かい合うように座る小萩が、藤色の書筒を持っているわたしを見て目を細めたのが何となく感じ取れた。
全てを見透かされているような視線を避けるように体を動かすと、持っていた書筒が音を立てて床に転がる。
「あっ……」
わたしから逃げるようにして転がる書筒(それ)が、消え去っていく彼の心と重なって胸がズキンと音を立てた。
待って。お願いだから逃げないで。
わたしを置いて遠くへ行ってしまわないで。
拾い上げた書筒を再び抱きしめると、ついに涙が零れてしまった。
会って間もないのに、こんな気持ちを抱くのは異常だと思う。
あれだけ『東条の長』を求めておきながら、彼の言葉に誘われた心の弱さに気付かされてしまう。
愛など必要ない。
恋など私は知らなくて良い。
そんな事に憧れていた心は凍らせてしまえば良い。
違う、本当は全然違う。
本当は、誰かに恋をして良いと言って欲しかった。
本当は、共に恋をしようと誰かに優しく囁いて欲しかった。
誰かに愛される事を知って、誰かを愛したいと心の奥底で憧れていた。
部屋の片隅にいけられた形だけの花ではなく、大空を舞い風に身を任せる花弁のように自由な愛に。
暗い道の先に見えた明るい光。
わたしが歩む道の先で、手を引くために歩みを止めてくれている。
わたしに愛の言葉を囁いて、乾いた心に水をくれる。
わたしを愛し愛を教えてくれる貴方が、わたしの世界に色を足してくれる。
霧に隠された目的地は、貴方がくれる鮮やかな世界かもしれない。
目を閉じてみれば、わたしに手を差し出してくれる優しい貴方の姿が見えるから。
わたしは貴方と恋がしたい。
この胸の痛みと高鳴りが、熱く甘い貴方の心を求めている。
わたしは貴方に愛されたい。
この身を焦がされようとも貴方の愛に包まれてしまいたい。
その熱は激しいけれど甘く、わたしを虜にしてしまうモノだから。
わたしは貴方と恋がしたい。
わたしは貴方に愛されたい。
そう、わたしは貴方を――……。
「わたしは貴方を――、愛したい……」
気持ちを口に出す事で、わたしの中で燻(くすぶ)っていた熱が急に燃え上がるような感覚を覚えた。
激しく脈打つ心臓を押さえて目を開くと、揃って頭を下げている侍女達の姿が確認できる。
「花姫様のお心、承知致しました」
その中でも、わたしに一番近い場所に居た女中頭の小萩が顔を上げた。
幼い頃から教育係として傍に居た小萩は城の中で最も信頼できる存在。
普段は厳しく甘える事を極限まで許さない彼女だが、今の眼差しはどこか優しい。
「皆、よくお聞きなさい。今から花姫様のお召し物は藤色または藤の花をあしらえた物にします。また、藤見様と遭遇した場合は必ず花姫様の話題を出すように心得なさい」
「小萩様、それは率直すぎませんか?」
小萩が侍女達に囃(はや)したてるように指示を出すと、音もなく一人の女忍が姿を現した。
その女忍は、わたしより一歳若く幼い頃から共に行動している大切な友人の千代(ちよ)。
お父様の忍で、東条家忍頭である吾妻の娘である千代がわたしに仕えているのは必然だと受け取れるかもしれない。
でもわたしは千代に女忍や使用人という役割で接した事など一度もない。
千代は困った顔をする事が多いけど、最後には一緒に笑ってくれる。
そんな千代が、警戒するようにして小萩に意見するのは滅多に見ない姿だった。
わたしと同じように、侍女たちも着物を仕分けながら二人を気にしている。
「花姫様のお気持ちが固まったならば、躊躇(ためら)う必要はないので構いません」
涼しい表情で当然のように言い切った小萩の言葉に、全身が熱を帯びる。
恥ずかしさを隠すように片手を頬にあてると、予想以上に熱を持っている事がわかった。
視界の端にわたしの様子を捉えた小萩は、押し黙った千代を下がらせる。
小萩は人差し指を立てて、わたしを正面から見据えた。
これは誰か個別に課題や指示を出す時の小萩の癖。
「まず最初の目標は、藤見様をお名前で呼ぶ仲となって頂きます」
「え……」
小萩の言葉に体が麻痺を起したように固まった。
わたしの名を囁くように優しく呼んで下さる彼の姿が思い浮かぶ。
そんな彼の隣で寄り添うように佇み、わたしも同じように彼の名を呼んでいる。
名を呼びながら彼の袖を引けば、絡めとるように繋がれる手と手。
名を呼ばれながら彼を見上げれば、落ちてくる彼の影に目を伏せる。
耳元で、吐息と共にわたしの名を甘く愛しげに呼ぶ声に誘われて委ねれば…。
「…………様、……姫様、花姫様!!」
「――っ、な、何?」
「幸せな想像をなさるのはご自由ですが、私の話を聞いて頂けますか?」
「し、幸せな想像!? わたしは別にっ、藤見様の事を考えていたわけでは……!」
「……指摘するのも疲れますので無理やり話を戻します」
何度もわたしを呼んでいた小萩の声に気付いて返事をすれば、長い溜息を吐かれてしまった。
居た堪れない空気に身を小さくして、小萩の言葉を待つ。
「藤見様のお名前はご存じですね?」
「ええ、藤見……き、きょぅ様、よね」
「声が小さい!」
「でっ、でも、恥ずかしくて……!」
「そのような事を言っている場合ですか!愛しい殿方のお名前を呼べないなど、あってはならぬ事ですよ!?」
「小萩様、あまり大声を出されては外に聞こえてしまいます」
まるで礼儀作法を間違えた時のように怒る小萩に、再び千代から横槍が入った。
先ほどから千代の様子がおかしいので詳しく尋ねようとすれば、先に小萩が行動していた。
普段から澄まされているだけに、訝しげに千代を見る小萩の目が一層怖い。
「千代、先ほどから随分と周囲を気にしているようですが何かあったのですか? 確かお前には女中として藤見様のお世話をするよう任じていたと記憶しています」
「そ、それは……」
小萩の問いにモゴモゴと口籠る千代だけれど、彼の世話役だとは知らなかったので驚いた。
警護や監視という様々な意味で女中に扮した女忍が世話役を命じられる事は少なくない。
だから、世話役としての任にあり彼と会話できる機会が多様にある千代が羨ましいと感じた。
見合いの席で彼を失望させてしまったわたしより、ずっと親密な会話が成立していると思う。
彼がどのような話を好んで、どのような表情で話をするのか。
わたしが知らない彼を千代が知っていると思うと、切なくて胸が痛むけれど聞かずにはいられない。
「千代、そのっ、藤見様はどのような方だったの?」
「うっ……」
ドキドキと高鳴る鼓動を感じながら質問すると、何故か再び言葉に詰まる千代。
わたしと小萩の顔を交互に見比べた後、千代は勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません、花姫様、小萩様! 藤見様のお世話という任ですが、未だご本人とは面識がございません!!」
深々と頭が下がってしまったので、わたしの位置から千代の表情を確認する事はできない。
それでも長い付き合いであるわたしは、千代が小萩に対して声を震わせているのではないと分かる。
これは大きな戸惑いや、遭遇した事のない緊張に晒された時に出る千代の声。
わたしは、できるだけ優しく千代に声をかけてみた。
「千代、詳しく話してくれる?」
「姫様……うぅっ、千代は役立たずでございます」
「そんな事ないわ。怒らないから詳しく聞かせて、ね?」
「じ、実は、藤見様の従者の方に女忍という事が一目で見破られてしまい……。お食事の膳を運ぼうにも、城内をご案内しようにも私は警戒されております。仕方がないので女忍でない女中に任せて、私は周辺警護の任に回っていました」
徐々に小萩が、ぐっと眉を寄せていくのが見えたけど、手で制して千代に話を続けさせる。
「毎回私を警戒して妨害なさるのは従者の方なのですが、天井裏に潜んでいた上忍は藤見様に直接苦言を漏らされたと聞きました」
「そう、上忍にも……。お父様や吾妻はご存じなの?」
「この事は父様……じゃなかった、東条忍頭の吾妻様には報告済です。克彦様への報告後、忍の件は一任されたと伺いましたのでご存じかと。警護の忍についてですが、婿候補である藤見様から外す事はできませんので現段階は藤見様や従者の方に苦言を貰わぬよう細心の注意を払って付いております」
そこで千代の言葉が切れたので、話はもう無いのだろう。
忍に苦言を漏らすという事は、誰かに行動を制限されるのを嫌っている証拠。
千代のように、わたしの為に動いてくれる女忍を使う事は更に彼の機嫌を損ねる事になる。
「……花姫様、忍を使っての情報収集は不可能のようです。藤見様と逢瀬を重ね、ご自分で藤見様のことをお聞きください」
はー……、と先ほどより長い溜息を吐いた小萩の言葉に、わたしは素直に頷いた。
彼が忍に行動を制限や監視される事を嫌うのなら、わたしの命では絶対に指示しない。
それに、わたしが自分で行動を起こして彼に近づかなければ成果は得られない。
彼との間にある見えない壁は、わたしが自分で作り出してしまったモノ。
叩いても壊せないそれは、わたしの熱で溶かして除かなくてはならない。
桜の花弁(はなびら)のように偶然私の手に舞い降りた彼の心。
吹き荒れた風に舞い上がってしまった花弁を再び手に入れるのは難しい。
風に行く先を委ねた花弁を見つめているだけでは遠退くだけ。
風の行く先にわたしも歩みを進め、花弁が欲しいと大空に手を伸ばそう。
空に溶けてしまいそうな花弁を求めよう。
わたしが花弁を見失わない限り、貴方との繋がりは断たれていないのだから。
わたしが花弁を望む限り、貴方への想いが積もって空に近くなれるのだから。
わたしは貴方と恋がしたい。
わたしは貴方に愛されたい。
わたしは貴方に恋をした。
わたしは貴方に愛を求めている。
そう、わたしは貴方を――……永久(とわ)に愛したい。
しかし、もともと体が丈夫でなかったお母様はわたしを産んですぐに床(とこ)に臥(ふ)せてしまった。
男児でない私が第一子として産まれ、他に子を生す事が難しい状況で周囲が口を揃えて進言したと聞く。
『側室を迎えて世継ぎを』と。
この言葉を、お父様は頑なに拒まれた。
お父様にはお母様以外の女性を愛する意志が無かったから。
当時の東条家嫡子のお父様が、東鬼の中では地位の低い家出身のお母様を見初めて婚姻したのだと何度もお二人から話を伺っていた。
まだ老臣達の言葉の意味が分からない程小さな頃に聞いた、お二人の話に憧れた。
お母様を想って何度も何度も田舎町に足を運び、告白を繰り返したというお父様。
身分の差や周囲の反対に苦しんだけれど、何時しかお父様が訪ねてくるのを心待ちにするようになったというお母様。
お父様のように、心から愛する女性を妻にして下さる殿方に出会いたかった。
お母様のように、心から愛する男性を夫にして支える存在になりたかった。
お二人のように、心から愛する方を生涯の伴侶として選んで幸せになりたかった。
でもそれ以上に、声を押し殺して涙を流すお母様の姿を見たくなかった。
そんなお母様を抱きしめて何度も何度も小さな声で謝るお父様の姿も見たくなかった。
まだ子供のわたしを気遣ってくれる大好きな家臣達に悲しい顔をして欲しくなかった。
だから決めた、決意した。
わたしが関わる老臣達の言葉で、お父様とお母様を悲しませたりはしない。
わたしが関わる老臣達の言葉で、わたしの大切な人を悲しませる事は許さない。
小さくて未熟なわたしでも、この意志は強かった。
「東鬼に過去最高の繁栄を齎(もたら)して下さる方を夫とします」
わたしは東に生まれた鬼の姫。
その『鬼』という言葉の通り、全てを鬼にして生きよう。
「東鬼一族の長として相応しい方を愛し支えます」
求めなくてはならないのは、老臣が課す重圧に負けない強い心を持つ有望で絶対的な存在。
必要なのは誰をも圧倒させてしまう能力(ちから)を持ち、東鬼の長を背負う覚悟を持つ者。
愛など必要ない。
恋など私は知らなくて良い。
そんな事に憧れていた心は凍らせてしまえば良い。
「皆で共に私の夫となる方を、東鬼の長に相応しい方を選ぶ事をお約束します」
わたしの大切な人を悲しませようとする者は、その眼にわたしの姿を焼き付けよ。
今この瞬間、東の鬼に身も心も全てを捧げると決めた鬼姫(わたし)の姿を。
長になる者の所有物として、わたしはこの東の地を守るために生きよう。
この身と心を捧げる事で治まるような小さな争いなら、喜んで差し出そう。
それから老臣達は、お父様とお母様に世継ぎの話はしなくなった。
代わりに、東鬼の長として相応しい男鬼がどのような者かわたしに聞かせてきた。
婚姻可能な歳に近づくまでは、例え家臣であっても婚期の男鬼をわたしへ近づけない徹底ぶり。
このままでは『皆で選ぶ』のではなく『老臣達が選ぶ』事になってしまう。
見兼ねたお父様が婿選別の見合いを企画しなければ、気づかない内に東条の長が選ばれていただろう。
老臣達が選んだ男鬼であれば誰も反対しないと思う。
老臣達が選んだ男鬼であれば立派に東鬼を統べる事ができるとも思う。
東鬼の長を務める者との間に想いが存在しない事は理解している。
それでも、せめて生涯支えるであろう相手は自分の目で確かめたい。
だから自分も参加できる『見合い』という形に賛同した。
老臣達が渋ったが『一定の能力がない鬼は対象にするつもりは無い』と切り捨てた。
お父様が見合い前に厳しい選考を行う事を伝えると、老臣達は反対しなかった。
能力や家柄の低い鬼を東鬼の長に据え置く気が皆無だから。
こうして十七になって間もないある時期に、わたしの生涯の伴侶を決める――否、東鬼の長を決めるための見合いが実施される事になったのだった。
きっと、わたしの選んだ道は霧が酷い迷い道。
それでもわたしは構わない。
霧が晴れても目に入るのは、空は灰色で地は乾いた砂に覆われた淋しい世界だから。
それでもわたしは道を歩む。
道の先に色鮮やかな世界が広がっているという期待は最初から持っていないから。
それでも良い、良いはず。
何度も同じような道を繰り返し歩み、最後の目的地が虚しいモノだと知っているから。
それでも、それでも、お母様は私を見て泣いていたけれど――……。
そして見合い当日だった今日。
結論から言えば、わたしの決意は簡単に打ち砕かれてしまった。
最初は褒め言葉や貢物でわたしの興味を引こうとする面々に、溜息が出た。
次に、当然のように『東鬼の長』という地位や権力に己が如何(いか)に相応しいか説き伏せる姿に気持ちが冷めた。
最後に気がつけば、わたしは恋と愛を望んでくれた彼に心を奪われていた……。
わたしを見つめていた、彼の熱を持った視線が忘れられない。
そして失望したように熱の色を無くした彼の表情も。
瞬時に冷めた眼へと変貌させた時の、底知れない絶望感が再び襲いかかる。
声を出そうとしても言葉は出ず、必死の思いで伸ばした手は彼を止められなかった。
東鬼の姫としてではなく、一人の女鬼として想ってくれる彼の気持ちを踏み躙(にじ)ったのはわたし自身。
知らない。こんな気持ちは知らない。
けれどこの気持ちは幼い頃から憧れてやまなかったモノ。
怖い。怖くて怖くて仕方がない。
それでもこの恐怖に向き合いたいと願う自分(わたし)が居る。
婿候補の方々について詳細が明記されている書筒の山から、藤色のモノを手に取る。
一度だけ目を通していた書筒の内容を思い出そうとすると、胸が締め付けられるように痛くなった。
他の書筒と比べて内容の少なすぎる藤色の書筒が歯痒く、彼の事を知ってはならないという天の意志なのかと思えた。
鼻の奥がツンとして瞳に涙が溢れそうになる。
堪えるようにして体に力を入れると、藤色の書筒を無意識の内に抱きしめていた。
わたしとの隔たりだった御簾(みす)を上げ、向かい合うように座る小萩が、藤色の書筒を持っているわたしを見て目を細めたのが何となく感じ取れた。
全てを見透かされているような視線を避けるように体を動かすと、持っていた書筒が音を立てて床に転がる。
「あっ……」
わたしから逃げるようにして転がる書筒(それ)が、消え去っていく彼の心と重なって胸がズキンと音を立てた。
待って。お願いだから逃げないで。
わたしを置いて遠くへ行ってしまわないで。
拾い上げた書筒を再び抱きしめると、ついに涙が零れてしまった。
会って間もないのに、こんな気持ちを抱くのは異常だと思う。
あれだけ『東条の長』を求めておきながら、彼の言葉に誘われた心の弱さに気付かされてしまう。
愛など必要ない。
恋など私は知らなくて良い。
そんな事に憧れていた心は凍らせてしまえば良い。
違う、本当は全然違う。
本当は、誰かに恋をして良いと言って欲しかった。
本当は、共に恋をしようと誰かに優しく囁いて欲しかった。
誰かに愛される事を知って、誰かを愛したいと心の奥底で憧れていた。
部屋の片隅にいけられた形だけの花ではなく、大空を舞い風に身を任せる花弁のように自由な愛に。
暗い道の先に見えた明るい光。
わたしが歩む道の先で、手を引くために歩みを止めてくれている。
わたしに愛の言葉を囁いて、乾いた心に水をくれる。
わたしを愛し愛を教えてくれる貴方が、わたしの世界に色を足してくれる。
霧に隠された目的地は、貴方がくれる鮮やかな世界かもしれない。
目を閉じてみれば、わたしに手を差し出してくれる優しい貴方の姿が見えるから。
わたしは貴方と恋がしたい。
この胸の痛みと高鳴りが、熱く甘い貴方の心を求めている。
わたしは貴方に愛されたい。
この身を焦がされようとも貴方の愛に包まれてしまいたい。
その熱は激しいけれど甘く、わたしを虜にしてしまうモノだから。
わたしは貴方と恋がしたい。
わたしは貴方に愛されたい。
そう、わたしは貴方を――……。
「わたしは貴方を――、愛したい……」
気持ちを口に出す事で、わたしの中で燻(くすぶ)っていた熱が急に燃え上がるような感覚を覚えた。
激しく脈打つ心臓を押さえて目を開くと、揃って頭を下げている侍女達の姿が確認できる。
「花姫様のお心、承知致しました」
その中でも、わたしに一番近い場所に居た女中頭の小萩が顔を上げた。
幼い頃から教育係として傍に居た小萩は城の中で最も信頼できる存在。
普段は厳しく甘える事を極限まで許さない彼女だが、今の眼差しはどこか優しい。
「皆、よくお聞きなさい。今から花姫様のお召し物は藤色または藤の花をあしらえた物にします。また、藤見様と遭遇した場合は必ず花姫様の話題を出すように心得なさい」
「小萩様、それは率直すぎませんか?」
小萩が侍女達に囃(はや)したてるように指示を出すと、音もなく一人の女忍が姿を現した。
その女忍は、わたしより一歳若く幼い頃から共に行動している大切な友人の千代(ちよ)。
お父様の忍で、東条家忍頭である吾妻の娘である千代がわたしに仕えているのは必然だと受け取れるかもしれない。
でもわたしは千代に女忍や使用人という役割で接した事など一度もない。
千代は困った顔をする事が多いけど、最後には一緒に笑ってくれる。
そんな千代が、警戒するようにして小萩に意見するのは滅多に見ない姿だった。
わたしと同じように、侍女たちも着物を仕分けながら二人を気にしている。
「花姫様のお気持ちが固まったならば、躊躇(ためら)う必要はないので構いません」
涼しい表情で当然のように言い切った小萩の言葉に、全身が熱を帯びる。
恥ずかしさを隠すように片手を頬にあてると、予想以上に熱を持っている事がわかった。
視界の端にわたしの様子を捉えた小萩は、押し黙った千代を下がらせる。
小萩は人差し指を立てて、わたしを正面から見据えた。
これは誰か個別に課題や指示を出す時の小萩の癖。
「まず最初の目標は、藤見様をお名前で呼ぶ仲となって頂きます」
「え……」
小萩の言葉に体が麻痺を起したように固まった。
わたしの名を囁くように優しく呼んで下さる彼の姿が思い浮かぶ。
そんな彼の隣で寄り添うように佇み、わたしも同じように彼の名を呼んでいる。
名を呼びながら彼の袖を引けば、絡めとるように繋がれる手と手。
名を呼ばれながら彼を見上げれば、落ちてくる彼の影に目を伏せる。
耳元で、吐息と共にわたしの名を甘く愛しげに呼ぶ声に誘われて委ねれば…。
「…………様、……姫様、花姫様!!」
「――っ、な、何?」
「幸せな想像をなさるのはご自由ですが、私の話を聞いて頂けますか?」
「し、幸せな想像!? わたしは別にっ、藤見様の事を考えていたわけでは……!」
「……指摘するのも疲れますので無理やり話を戻します」
何度もわたしを呼んでいた小萩の声に気付いて返事をすれば、長い溜息を吐かれてしまった。
居た堪れない空気に身を小さくして、小萩の言葉を待つ。
「藤見様のお名前はご存じですね?」
「ええ、藤見……き、きょぅ様、よね」
「声が小さい!」
「でっ、でも、恥ずかしくて……!」
「そのような事を言っている場合ですか!愛しい殿方のお名前を呼べないなど、あってはならぬ事ですよ!?」
「小萩様、あまり大声を出されては外に聞こえてしまいます」
まるで礼儀作法を間違えた時のように怒る小萩に、再び千代から横槍が入った。
先ほどから千代の様子がおかしいので詳しく尋ねようとすれば、先に小萩が行動していた。
普段から澄まされているだけに、訝しげに千代を見る小萩の目が一層怖い。
「千代、先ほどから随分と周囲を気にしているようですが何かあったのですか? 確かお前には女中として藤見様のお世話をするよう任じていたと記憶しています」
「そ、それは……」
小萩の問いにモゴモゴと口籠る千代だけれど、彼の世話役だとは知らなかったので驚いた。
警護や監視という様々な意味で女中に扮した女忍が世話役を命じられる事は少なくない。
だから、世話役としての任にあり彼と会話できる機会が多様にある千代が羨ましいと感じた。
見合いの席で彼を失望させてしまったわたしより、ずっと親密な会話が成立していると思う。
彼がどのような話を好んで、どのような表情で話をするのか。
わたしが知らない彼を千代が知っていると思うと、切なくて胸が痛むけれど聞かずにはいられない。
「千代、そのっ、藤見様はどのような方だったの?」
「うっ……」
ドキドキと高鳴る鼓動を感じながら質問すると、何故か再び言葉に詰まる千代。
わたしと小萩の顔を交互に見比べた後、千代は勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません、花姫様、小萩様! 藤見様のお世話という任ですが、未だご本人とは面識がございません!!」
深々と頭が下がってしまったので、わたしの位置から千代の表情を確認する事はできない。
それでも長い付き合いであるわたしは、千代が小萩に対して声を震わせているのではないと分かる。
これは大きな戸惑いや、遭遇した事のない緊張に晒された時に出る千代の声。
わたしは、できるだけ優しく千代に声をかけてみた。
「千代、詳しく話してくれる?」
「姫様……うぅっ、千代は役立たずでございます」
「そんな事ないわ。怒らないから詳しく聞かせて、ね?」
「じ、実は、藤見様の従者の方に女忍という事が一目で見破られてしまい……。お食事の膳を運ぼうにも、城内をご案内しようにも私は警戒されております。仕方がないので女忍でない女中に任せて、私は周辺警護の任に回っていました」
徐々に小萩が、ぐっと眉を寄せていくのが見えたけど、手で制して千代に話を続けさせる。
「毎回私を警戒して妨害なさるのは従者の方なのですが、天井裏に潜んでいた上忍は藤見様に直接苦言を漏らされたと聞きました」
「そう、上忍にも……。お父様や吾妻はご存じなの?」
「この事は父様……じゃなかった、東条忍頭の吾妻様には報告済です。克彦様への報告後、忍の件は一任されたと伺いましたのでご存じかと。警護の忍についてですが、婿候補である藤見様から外す事はできませんので現段階は藤見様や従者の方に苦言を貰わぬよう細心の注意を払って付いております」
そこで千代の言葉が切れたので、話はもう無いのだろう。
忍に苦言を漏らすという事は、誰かに行動を制限されるのを嫌っている証拠。
千代のように、わたしの為に動いてくれる女忍を使う事は更に彼の機嫌を損ねる事になる。
「……花姫様、忍を使っての情報収集は不可能のようです。藤見様と逢瀬を重ね、ご自分で藤見様のことをお聞きください」
はー……、と先ほどより長い溜息を吐いた小萩の言葉に、わたしは素直に頷いた。
彼が忍に行動を制限や監視される事を嫌うのなら、わたしの命では絶対に指示しない。
それに、わたしが自分で行動を起こして彼に近づかなければ成果は得られない。
彼との間にある見えない壁は、わたしが自分で作り出してしまったモノ。
叩いても壊せないそれは、わたしの熱で溶かして除かなくてはならない。
桜の花弁(はなびら)のように偶然私の手に舞い降りた彼の心。
吹き荒れた風に舞い上がってしまった花弁を再び手に入れるのは難しい。
風に行く先を委ねた花弁を見つめているだけでは遠退くだけ。
風の行く先にわたしも歩みを進め、花弁が欲しいと大空に手を伸ばそう。
空に溶けてしまいそうな花弁を求めよう。
わたしが花弁を見失わない限り、貴方との繋がりは断たれていないのだから。
わたしが花弁を望む限り、貴方への想いが積もって空に近くなれるのだから。
わたしは貴方と恋がしたい。
わたしは貴方に愛されたい。
わたしは貴方に恋をした。
わたしは貴方に愛を求めている。
そう、わたしは貴方を――……永久(とわ)に愛したい。
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