へっぽこ鬼日記 第七話
第七話 毒牙の予兆
誰か助けて下さい! と、叫びたくなった俺を現代人なら理解してくれる思う。
場所は先ほどの大失恋見合いから変わって、俺に用意されている客間だ。
適当な所に座っている俺の前には黒塗りされた低い執務机。
その上には質の良い紙。更に硯と墨。最後に陽太から手渡されたのは細身の筆だった。
やっぱり、と心の中で呟きながら俺は熱くなる目頭を押さえた。
手紙を文(ふみ)と呼ぶくらいだから古風だとは思ったが、まさか本当に書道とは。
書道なんか学校の授業で習った程度なので自信がない。
そもそも、未だにこの世界の文字が日本語なのか不明なままだ。ただでさえ不安で、ぶっちゃけ手紙なんて面倒だと思っているのに。
そして決定打はニコニコと無邪気な笑顔で笑っている陽太の質問だった。
「文には何とお書きになるのですか?」
何ですかこの羞恥プレイ。
ラブレターの中身を話さなきゃいけないなんて拷問以外の何物でもないよ。
無駄に明るい陽太の笑顔にイラッとしたので、額にデコピンを打ち込んでやる。
結構強烈な音がしたが、陽太は声も上げず嬉しそうに頬を緩めて額をさすっていた。その様子は一気に俺の不安を煽る。
オイオイ、陽太お前…もしかしてM属性の方ですか?
何て属性を隠し持ってるんだよ。秘密は秘密のままにしておこうよ。
うん、ツッコミを入れたら更に面倒な事になりそうだから気付かなかった事にしよう。
そう判断した俺は視線を再び執務机に向けた。
当たり前の事だが、何度見つめても筆は鉛筆に変わってくれない。
もう手紙とか書かなくて良いんじゃね? どうせ明日には追い出されるはずだし。
「文を書く必要は無いと思っている」
「宜しいのですか? 文を送らなければ後で大事になると思いますが……」
物ぐさな俺が放棄発言をすると、間を置かず陽太が言葉を返してきた。
確かに陽太の言う事は一理あると思った。
婿の話を辞退しようとしている俺からの手紙なんか、花姫様は欲しくないとだろう。
しかし花姫様に手紙を書かなければ小萩さんが般若の如く怒り狂いそうだ。小萩さんの願事(めいれい)を藤見家は無視するのか、と。
ううう、想像しただけで泣きたくなってきた。
よし、やっぱり手紙を書こう。
早々に覆すなんて意志が弱いとか言わないで下さい。背に腹は代えられない。書かなきゃ死亡フラグ立つよコレ。
小萩さんの怒りを買うくらいなら内容の薄い手紙一通など安いものだ。
そう決めた俺は、うーん……と悩みながら腕を組んで手紙の内容を考えてみる。
『俺の事なんか気にせず他の婿候補と仲良くして下さい』と伝えたいのだけど、そのまま書いてしまうと嫌味な感じになってしまうので表現は変えようと思う。
そうだ。『俺の事は放置しておいて下さい』と書く方が良いな。卑屈すぎないように、それでも相手側の面目を潰さないようにするには……。
「呼ばれたら会いに行く、とだけ書いておくよ。他の婿候補達と約束するだろうから、俺が呼ばれる事は無いだろう」
「なるほど、意地悪をして気を引く作戦ですか。相変わらず平然としたまま酷い事をされますね!」
意地悪? 作戦?? 何言ってるんだよ陽太、意味わかんねぇ。
そして最後の一言は笑顔で言う事ではないと思うのですが。
この飴と鞭の使い分けが……とか呟きながらウットリしている陽太(バカ)は放置しよう。
久々の書道に少し緊張しながら細身の筆に墨を浸み込ませた。
上手く書けるかは分からないが、最悪の場合は適当に言い訳して陽太に書いてもらえば平気だろう。
そんな風に陽太任せの事を考えながら、何気なく視線を下に向けると俺の隣に白い塊がある事に気付いた。
視界の端に映ったのは、ふわふわのもこもこ。
何だこれ、とその白い物体を凝視していると向こうも俺の視線を感じたようで、丸まっていた状態から徐々に形を明確にする。
塊の正体は、丸まっていた白い子猫だった。
どこから来たのキミ、と手にしていた筆を置いて抱え上げてみれば、俺の両手に楽勝でおさまってしまう小さな猫ちゃん。
手の上は居心地が悪かったのか、少しの抵抗を見せた後は俺の体をよじ登り始め、最終的に後ろから肩口にしがみ付く形で落ち着いた。
満足そうに『にゃー』と鳴いた姿が、また可愛いじゃないか。
全身がふわふわの白い毛だと思ったが、よく見てみると耳と尻尾が茶色だ。
黒真珠のように深い黒の瞳を持つ目は、猫にしては少し垂れ気味だった気がする。
そーっと猫ちゃんの鼻先に指を近づけると、かぷっと指を甘噛みされた。
かっ、可愛い……。
何だこの胸のときめきは! キュンキュンしちゃってるよ俺。
はっ……! ま、まさか、これが噂に聞く『萌え』という感情か!?
「あれ、いつの間にユキを影から出されたのですか?」
誰ですかユキさんって。
俺が猫ちゃんに対して胸をときめかせていると、自分の世界から帰還した陽太が口を開いた。
首を傾げながら質問してきた陽太に、同じように首を傾げて聞き返しそうになる。
不思議そうにしている陽太の視線を追うと俺の肩口に張り付いている猫ちゃんに辿り着いた。
もしかして『ユキ』って猫ちゃんの名前なの?
名前の由来って白い猫だから?白色の『シロ』じゃ定番すぎるから雪の『ユキ』?
……うん、鬼一族のネーミングセンスに物申したいところだけどスルーしておくよ。
どうやらその推測は間違いないらしく、陽太は肩を竦めながら続きの言葉を紡いだ。
「恭様の影獣(かげもの)なので危険が迫らない限り影から出る事はないはずですが、まだ子供なので護衛という任の意味が理解できていないのでしょうか?」
「かげもの……?」
「こうして自由に影から出入りしている姿を見ると、本当に役立つ存在だと思います。オレが恭様の影に住み着きたいくらいですのに」
ユキちゃんを見て羨ましそうにする陽太だが、俺は今耳にした言葉をよく理解できないでいた。
要約すると、かげもの? という存在は影に住む護衛ということなのかな。
こんな小さくて可愛い仔猫ちゃんが俺のガーディアンだなんて信じられないけど、肯定するように「にゃー!」とユキちゃんが元気よく鳴いた。
こんな可愛い子猫が護衛なんて危険な事ができるはずがない。
ユキちゃんを見る限り、護衛とは名ばかりでペット的な感覚なのだろう。
「オレも自分の影獣が欲しいのですが相性の良い獣が見つからなくて。お暇があれば相性の良い獣の見分け方を教えて頂けますか、恭様!」
「……あぁ」
羨ましそうな目で白い子猫のユキちゃんを見ている陽太に、断るのが申し訳なくて思わず相槌を返してしまった。
でも、この約束が守られる事は無いだろう。俺は獣の見分け方なんか知らないのだから。
めちゃくちゃ期待してくれているのに、ごめんね陽太。今日の夕食はオカズを分けてやるから、それで勘弁してくれ!
思うに、俺が憑依する前の『藤見恭』という男は凄い人物なのだろう。
かげもの? の件も、恐らく簡単には使いこなせない術か何かだと思う。
陽太の口振りからすると、何度も手に入れるために頑張ったが無理だったようだ。
それに、主従である事を差し引いても陽太の俺へ向ける視線は尊敬に満ち溢れている。
つまり、陽太をこれほどまでに心酔させてしまう何かが『藤見恭』にはあるのだ。
彼が持つ能力がどの程度のモノなのか、俺にはわからない。
例え分かったとしても、その能力の使い方を知りたいとも思わない。
この世界の事も詳しく理解できていない状態で、何が正しい事なのか不明だからだ。
当然のように彼の存在すべき環境に俺が共存している現象。
不思議な体験、という一言で片づけてしまう事はできない状態だ。
俺は彼であって、彼ではない存在。
鬼一族の青年である『藤見恭』という『器』に入っているだけの『中身』なのだ。
……では『元の中身』はどこに行った?
今こうして『器』に入っている『中身』の俺が入るべき本当の『器』も。
わからない。誰が何に嵌っている事が正しいのか。
考えなくてはならない気がする。俺が何故この場に居て、この環境で今を生きているのかを。
「――……っ」
「恭様、顔色が悪いようですが……?」
陽太にそう言われて、額に薄らと汗をかいている事に気付いた。
混沌とした意識に支配されていたせいだろうか。未だ激しく脈打つ心臓は、俺に考える事を催促しているのか、それとも拒否しているのか。
「……少し風に当たりたくなった」
「文はオレが代筆しておきますので、恭様は散歩でもなさってはいかがですか?」
「そうだな、塀伝いに城を一周してくる」
気持ちを落ち着けるために一度長い息を吐き、陽太の厚意に甘えることにした。
少し混乱しているので、一度頭を冷やした方が考えが整理できるかもしれない。
心配そうな様子の陽太には、相変わらず頭が上がらないな、と思う。俺の変化に瞬時に気付き、気遣ってくれる上に代筆まで申し出てくれるなんて良妻のようだ。
……ん? 代筆?
それって俺の代わりに手紙を書いて送ってくれるって事?
書道の腕前が微妙な上に使われている文字の知識が無い俺の代わりに全部請け負ってくれるって事?
ひゃっほーい、ありがとう陽太! ホント陽太様々だよね、さすが俺の心の友!
急に気分良くなってきちゃったよ。元気百倍だよ。
でも回復した事がバレたら自分で手紙書かなきゃダメになるから黙っておこうっと。
鼻歌を歌い出しそうになるのを必死に耐え、キリッとした表情で部屋から一歩を踏み出す。
行ってらっしゃいませ、と背にかかる声に軽く手を上げることで答え、上機嫌のまま庭でも散歩しようと考えた。
廊下を進んでいる内にふにゃふにゃと緩みだした頬。バレなかった事にホッとしていると、ユキちゃんがトコトコと俺の斜め前を歩いている事に気付く。
案内役を買って出てくれるのか、時々振り返っては俺が後を付いて来ている事を確認していた。
意地悪心が働いて、俺が少しでも距離を離すと慌てて戻ってきて不満そうに『にゃー』と鳴くユキちゃん。
逆に一定の距離以上近づいてしまうと、慌てたように速足でユキちゃんは距離を空ける。
かーわーいーいー!
ふわふわの白い子猫っていうだけで可愛いのに、アクション一つ一つがツボすぎる!
ホント癒される。アニマルセラピーって素晴らしい……。
◆◇◆
陽太に言ったように、俺は庭に出て白い塀沿いに足を進めていた。
最初に城を案内された時には気にしていなかったが、かなり敷地面積が広いようだ。
終わりの見えない塀は、勢い良く駆け登っても越える事ができない程の高さ。
俺と空との間にあるそれは、迫り来る印象さえ抱かせる。
土で整備された地面を一歩一歩確実に踏みしめながら、飛行機雲すらない青空を見上げて風を感じる。
…飛行機という言葉で再び思い出したが、この世界に来る前の俺はどうなったのだろう。
冬の寒い夜に自動販売機で缶珈琲を買った、現代に生きていた俺は。
元の世界には家族や友人が居て、何気ない日常を過ごしていた。
つまらない話で笑って、平凡だと思いながらも平和で幸せな日々。
勉強して、働いて、遊んで、家に帰れば暖かい家族が待っている。
右も左も分からない異世界という地で故郷(げんだい)を懐かしんでいる事に気づく。
心の何処かで現代に帰りたいと感じ始めている自分が居る。
たった一日、日常と違った場所で過ごしただけなのに恋しい、と。
帰りたい。
しかし何故かその一言を口にすることはできなかった。
この一日で繋がりを持った鬼一族の皆の顔が脳裏に浮かび上がったからだ。
相変わらず感情に流されやすい自分が嫌になってくる。
今の状況が偶然か必然か、それも不明なのに。
帰りたいと思いながらも、この世界で俺が何ができるのか考えている。
帰りたいと思いながらも、この世界での俺が何なのかを知りたいと感じている。
俺の居場所は異世界(このせかい)ではない。
俺の居場所は異世界(このせかい)かもしれない。
一体何がしたいのだろう、俺は。
水面(みなも)で揺れるクラゲのようにゆらゆらと。
結局は自分で自分の気持ちがわからない事に、笑うしかなかった。
ザァッ……、と風が吹き、情けなく背を丸めた俺の体を撫でていく。
舞い上がる砂埃が着物から露出している肌に当たり、少しだけ痛かった。
「鬱陶(うっとう)しいな……」
風に弄ばれ無造作に流れた髪が目にかかったので手で払う。
自然と耳に近くなった自分の手を止めると、風の音に紛れて聞こえる『何か』に気付いた。
『――……、……』
「……?」
歩みを止めて、耳を澄ますようにして目を閉じれば視覚以外の五感が少しだけ鋭くなった。
頭の奥に響く、『何か』に誘われる。探れば探る程に俺の中に『何か』が浸透していくのが感じられた。
警戒心はなく、むしろ心地好いそれは血液に乗って体中を巡っていく。
ふわふわと宙を漂う感覚や、水の流れに身を委ねる感覚に酷似している。
暗闇の中で行く先を求めて手を伸ばす。
そうすれば、俺を誘う『何か』を捕まえる事ができる気がした。
しかし闇に包まれた世界ではハッキリとそれを目にする事が難しい。
それをもどかしく思えば、白い光が闇を追い払うように迫る。
閉じた瞳の先に、暗闇を抜けて白い空間が広がった……、その瞬間。
ズキッ……!
「痛(い)っ……!」
頭の奥底に、尋常じゃない痛みが走って思わず声を漏らした。
白い空間が一瞬にして暗闇に戻り、痛みに耐えられなくなって閉じていた目を開いた。
ズキン、ズキン、ズキン……
一度鋭く痛んだ後は、じわじわと鈍い痛みが続いている。
それはまるで、これ以上は踏み込むなと俺を拒絶しているような痛み。
左胸の奥を叩く脈が急激に速まり、今度は息苦しさと眩暈が俺を襲う。
再び視界が暗闇に覆われ、程なくして白い空間へと運ぶ。
白い空間に辿り着いたと思えば、またもや暗闇に戻され同じ事が繰り返される。
黒が白へ、白が黒へ。コマ切れのような間隔で入れ替わっては、互いを牽制し合う。
混ざる事のない二つの目的は同じで、共に俺を浸食しようとしている。
来るな、俺に近づくな。
何が来るのかは分からない。近づくそれは一体何なのか。
痛みなのか、苦しさなのか、それとも俺自身が拒絶されているのか。
呼ぶな、俺を呼ばないでくれ。
何が俺を呼んでいるのかは分からない。呼ばれているのかも本当は不確かだ。
だけど感じる、引き寄せられるように、引き摺られるように不安定な『何か』を。
ズキン、ズキン、ズキン……!
「な、んだ、これっ……!」
右と左に分かれ、同じ速度で俺を取り込もうとした影と光が目前に迫り息が止まった。
底知れない恐怖心が俺自身に『逃げろ』と命令するが、それはもはや遅すぎる。
意志を持ったように俺を欲する影と光が得体の知れない化け物に見えた。
振り払うために手を上げようとするが、それも間に合わない。
――ダメだ、呑まれる……!
「にゃーん!」
そう思った瞬間、俺の耳に真っ白なあの子が鳴く声が届いた。
影と光が俺の体に触れそうになった直前、俺を引き戻したのはユキちゃんの声だ。
沈みかけていた意識が一気に浮上し、モノクロに支配されていた俺の視界に鮮明な世界が戻ってくる。
吹き抜ける風に促されるようにして空を仰ぎ見れば、澄んだ青が目に入る。
激しく脈打っていた左胸の奥は、優しい風に宥められて落ち着きを取り戻していく。
自分があの黒と白の不安定な世界ではなく、現実に居ると感じた事にホッと胸を撫で下ろす。
額に浮かび上がった汗を袖で拭えば、頭の奥底で疼いた痛みは既に治まっていた。
ビリッ、ビリビリビリッ!!
――が、今度は聞き慣れない音が俺の耳に入った。
え、何ですかこの紙が破れるような音は。
嫌な予感を感じながら周囲を見回すと、少し先の塀に跳び付いているユキちゃんの姿。
何度もジャンプしては離れ、果敢に繰り返す姿が非常にたくましい。
白い塀に白い猫、という組み合わせなので事態を確認し難い。
何だ何だと思いながら歩み寄ってみると、実は白い塀に白い猫、そして白い御札という組み合わせである事実が発覚した。
……そう。驚く事にユキちゃんは、塀に張り付いている御札に跳び付いて爪で破くように剥がしていたのだ。
ひいいいっ、何してるのユキちゃんんん!! 御札を剥がすとか罰(バチ)あたりすぎるんですけどぉ!?
慌ててユキちゃんを抱え上げて、殆ど剥がされてしまった御札を恐る恐る確認してみる。
御札はユキちゃんの鋭い爪によって見るも無残な姿になり、辛うじて塀に引っかかっている程度だ。
二重貼りになっていたらしい御札の二枚目は無傷なので少しだけ安心した。
しかし一枚目の状態が悪すぎる。押えつければ誤魔化す事ができるだろうか。
誰も見ていない今なら、修正してしまえば犯人が俺達だとバレる事はない。
だが誰か来るのも時間の問題だ。しかも、御札の修正なんか俺に可能だろうか。
むしろ、この御札を放置して逃げ出すか?
そんな風に考えたのが良くなかったのか、俺が軽く触れただけで一枚目の御札は塀に引っかかる力さえ失ってヒラリと俺の手中に収まった。
ぬわあああああ! コレって最終的に俺が剥がした事になるの!?
破いたのはユキちゃんだけど、最終的に止(とど)めを刺したのは俺?
何か文字や文様が沢山描かれてて高級そうだし、やばいよコレ!!
戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻ってくださいお願いします。むしろ時間よ巻き戻れ! ユキちゃんが破いてしまう前に巻き戻れ!!
無駄だとは分かっているが、何とか再び御札が貼りつかないか試してみる。
最終手段は放置して逃げ出す事だが、さすがに非道すぎるので実行したくはない。
無事な方の御札に手をあてて、刺激を与えないように軽くさする。
うん、この御札は結構丈夫な紙でできてるみたいだ。紙質や手触りも最高だった。
それとは違いユキちゃんが破いてしまった御札は、質感は良いが薄っぺらい紙で作られている。
二枚目に比べれば質で劣るようなので、み、水で濡らせば元のように貼り付くかな~……、と淡い期待を抱いてみた。
あいにく、水筒等を持ち歩いているはずがないので井戸を探しにいく事に決めた。
誰にも目撃されていない今なら修正手段はいくらでもある。目撃されなければ、ね。
しかし俺が井戸を探している間に、誰かが御札に気付いたら知らないフリをしよう。
最低とか言わないで下さい。この方法が俺もユキちゃんも平和に暮らせるのだから。
でも人としての道理に反する気もしたので、歩み出そうとしていた足を再び止めた。
ここは素直に謝って許しを請う方が良い方向に転ぶかもしれない。謝る相手によっては、優しくおデコをツン!とされるだけで大丈夫な気がする。
ちなみに小萩さんは論外だ。正座で五時間くらい説教された後、お尻を布団叩きで叩かれて追い出されると思う。
ぐすん、想像したら泣けてきちゃったんですけど。そして何故か既に尻が痛い!
よし、痛いのは嫌なので優しそうな人を探そう。
超気弱そうな女中さんとか探して、謝罪してから音速で城を去ろう。
陽太は逃亡ルートの途中で素早く回収する事にして、帰りの挨拶は置手紙にしよう。
手紙でサヨナラ! なんて失礼かもしれないけど、急な用事ができた事にすればいいよ。
完璧じゃないか、俺の作戦。謝罪して逃亡なんて。暫くは山奥に身を隠す事にします。
チキンな俺の些細な野望だ。神様、どうか協力をお願いします!
「何をしておるのじゃ?」
はい俺の野望がたった今、潰(つい)えましたー。
後ろから誰かに声を掛けられたんだけど、明らかに男性です。
もうアレだよね。神様って絶対俺の事嫌ってるよね? つーか本当は神様なんか存在しないんじゃね?
誰だ神様を信じた馬鹿は。ハハッ、俺だよ。お馬鹿さんは俺だよ、バーカバーカ!
目尻に浮かんだ涙をそっと拭い、俺はゆっくり時間をかけて体を反転させる。
振り返ると其処には、城に入る時に挨拶をした門番さんの姿があった。
門番さんの後ろには腰に刀を差したマッチョな武士風の男性が二人。
お、お友達ですか? 年齢が近そうだから同期とかかもしれない。
「こんにちは」
極度の緊張により引き攣りそうになるのを我慢して、できるだけ自然な笑顔を浮かべてみせた。
太陽が頭の真上に来るには少し早い時間だが、挨拶は無難なモノで大丈夫だろう。
肩口でユキちゃんが『フーッ!』と威嚇するような声を上げている姿にドキドキだ。
うん、怖いモノ知らずなキミも可愛いけど今は少し大人しくしててくれるかな? そもそもユキちゃんの悪戯のせいだからね!?
御札が貼ってあった塀を俺の体で隠して、時が過ぎる事に堪える。
作戦決行のタイミングは大きく逃してしまったが、この場を切り抜ければ希望はある。
俺は握っている拳に力を入れ、心の中で十字架に向かって必死に祈りを捧げる自分を思い浮かべた。
全然信じてないけど、お願いします神様。
どうか、この場を切り抜けたいという俺の小さな願いを叶えて下さい。
この先に待つ、俺の明るい未来のために神様(アナタ)の慈悲をお願いします……!
しかし、どこまでも神様は俺に対して残酷だった。
不審そうに俺の姿をジロジロと見た門番さんの目は一点に止まり、カッ!と見開かれた。
門番さんの目が止まった場所。
それは俺が破れた御札を手にしている右手だ。
あ、もしかして死亡フラグ立っちゃいましたか?
「な、何と、お主はその札を剥がしたのか!」
温和そうだった顔を真っ赤に染めて、激怒したように声を上げる門番さん。
小柄な体が怒りによってフルフルと震えている事が目に見えて明らかだ。
そんな怒り心頭の門番さんの叫びによって、後ろの二人が一歩俺に近づいた。
腰の刀に手を添え、臨戦態勢と取れる姿に俺の背中を滝のような汗が流れていく。
ハハハハハ、どうやら本当に死亡フラグが立ってしまったようです。
チキンな俺&ちょっとお転婆で癒し系猫ちゃんの対戦相手は、怒れば実は超怖かった門番のお爺さん&マッチョ武士二人。
勝敗は一目瞭然だ。俺達が勝てるはずがない。イジメだよコレ。
この場を切り抜けるという俺の小さな願いは、あっさり砕け散った。
やっぱり神様なんか存在しないようだ。いや、十字架に祈りを捧げたのがダメだったとか?
キリスト的なお祈りじゃダメだったの? 仏教じゃなきゃダメだったの?
とにかく、神様が存在してもしなくても俺が宿命レベルで嫌われている事は理解できた。
神頼みも叶わなかった俺にできる事はただ一つ。
誰か俺に弁護士を呼んで下さい!!
情けなく震える声を力の限り出し、心の中で叫ぶ事だけ。
そんな虚しい心の叫びは、誰の耳に入る事なく青い空に溶けて消えてしまったのだった――
場所は先ほどの大失恋見合いから変わって、俺に用意されている客間だ。
適当な所に座っている俺の前には黒塗りされた低い執務机。
その上には質の良い紙。更に硯と墨。最後に陽太から手渡されたのは細身の筆だった。
やっぱり、と心の中で呟きながら俺は熱くなる目頭を押さえた。
手紙を文(ふみ)と呼ぶくらいだから古風だとは思ったが、まさか本当に書道とは。
書道なんか学校の授業で習った程度なので自信がない。
そもそも、未だにこの世界の文字が日本語なのか不明なままだ。ただでさえ不安で、ぶっちゃけ手紙なんて面倒だと思っているのに。
そして決定打はニコニコと無邪気な笑顔で笑っている陽太の質問だった。
「文には何とお書きになるのですか?」
何ですかこの羞恥プレイ。
ラブレターの中身を話さなきゃいけないなんて拷問以外の何物でもないよ。
無駄に明るい陽太の笑顔にイラッとしたので、額にデコピンを打ち込んでやる。
結構強烈な音がしたが、陽太は声も上げず嬉しそうに頬を緩めて額をさすっていた。その様子は一気に俺の不安を煽る。
オイオイ、陽太お前…もしかしてM属性の方ですか?
何て属性を隠し持ってるんだよ。秘密は秘密のままにしておこうよ。
うん、ツッコミを入れたら更に面倒な事になりそうだから気付かなかった事にしよう。
そう判断した俺は視線を再び執務机に向けた。
当たり前の事だが、何度見つめても筆は鉛筆に変わってくれない。
もう手紙とか書かなくて良いんじゃね? どうせ明日には追い出されるはずだし。
「文を書く必要は無いと思っている」
「宜しいのですか? 文を送らなければ後で大事になると思いますが……」
物ぐさな俺が放棄発言をすると、間を置かず陽太が言葉を返してきた。
確かに陽太の言う事は一理あると思った。
婿の話を辞退しようとしている俺からの手紙なんか、花姫様は欲しくないとだろう。
しかし花姫様に手紙を書かなければ小萩さんが般若の如く怒り狂いそうだ。小萩さんの願事(めいれい)を藤見家は無視するのか、と。
ううう、想像しただけで泣きたくなってきた。
よし、やっぱり手紙を書こう。
早々に覆すなんて意志が弱いとか言わないで下さい。背に腹は代えられない。書かなきゃ死亡フラグ立つよコレ。
小萩さんの怒りを買うくらいなら内容の薄い手紙一通など安いものだ。
そう決めた俺は、うーん……と悩みながら腕を組んで手紙の内容を考えてみる。
『俺の事なんか気にせず他の婿候補と仲良くして下さい』と伝えたいのだけど、そのまま書いてしまうと嫌味な感じになってしまうので表現は変えようと思う。
そうだ。『俺の事は放置しておいて下さい』と書く方が良いな。卑屈すぎないように、それでも相手側の面目を潰さないようにするには……。
「呼ばれたら会いに行く、とだけ書いておくよ。他の婿候補達と約束するだろうから、俺が呼ばれる事は無いだろう」
「なるほど、意地悪をして気を引く作戦ですか。相変わらず平然としたまま酷い事をされますね!」
意地悪? 作戦?? 何言ってるんだよ陽太、意味わかんねぇ。
そして最後の一言は笑顔で言う事ではないと思うのですが。
この飴と鞭の使い分けが……とか呟きながらウットリしている陽太(バカ)は放置しよう。
久々の書道に少し緊張しながら細身の筆に墨を浸み込ませた。
上手く書けるかは分からないが、最悪の場合は適当に言い訳して陽太に書いてもらえば平気だろう。
そんな風に陽太任せの事を考えながら、何気なく視線を下に向けると俺の隣に白い塊がある事に気付いた。
視界の端に映ったのは、ふわふわのもこもこ。
何だこれ、とその白い物体を凝視していると向こうも俺の視線を感じたようで、丸まっていた状態から徐々に形を明確にする。
塊の正体は、丸まっていた白い子猫だった。
どこから来たのキミ、と手にしていた筆を置いて抱え上げてみれば、俺の両手に楽勝でおさまってしまう小さな猫ちゃん。
手の上は居心地が悪かったのか、少しの抵抗を見せた後は俺の体をよじ登り始め、最終的に後ろから肩口にしがみ付く形で落ち着いた。
満足そうに『にゃー』と鳴いた姿が、また可愛いじゃないか。
全身がふわふわの白い毛だと思ったが、よく見てみると耳と尻尾が茶色だ。
黒真珠のように深い黒の瞳を持つ目は、猫にしては少し垂れ気味だった気がする。
そーっと猫ちゃんの鼻先に指を近づけると、かぷっと指を甘噛みされた。
かっ、可愛い……。
何だこの胸のときめきは! キュンキュンしちゃってるよ俺。
はっ……! ま、まさか、これが噂に聞く『萌え』という感情か!?
「あれ、いつの間にユキを影から出されたのですか?」
誰ですかユキさんって。
俺が猫ちゃんに対して胸をときめかせていると、自分の世界から帰還した陽太が口を開いた。
首を傾げながら質問してきた陽太に、同じように首を傾げて聞き返しそうになる。
不思議そうにしている陽太の視線を追うと俺の肩口に張り付いている猫ちゃんに辿り着いた。
もしかして『ユキ』って猫ちゃんの名前なの?
名前の由来って白い猫だから?白色の『シロ』じゃ定番すぎるから雪の『ユキ』?
……うん、鬼一族のネーミングセンスに物申したいところだけどスルーしておくよ。
どうやらその推測は間違いないらしく、陽太は肩を竦めながら続きの言葉を紡いだ。
「恭様の影獣(かげもの)なので危険が迫らない限り影から出る事はないはずですが、まだ子供なので護衛という任の意味が理解できていないのでしょうか?」
「かげもの……?」
「こうして自由に影から出入りしている姿を見ると、本当に役立つ存在だと思います。オレが恭様の影に住み着きたいくらいですのに」
ユキちゃんを見て羨ましそうにする陽太だが、俺は今耳にした言葉をよく理解できないでいた。
要約すると、かげもの? という存在は影に住む護衛ということなのかな。
こんな小さくて可愛い仔猫ちゃんが俺のガーディアンだなんて信じられないけど、肯定するように「にゃー!」とユキちゃんが元気よく鳴いた。
こんな可愛い子猫が護衛なんて危険な事ができるはずがない。
ユキちゃんを見る限り、護衛とは名ばかりでペット的な感覚なのだろう。
「オレも自分の影獣が欲しいのですが相性の良い獣が見つからなくて。お暇があれば相性の良い獣の見分け方を教えて頂けますか、恭様!」
「……あぁ」
羨ましそうな目で白い子猫のユキちゃんを見ている陽太に、断るのが申し訳なくて思わず相槌を返してしまった。
でも、この約束が守られる事は無いだろう。俺は獣の見分け方なんか知らないのだから。
めちゃくちゃ期待してくれているのに、ごめんね陽太。今日の夕食はオカズを分けてやるから、それで勘弁してくれ!
思うに、俺が憑依する前の『藤見恭』という男は凄い人物なのだろう。
かげもの? の件も、恐らく簡単には使いこなせない術か何かだと思う。
陽太の口振りからすると、何度も手に入れるために頑張ったが無理だったようだ。
それに、主従である事を差し引いても陽太の俺へ向ける視線は尊敬に満ち溢れている。
つまり、陽太をこれほどまでに心酔させてしまう何かが『藤見恭』にはあるのだ。
彼が持つ能力がどの程度のモノなのか、俺にはわからない。
例え分かったとしても、その能力の使い方を知りたいとも思わない。
この世界の事も詳しく理解できていない状態で、何が正しい事なのか不明だからだ。
当然のように彼の存在すべき環境に俺が共存している現象。
不思議な体験、という一言で片づけてしまう事はできない状態だ。
俺は彼であって、彼ではない存在。
鬼一族の青年である『藤見恭』という『器』に入っているだけの『中身』なのだ。
……では『元の中身』はどこに行った?
今こうして『器』に入っている『中身』の俺が入るべき本当の『器』も。
わからない。誰が何に嵌っている事が正しいのか。
考えなくてはならない気がする。俺が何故この場に居て、この環境で今を生きているのかを。
「――……っ」
「恭様、顔色が悪いようですが……?」
陽太にそう言われて、額に薄らと汗をかいている事に気付いた。
混沌とした意識に支配されていたせいだろうか。未だ激しく脈打つ心臓は、俺に考える事を催促しているのか、それとも拒否しているのか。
「……少し風に当たりたくなった」
「文はオレが代筆しておきますので、恭様は散歩でもなさってはいかがですか?」
「そうだな、塀伝いに城を一周してくる」
気持ちを落ち着けるために一度長い息を吐き、陽太の厚意に甘えることにした。
少し混乱しているので、一度頭を冷やした方が考えが整理できるかもしれない。
心配そうな様子の陽太には、相変わらず頭が上がらないな、と思う。俺の変化に瞬時に気付き、気遣ってくれる上に代筆まで申し出てくれるなんて良妻のようだ。
……ん? 代筆?
それって俺の代わりに手紙を書いて送ってくれるって事?
書道の腕前が微妙な上に使われている文字の知識が無い俺の代わりに全部請け負ってくれるって事?
ひゃっほーい、ありがとう陽太! ホント陽太様々だよね、さすが俺の心の友!
急に気分良くなってきちゃったよ。元気百倍だよ。
でも回復した事がバレたら自分で手紙書かなきゃダメになるから黙っておこうっと。
鼻歌を歌い出しそうになるのを必死に耐え、キリッとした表情で部屋から一歩を踏み出す。
行ってらっしゃいませ、と背にかかる声に軽く手を上げることで答え、上機嫌のまま庭でも散歩しようと考えた。
廊下を進んでいる内にふにゃふにゃと緩みだした頬。バレなかった事にホッとしていると、ユキちゃんがトコトコと俺の斜め前を歩いている事に気付く。
案内役を買って出てくれるのか、時々振り返っては俺が後を付いて来ている事を確認していた。
意地悪心が働いて、俺が少しでも距離を離すと慌てて戻ってきて不満そうに『にゃー』と鳴くユキちゃん。
逆に一定の距離以上近づいてしまうと、慌てたように速足でユキちゃんは距離を空ける。
かーわーいーいー!
ふわふわの白い子猫っていうだけで可愛いのに、アクション一つ一つがツボすぎる!
ホント癒される。アニマルセラピーって素晴らしい……。
◆◇◆
陽太に言ったように、俺は庭に出て白い塀沿いに足を進めていた。
最初に城を案内された時には気にしていなかったが、かなり敷地面積が広いようだ。
終わりの見えない塀は、勢い良く駆け登っても越える事ができない程の高さ。
俺と空との間にあるそれは、迫り来る印象さえ抱かせる。
土で整備された地面を一歩一歩確実に踏みしめながら、飛行機雲すらない青空を見上げて風を感じる。
…飛行機という言葉で再び思い出したが、この世界に来る前の俺はどうなったのだろう。
冬の寒い夜に自動販売機で缶珈琲を買った、現代に生きていた俺は。
元の世界には家族や友人が居て、何気ない日常を過ごしていた。
つまらない話で笑って、平凡だと思いながらも平和で幸せな日々。
勉強して、働いて、遊んで、家に帰れば暖かい家族が待っている。
右も左も分からない異世界という地で故郷(げんだい)を懐かしんでいる事に気づく。
心の何処かで現代に帰りたいと感じ始めている自分が居る。
たった一日、日常と違った場所で過ごしただけなのに恋しい、と。
帰りたい。
しかし何故かその一言を口にすることはできなかった。
この一日で繋がりを持った鬼一族の皆の顔が脳裏に浮かび上がったからだ。
相変わらず感情に流されやすい自分が嫌になってくる。
今の状況が偶然か必然か、それも不明なのに。
帰りたいと思いながらも、この世界で俺が何ができるのか考えている。
帰りたいと思いながらも、この世界での俺が何なのかを知りたいと感じている。
俺の居場所は異世界(このせかい)ではない。
俺の居場所は異世界(このせかい)かもしれない。
一体何がしたいのだろう、俺は。
水面(みなも)で揺れるクラゲのようにゆらゆらと。
結局は自分で自分の気持ちがわからない事に、笑うしかなかった。
ザァッ……、と風が吹き、情けなく背を丸めた俺の体を撫でていく。
舞い上がる砂埃が着物から露出している肌に当たり、少しだけ痛かった。
「鬱陶(うっとう)しいな……」
風に弄ばれ無造作に流れた髪が目にかかったので手で払う。
自然と耳に近くなった自分の手を止めると、風の音に紛れて聞こえる『何か』に気付いた。
『――……、……』
「……?」
歩みを止めて、耳を澄ますようにして目を閉じれば視覚以外の五感が少しだけ鋭くなった。
頭の奥に響く、『何か』に誘われる。探れば探る程に俺の中に『何か』が浸透していくのが感じられた。
警戒心はなく、むしろ心地好いそれは血液に乗って体中を巡っていく。
ふわふわと宙を漂う感覚や、水の流れに身を委ねる感覚に酷似している。
暗闇の中で行く先を求めて手を伸ばす。
そうすれば、俺を誘う『何か』を捕まえる事ができる気がした。
しかし闇に包まれた世界ではハッキリとそれを目にする事が難しい。
それをもどかしく思えば、白い光が闇を追い払うように迫る。
閉じた瞳の先に、暗闇を抜けて白い空間が広がった……、その瞬間。
ズキッ……!
「痛(い)っ……!」
頭の奥底に、尋常じゃない痛みが走って思わず声を漏らした。
白い空間が一瞬にして暗闇に戻り、痛みに耐えられなくなって閉じていた目を開いた。
ズキン、ズキン、ズキン……
一度鋭く痛んだ後は、じわじわと鈍い痛みが続いている。
それはまるで、これ以上は踏み込むなと俺を拒絶しているような痛み。
左胸の奥を叩く脈が急激に速まり、今度は息苦しさと眩暈が俺を襲う。
再び視界が暗闇に覆われ、程なくして白い空間へと運ぶ。
白い空間に辿り着いたと思えば、またもや暗闇に戻され同じ事が繰り返される。
黒が白へ、白が黒へ。コマ切れのような間隔で入れ替わっては、互いを牽制し合う。
混ざる事のない二つの目的は同じで、共に俺を浸食しようとしている。
来るな、俺に近づくな。
何が来るのかは分からない。近づくそれは一体何なのか。
痛みなのか、苦しさなのか、それとも俺自身が拒絶されているのか。
呼ぶな、俺を呼ばないでくれ。
何が俺を呼んでいるのかは分からない。呼ばれているのかも本当は不確かだ。
だけど感じる、引き寄せられるように、引き摺られるように不安定な『何か』を。
ズキン、ズキン、ズキン……!
「な、んだ、これっ……!」
右と左に分かれ、同じ速度で俺を取り込もうとした影と光が目前に迫り息が止まった。
底知れない恐怖心が俺自身に『逃げろ』と命令するが、それはもはや遅すぎる。
意志を持ったように俺を欲する影と光が得体の知れない化け物に見えた。
振り払うために手を上げようとするが、それも間に合わない。
――ダメだ、呑まれる……!
「にゃーん!」
そう思った瞬間、俺の耳に真っ白なあの子が鳴く声が届いた。
影と光が俺の体に触れそうになった直前、俺を引き戻したのはユキちゃんの声だ。
沈みかけていた意識が一気に浮上し、モノクロに支配されていた俺の視界に鮮明な世界が戻ってくる。
吹き抜ける風に促されるようにして空を仰ぎ見れば、澄んだ青が目に入る。
激しく脈打っていた左胸の奥は、優しい風に宥められて落ち着きを取り戻していく。
自分があの黒と白の不安定な世界ではなく、現実に居ると感じた事にホッと胸を撫で下ろす。
額に浮かび上がった汗を袖で拭えば、頭の奥底で疼いた痛みは既に治まっていた。
ビリッ、ビリビリビリッ!!
――が、今度は聞き慣れない音が俺の耳に入った。
え、何ですかこの紙が破れるような音は。
嫌な予感を感じながら周囲を見回すと、少し先の塀に跳び付いているユキちゃんの姿。
何度もジャンプしては離れ、果敢に繰り返す姿が非常にたくましい。
白い塀に白い猫、という組み合わせなので事態を確認し難い。
何だ何だと思いながら歩み寄ってみると、実は白い塀に白い猫、そして白い御札という組み合わせである事実が発覚した。
……そう。驚く事にユキちゃんは、塀に張り付いている御札に跳び付いて爪で破くように剥がしていたのだ。
ひいいいっ、何してるのユキちゃんんん!! 御札を剥がすとか罰(バチ)あたりすぎるんですけどぉ!?
慌ててユキちゃんを抱え上げて、殆ど剥がされてしまった御札を恐る恐る確認してみる。
御札はユキちゃんの鋭い爪によって見るも無残な姿になり、辛うじて塀に引っかかっている程度だ。
二重貼りになっていたらしい御札の二枚目は無傷なので少しだけ安心した。
しかし一枚目の状態が悪すぎる。押えつければ誤魔化す事ができるだろうか。
誰も見ていない今なら、修正してしまえば犯人が俺達だとバレる事はない。
だが誰か来るのも時間の問題だ。しかも、御札の修正なんか俺に可能だろうか。
むしろ、この御札を放置して逃げ出すか?
そんな風に考えたのが良くなかったのか、俺が軽く触れただけで一枚目の御札は塀に引っかかる力さえ失ってヒラリと俺の手中に収まった。
ぬわあああああ! コレって最終的に俺が剥がした事になるの!?
破いたのはユキちゃんだけど、最終的に止(とど)めを刺したのは俺?
何か文字や文様が沢山描かれてて高級そうだし、やばいよコレ!!
戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻ってくださいお願いします。むしろ時間よ巻き戻れ! ユキちゃんが破いてしまう前に巻き戻れ!!
無駄だとは分かっているが、何とか再び御札が貼りつかないか試してみる。
最終手段は放置して逃げ出す事だが、さすがに非道すぎるので実行したくはない。
無事な方の御札に手をあてて、刺激を与えないように軽くさする。
うん、この御札は結構丈夫な紙でできてるみたいだ。紙質や手触りも最高だった。
それとは違いユキちゃんが破いてしまった御札は、質感は良いが薄っぺらい紙で作られている。
二枚目に比べれば質で劣るようなので、み、水で濡らせば元のように貼り付くかな~……、と淡い期待を抱いてみた。
あいにく、水筒等を持ち歩いているはずがないので井戸を探しにいく事に決めた。
誰にも目撃されていない今なら修正手段はいくらでもある。目撃されなければ、ね。
しかし俺が井戸を探している間に、誰かが御札に気付いたら知らないフリをしよう。
最低とか言わないで下さい。この方法が俺もユキちゃんも平和に暮らせるのだから。
でも人としての道理に反する気もしたので、歩み出そうとしていた足を再び止めた。
ここは素直に謝って許しを請う方が良い方向に転ぶかもしれない。謝る相手によっては、優しくおデコをツン!とされるだけで大丈夫な気がする。
ちなみに小萩さんは論外だ。正座で五時間くらい説教された後、お尻を布団叩きで叩かれて追い出されると思う。
ぐすん、想像したら泣けてきちゃったんですけど。そして何故か既に尻が痛い!
よし、痛いのは嫌なので優しそうな人を探そう。
超気弱そうな女中さんとか探して、謝罪してから音速で城を去ろう。
陽太は逃亡ルートの途中で素早く回収する事にして、帰りの挨拶は置手紙にしよう。
手紙でサヨナラ! なんて失礼かもしれないけど、急な用事ができた事にすればいいよ。
完璧じゃないか、俺の作戦。謝罪して逃亡なんて。暫くは山奥に身を隠す事にします。
チキンな俺の些細な野望だ。神様、どうか協力をお願いします!
「何をしておるのじゃ?」
はい俺の野望がたった今、潰(つい)えましたー。
後ろから誰かに声を掛けられたんだけど、明らかに男性です。
もうアレだよね。神様って絶対俺の事嫌ってるよね? つーか本当は神様なんか存在しないんじゃね?
誰だ神様を信じた馬鹿は。ハハッ、俺だよ。お馬鹿さんは俺だよ、バーカバーカ!
目尻に浮かんだ涙をそっと拭い、俺はゆっくり時間をかけて体を反転させる。
振り返ると其処には、城に入る時に挨拶をした門番さんの姿があった。
門番さんの後ろには腰に刀を差したマッチョな武士風の男性が二人。
お、お友達ですか? 年齢が近そうだから同期とかかもしれない。
「こんにちは」
極度の緊張により引き攣りそうになるのを我慢して、できるだけ自然な笑顔を浮かべてみせた。
太陽が頭の真上に来るには少し早い時間だが、挨拶は無難なモノで大丈夫だろう。
肩口でユキちゃんが『フーッ!』と威嚇するような声を上げている姿にドキドキだ。
うん、怖いモノ知らずなキミも可愛いけど今は少し大人しくしててくれるかな? そもそもユキちゃんの悪戯のせいだからね!?
御札が貼ってあった塀を俺の体で隠して、時が過ぎる事に堪える。
作戦決行のタイミングは大きく逃してしまったが、この場を切り抜ければ希望はある。
俺は握っている拳に力を入れ、心の中で十字架に向かって必死に祈りを捧げる自分を思い浮かべた。
全然信じてないけど、お願いします神様。
どうか、この場を切り抜けたいという俺の小さな願いを叶えて下さい。
この先に待つ、俺の明るい未来のために神様(アナタ)の慈悲をお願いします……!
しかし、どこまでも神様は俺に対して残酷だった。
不審そうに俺の姿をジロジロと見た門番さんの目は一点に止まり、カッ!と見開かれた。
門番さんの目が止まった場所。
それは俺が破れた御札を手にしている右手だ。
あ、もしかして死亡フラグ立っちゃいましたか?
「な、何と、お主はその札を剥がしたのか!」
温和そうだった顔を真っ赤に染めて、激怒したように声を上げる門番さん。
小柄な体が怒りによってフルフルと震えている事が目に見えて明らかだ。
そんな怒り心頭の門番さんの叫びによって、後ろの二人が一歩俺に近づいた。
腰の刀に手を添え、臨戦態勢と取れる姿に俺の背中を滝のような汗が流れていく。
ハハハハハ、どうやら本当に死亡フラグが立ってしまったようです。
チキンな俺&ちょっとお転婆で癒し系猫ちゃんの対戦相手は、怒れば実は超怖かった門番のお爺さん&マッチョ武士二人。
勝敗は一目瞭然だ。俺達が勝てるはずがない。イジメだよコレ。
この場を切り抜けるという俺の小さな願いは、あっさり砕け散った。
やっぱり神様なんか存在しないようだ。いや、十字架に祈りを捧げたのがダメだったとか?
キリスト的なお祈りじゃダメだったの? 仏教じゃなきゃダメだったの?
とにかく、神様が存在してもしなくても俺が宿命レベルで嫌われている事は理解できた。
神頼みも叶わなかった俺にできる事はただ一つ。
誰か俺に弁護士を呼んで下さい!!
情けなく震える声を力の限り出し、心の中で叫ぶ事だけ。
そんな虚しい心の叫びは、誰の耳に入る事なく青い空に溶けて消えてしまったのだった――
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