へっぽこ鬼日記 幕間六
幕間六 東条明彦視点
藤見家の四男が孫娘である花の婿候補として招集に応じる――。
東条家の現当主である息子の克彦からそれを聞いた瞬間、血が滾るような戦慄が走った。
藤見家と言えば武術や鬼道術に限らず、多種多様な面で卓越した名家。
東条と同じだけの時を過ごし、縁のある者達から絶対的な支持を受ける旧家だ。
鬼一族の激戦時代にも、その誉れ高い能力で東鬼の最前線を担い多くの鬼を魅了した。
魂の契約により隷従する篠崎家と相携えれば、誰も敵わぬ矛と盾になる。
藤見の鬼が通れば地に伏す屍は千を超え、轟く怒声で万を制すると謳われた程だ。
今では停戦協定により鬼一族の争い事が激減したため、その名を戦場で広める事はない。
だが多くの鬼は知を学ぶと共に藤見の名を知り、激戦の武勇として憧れを抱く。
独自の風習を持ち、並外れた能力と信念を持つ無二の存在。
歴史を遡れば、東条派と藤見派に分かれたという記録さえ文献には残っている。
藤の名を持つ鬼は言葉で多くを語らない。
藤の名を持つ鬼は全てを己の信念に従った行動で示すのだ。
そして藤の名を持つ鬼は、知らぬ間に多くを酔わせ夢中にさせている。
そんな藤見家の血を引く若鬼が婿候補として東条の地を訪れる。
隠居していた身を自ら動かし、己の目で穿鑿(せんさく)せずにはいられなかった。
門番に扮して婿候補達を迎え、時に脱落させながら藤の名を持つ若い鬼を待った。
そして刻限間近まで東条を焦らし、若鬼は一人の従者を連れ姿を現した。
互いの眼界が合うなり、門番に扮した此方の思惑を見抜いたのか纏う空気が変化する。
声を掛ける前に悠然だが情誼(じょうぎ)に厚い礼で頭を垂れる姿は、通行を許可した他の婿候補達との差を感受させた。
一歩後ろに控える赤毛の若鬼が篠崎家の者で、片腕なのだろう。
主人と同じく頭を垂れる姿は、熟練した作法を身につけている印象を抱かせる。
連れの数を聞けば一人だと答え、目配せするように森に向けられた視線。
誘導されるように後を追えば、森と夜の闇に隠れた東条の上忍の気配が確認できた。
近づくなと牽制しているのか、役立たずと罵っているのか、それ以外の意味を持つのか。
招集に応じた他の婿候補達の中には、尾行していた下忍に気絶させられて城へ辿り着けなかった者もいる。
または東条の使者を名乗る者に扮した下忍に、城とは別の場所へ連れて行かれ刻限までに到着が不可になった者も。
双方に置いても、少し考えれば下忍の正体など簡単に見破られてしまうのに脱落した婿候補は多かった。
無事に城へ辿り着いた者の中でも、先代当主である吾(われ)の顔を知らずに素通りした者も少なくはない。
もちろん気付いて頭を下げた者も居るが、あまりにも少数すぎた。
丁重な扱いを受けて城に案内されるのが当然だと態度に滲み出ていた者は吾の手で脱落させた。
城に入るよう誘致すれば吾に背を向けず門をくぐる。
優良なそれに感嘆の言葉を漏らせば、控えめに薄く笑った。
案内の為に控えていた使用人が声を掛ければ、それにさえ礼(いや)を納むる。
さすがは藤見家。
近年の若鬼は口先だけが達者で礼儀や忠義に欠けている者が多いと思っていたが、その悪印象をたった一人で覆してしまう。
ただ礼儀正しいだけの者など、良い教育を受けさえすれば育つ。
だが何かが違うと感じた。
闇に溶けた忍を制する流れた眼も、浮かべた微笑も。
腕の良い鬼ならば当然であるその行為が、吾の血を熱くさせた。
閉じる門の先に消えた若鬼に思いを馳せれば久方ぶりに騒ぐ血。
茜色から闇に染まった空には銀色の月が輝いていた。
少しだけ欠けた月は近日中に満ち、星のない夜を明るく照らすだろう。
それは東条の地に足を踏み入れた者達を導く光なのか。
それとも東条の地に縛り付けられた鬼姫を導くための光なのか。
銀月から注ぐ光の真意は未だ不明……。
夜が明けるのが待ち遠しくてならなかった――。
◆◇◆
招集から一夜明け、孫娘と婿候補達が顔合わせを行うと聞いて朝から落ち着く事ができなかった。
一刻近く自室で過ごしたが、居ても立っても居られなくなり部屋を後にする。
現当主と隠居した身を比べれば暇な方は明確。
さすがに広間に顔を出す事はできないので、傍仕えの二人を連れて克彦の執務室へ向かう事にした。
顔合わせが済んだのであれば即座に話を聞く事ができる。
未だ終わらぬのならば、話を聞くために克彦の執務室で待っていれば良い。
後ろを歩く傍仕えの二人は『急がなくても結果は逃げない』と小言を漏らしているが聞かなかった事にした。
落ち着かない時を過ごしていた吾の傍で、奴等もまた落ち着かぬ空気を纏っていたのだから。
本殿とは別に複数の御殿がある城内では廊下を歩くより庭を回った方が早い事がある。
生まれ育った城は別の事を考えていても目的地へ着く事は容易だ。
庭を抜け整地された地面を大股で進みながら、克彦の使いとして昨晩遅くに上忍が報告に来た事を思い出す。
忍の報告であった、招集にて残った四家は概ね予想通りだった。
東鬼一族の中でも、武・知・商の面で群を抜く高名の三家。
そしてその三家を圧倒し絶対的な存在感を示したという藤見家。
昨日の様子から個人的に特に関心があるのは藤見家だが、他の三家も申し分ない。
上に立つ者として育てられてきたからには一定以上の素質は持っているはず。
東鬼の長を選ぶ事に介入してくる老臣達を黙らせる事ができる輩の一名くらいは居る事を願う。
だがやはり老臣達が東鬼の長と認めるための条件が何なのか考えてしまう。
単に優秀だというだけでは納得されないだろう。
ただ武に抜きん出ていれば良いわけではない。
ただ知が豊富であれば良いわけではない。
ただ商の才能に優れていれば良いわけではない。
老臣達を黙らせる為に、手本となるのは父である先々代当主だが今は亡き者。
記憶に存在する姿を説明しても所詮空想の産物になってしまい、実物には遠い。
何より間近で見てきた老臣達は容赦なく下手な猿真似事だと判断を下すに決まっている。
そんなに厳しい条件を付けては東鬼の長など決まるはずが無い、と意見した事もある。
しかし最終的に東条の血を持たない長は一族に軽んじられる可能性があると言い包められてしまった。
あの時の老臣達の威圧を思い出すだけで、今でも憂鬱になる己の弱さを誰か咎めてくれないだろうか。
「明彦(あきひこ)様、お気付きでございますか」
「結界札の前に何者かが……」
傍仕えの二人の言葉に、直線上に存在する鬼に気付いた。
術士の類かと思っていたが、近づくに連れてその姿形が認識できるようになる。
それは対面を果たした時とは服装が違うが、背格好は吾の関心を最も引いた者。
何より、利休色の羽織に描かれている家紋がその名を語っている。
「何をしておるのじゃ?」
近づいて声を掛ければ、さも今気付いたとばかりに体を揺らす若鬼。
気付かないはずがない。忍ではないのだから足音は消していなかった。
こんな近い距離まで気付かない上に背を取らせるとは意外な失態だと、逆に怪しく思った。
「こんにちは」
静かに振り返った彼は物を言わせない笑顔だが、引くわけにはいかない。
何か後ろめたい事があるのかと訝(いぶか)しみながら上から下へ順を追って確認すると、肩口に張り付いた小さな猫と眼が合った。
小さな体で懸命に威嚇してくる姿が微笑ましいが、今は和んでいる場合ではない。
続けて視線を下げていくと、若鬼が右手に白い紙を持っている事に気付いた。
まさか、まさか……と嫌な感情が沸き上がる。
だが何度確認しても、その紙は東条の結界札に見えてしまう。
無残にも破られてしまっているが、それは東条の城を守る結界札に他ならない。
「お主がこの札を剥がしたのか……!」
何と愚かな。
何と浅はかな。
誤りの行為にしては許容範囲を越えている。
藤の名を持つ名家に生まれながら、このような所業……。
計り知れない失望感と怒りで腹の底から声を上げてしまった。
傍仕えの二人も刀に手を掛けながら目の前の若鬼との距離を詰める。
それでも大きな動揺を見せず曇りのない眼で吾等を見返す姿は、ある意味では正当だった。
侵入者や外部の攻撃から城を守る結界は、八方に貼り巡らせた結界札により構成されている。
東西南北に主となる結界札を貼り、各間に補助札が1枚ずつ貼られているのだ。
補助札が剥がされた場合は瞬時に主の札へ効果を増大させる術が解放される。
対照的に、主の札が損傷しても多少の効力は落ちるも補助札にて補う事ができる。
しかし、互いに代役を果たせるように見えるが効果は一時的なもの。
一定の時間が経過すれば、札が消滅した個所の結界は極端に弱まり穴になり易くなる
つまり結界札を剥がすという行為は、東条に害を加えていると判断されても拠(よんどころ)ない。
東条と同じく、結界で城を守っているであろう藤見家の者がその事実を知らぬはずがない。
それでも尚、結界札を剥がすという暴挙に出たというのか。
名家の出身であっても、束縛後に尋問は免れない。
返答によっては東条への反逆と見做(みな)されるであろう。
「お待ち下さい、結界の役目を果たしている札は残ったままでございます」
「彼が持っている札は酷似していますが東条の結界札ではないと思われます」
「……何じゃと?」
しかし束縛するよう指示を出す寸前、若鬼との距離を縮めていた二人が若干の動揺を含ませて制止を掛けた。
気が動転して確認するに至っていなかったが、確かに二人が言うように東条の城を守る結界に乱れはない。むしろ良くなっているとも思える。
若鬼の読み切れない表情と、手にある札を見比べて説明するように目で諭す。
相変わらず澄んだ眼をした若鬼は、吾の視界に塀の結界札が見えるよう一歩だけ横に動く。
そして、この時を待っていたとばかりに疑いを晴らす言葉を紡ぎ始めた。
「この札は重ねて貼ってありました」
しっかりと耳に届いた言葉は真実とは思えない事を証明しているように感じた。
青年らしい若い筋肉が付いた手に握られているモノは結界札と同じにしか見えない。
確認しようと偽の札に手を伸ばせば、目的のモノを手にする事は叶わなかった。
「お触りにならない方が宜しいかと……」
控えめだが有無を言わせぬ声色で告げ、伸ばした吾の手を避けるように拒む。
札に触れる事を厭う言動に、忌避(きひ)の意を持っているのかと思った。
否、それは吾の誤解だ。そのように軽んじた物言いは感じ取れない。
大げさすぎるほど慎重に札に触れている姿から溢れる警戒心。
少しでも間違った認識で札に触れようものなら、惨事に繋がるのか。
偽の札を剥がす為に術により何らかの法則が存在したのかもしれない。
近づく吾の気配に気づいていたにも関わらず、振り返らなかったのは法則の途中だった為か。
背を向けたままだったのは危害を加える者が居ないと判断していたからだ。
背を空けねばならぬ危機的状況。それは少なからず戦者の血を持つ者にとって、危険で愚かすぎる行動。
そんな負荷を負ってでも尚、術の完成を優先させて被害を防いだ若鬼に感謝せざるを得ない。
同時に、下手な術者であれば集中が切れて無事では済まなかった事態に悪寒が走った。
「偽の札を剥がしてくれたというわけか。疑ってすまんかった……」
「そんな、当然の事です」
あれだけ一方的に疑われていたというのに、東条の地を守る事を当然だと言う心の寛大さを知る事になった。
緩められた目元から、器の大きわと人格の良さが伝わってくる。
やはり見えている範囲が、感じるモノが違う。
物事を受け取る感受性が同年代の鬼と比べて寛容すぎる。
そうだ、最初からこの若鬼は澄んだ眼で真実しか語っていなかった。
普通であれば必死に弁解しようと慌てふためくものだが、自分の意志を伝える為の間合いを見切っていた。
相手が如何なる解釈をしようとも、如何なる誤解を招こうとも覆す知恵をこの若鬼は持っている。
一手先を読むという生半可な考えではない。もはや結果は決まっているのだ。
その結果に導くだけの手を多数に持ち、時と場合で使い分けている。
少しの言動で最良の状況を導き出すなど、容易に出来る事ではない。
――……これが、藤の名を持つ鬼。
言葉で多くを語らず、全てを己の信念に従った行動で示す鬼。
そして知らぬ間に多くを酔わせ夢中にさせている、鬼が憧れる存在。
どのように教育すれば、この若鬼のような青年に育つというのか。
もはや上に立つ者となるべく成長を遂げたのだとしか思えない。
藤見の地には、このような青年が多く育っているのだろうか。
これで藤の名を背負う跡目で無いなど、信じられない。
その場に溶け込むようにして目を閉じた姿が、一時でも濁った判断を下した己には眩しすぎた。
この歳になっても全く敵わない鬼が、しかも孫と同年代の鬼が居るとは思ってもみなかった。
まだまだ力不足だと、己自身に苦笑していると傍仕えの二人から再び声が掛かった。
「明彦様、近くに克彦様の気配がございます。どうやら忍頭と共にこちらに気付いている様子です」
「ふむ、すまんが二人を連れてきてくれんか。忍頭の吾妻であれば封箱の一つや二つ、持ち歩いておるじゃろう」
「はっ、畏まりました」
克彦にも偽の札の件は話さなければならないので、場に呼んだ方が早い。
それに吾妻が共に居るのであれば、鬼道術の効力を持つ品を封じる事ができる封箱を持っているだろう。
能力(ちから)のある鬼が剥がしたとは言え強大な効力を持つ結界札に似せた札を、未だ東条の者ではない若鬼に所有させておくのは忍びない。
本来の効力があるままの札を封箱に封じる事はできないが、破り剥がされた事で弱っている今ならば一定時間抑える事は可能だ。
暫くして姿を現した克彦と吾妻は、藤見の若鬼を見て息を呑んだ。
先代当主である吾と若鬼が一緒に居た事に驚いているようで、歩みを進めながら困惑した視線と共に問い掛けの言葉を寄越してくる。
偽の札の事を告げれば、瞬時に状況を察した克彦と吾妻。
頭痛を堪えるよう額に手をやってしまった克彦の気持ちは、分からなくもない。
しかし札を放置するわけにもいかず、克彦は後ろに控えていた吾妻に札を回収するよう指示を出した。
封箱に納まった偽の札を克彦と吾妻が確認し、言葉を交わすが藤見の若鬼は札を剥がした方法を語らない。語るつもりもないようだ。
「藤見、何故この札が二重だと気付いたんだ?」
「……音が聞こえましたので」
「音?」
「それと、鳴き声も」
「泣き声……!?」
それでも質疑を続ける克彦への答えに、皆が驚愕した。
札の二重貼りに気付いたのは『音』と『泣き声』が聞こえたからだという言葉に。
能力(ちから)のある術者は害のあるモノに対して『何か』を察知するという。
モノとは術に限らず能力の強い鬼や年季の入った置物、動物にも言える事だ。
察知の方法は多種多様で限定されたものはない。術士の数だけ察知の方法があるので、限定できないという方が正しい。
東条の地では、かつて三大術士に数えられた裡念(りねん)が同じような事を言っていた記憶がある。
もっとも、裡念が同じく耳で異変を感じる術士なのかは不明だ。
裡念に訪ねた事があるが、術士は己の能力を明かさないものだと教えられた。
……では、藤見の若鬼が自ら術士の能力の一部を明かす理由は?
まさかこの何気ない一言も策の内なのだろうか。
一部を明かす事で認識を植え付け、それすらも利用する一手なのか。
こうして様々な可能性を考える事で混乱を誘っているようにも思える。
「しかし泣き声が聞こえたなど、不気味ではなかったのか?」
「いいえ、可愛らしい鳴き声でしたので」
「……そうか」
追って真相を聞き出そうと喰い付く克彦を、理解し難い答えでかわしていく。
『可愛らしい泣き声』とはどのようなモノなのか。
強力な札から聞こえる泣き声と聞いて、間違っても『可愛い』という印象は抱かない。
蔑んだような微笑みの先には封箱に封じられた偽の札。
その表情から『可愛い』という言葉が一般でいう意味を指しているのではないと伝わる。
これ以上は若鬼に語る気が無い上、言葉の意味を解せない状態では会話が続かない。
興味を無くしたように若鬼の視線が封箱から逸らされたのを合図に、克彦と吾妻が吾に近づいた。
「克彦様、藤見殿を結界の警備にあたっていた者が目撃しているはずです。偽の札について何か有力な情報があるかもしれませんので場を移しては……」
「そうだな、離れの間に移動するか」
「裡念殿には忍を向かわせておりますので、早くお帰り頂けるはずです」
「あぁ、わかった。裡念が戻ったら通してくれ」
思案するよう彷徨う克彦の視線が捕えたのは藤見の若鬼。
これから話す事は、東条以外の者には遠慮してもらわなくてはならない。
克彦はどのように切り出そうか考えているのであろう。
しかし、その空気さえ読んだ若鬼から控えめに退場の挨拶が告げられた。
深い礼をして場を去っていく姿に、もはや溜息しか零れない。
「では離れの間に向かいましょう。父上もご一緒願います」
「わかっておる。ワシもある意味、目撃者じゃからのぉ」
離れの間に移動する為に足を進め始めた克彦と吾妻。
吾も連なるように傍仕えの二人と共に一歩を踏み出すが、ふと反対方向を返り見る。
淡々と去り小さくなって行く藤見の若鬼。
既に東条の結界など微塵の興味もない、と背で語っているように見えた。
侮り難し、藤の名を持つ鬼。
この分では、従者として参じている赤毛の鬼も油断ならない存在だろう。
東条に巻き起こるかもしれない嵐の予感に、再び血が騒ぎ出した事を静かに感じていた――。
◆◇◆
離れの間は本殿より奥にあり、重要な軍議等が行われる時に使用される事が多い。
更なる大人数を集めての議会の場合は他の場所が在るのだが、今回は少数のためこの場になった。
しかしながら、話し合いの内容は集まった顔ぶれからして十分に重要性のあるモノだ。
室内にて集まった者は今の時点で六名。
当主である克彦と丁度良い距離を空けて対面するように座り、互いに背後に傍仕えの二人を置く。
吾妻は、他の忍に命じて呼んだ克彦の傍仕えが参じた後に天井裏へ移動した。
先程の結界札の件を題として話し合っても良いのだが、憶測で意見を交わすしかない状態では無駄に等しい事だと思える。
東条が誇る術士である裡念が居れば確信を突いた結果に導く事が可能だろう。
裡念は伝令の忍と共に城へ帰ってくるはず。
年配者の足では時間がかかる距離も、忍一名が居れば全く違う。
克彦も同じ事を思っているのか、眉間に深い皺を刻みながら吾妻が煎れた茶を飲んでいる。
東鬼の中でも上位に部類される東条の忍。
本来ならば多くの忍を率いる忍頭は滅多に姿を現す事がない。
現したとしても当主の前だけに留まるか、顔を隠して影として生きるのみ。
古来より忍は主人のために、その命を危険に晒しながら任務を遂行する存在だ。
諜報活動だけではなく、時に暗殺や残虐な行動をとる忍は表情に乏しく心を闇に閉ざした者が大半を占める。
しかし吾妻に至っては物心ついた頃から既に克彦と共に在った為に、忍であって忍でない心を持った。
共に笑い、共に泣き、共に怒り、共に悲しみ、共に喜び、互いを信頼している。
それが良いか悪いかを問われれば、答えはどちらでもあり、どちらでもない。
信頼し合えるからこそ生まれるモノもあり、信頼(それ)が邪魔で阻むモノもある。
克彦は当主であるが故、忍を切り捨てる決断を下す事も迫られる時がくるかもしれない。
吾妻は忍頭であるが故、己や多くの命ある者を犠牲にしてもなお主人を守る必要がある。
そう。克彦は東鬼の長であり、吾妻は忍頭なのだ。
もう一度言うが、東鬼の中でも東条の忍は上位に部類される。
その代表である忍頭に茶を煎れさせる当主など、克彦以外には存在しないと思う。
昔馴染みの間柄だからこそ許される事であり、本来ならば忍頭は滅多に姿を現す事はない。
つまり結論として『普通の忍は茶を煎れたりはしない』という事を言いたい。
兄弟に似た関係を築いてきた二人は血の関係が無くとも、家族あるいはそれに近い存在。
言葉にしなくても心で認識し合っている二人だからこそ叶う事であって、この情景が歴代の当主と忍頭の姿だとは思われたくない。
その二人の影響なのか、娘同士も非常に仲が良い。
年若く見目麗しい女鬼が並んでいるのは目の保養になる上、華がある。
身内贔屓だと言われても仕方ないのだが、特に孫娘の花の美しさは自慢だった。
……そうだ、花だ。
そもそもの目的は、克彦に花の見合い結果を聞く事。
結界札の件で随分と時間を消費してしまったが、今この場で聞いても良いだろう。
「そう言えば克彦、花の見合いはどうじゃった?」
「ぶっ、ゲホッ!」
重々しい空気を一転させての質問に、克彦は口にしていた茶を噴いてむせた。
間を置かず吾妻が待機していた天井裏から参じて克彦に寄る。
その甲斐甲斐しさに笑いそうになったが、咳き込む克彦の背を擦らずに噴いた茶を始末している姿に冷たさを感じて苦笑にとどまった。
「ごほっ……。ち、父上、今は結界について話し合う方が重要かと」
「裡念が居らんままでは大した話はできんじゃろう。それに、これ以上の害が出ておれば藤見の若鬼が黙っているはずがない。忠誠心の有無は計れぬが、少なくとも東条を守るという意はあるようじゃ」
「確かに藤見は我等では及ばぬほどに有能な鬼です。しかし彼に頼り切るのは東条としての立場があまりにも……!」
「では他の者でも解決できた、と言えるかのぅ? 東条の者が無力だとは言わん。鬼として優秀じゃと思うておる」
取って付けたような言い方に、克彦の眉が顰められた。
吾妻は吾妻で、無表情を装っているが沸き上がる怒りを抑えているようにも見える。
「この場での題も結界札の件に的を絞っておらぬ事は知っておる。お主だけではなく吾妻も、あの若鬼に対して反応が妙じゃったからのぉ。『他家から預かった大事な婿候補』というには、見る目が違ぅておったわ」
「う……」
その言葉が図星だったのか、克彦は言葉を詰まらせて肩を落とした。
暫くして何かを吹っ切るようにガシガシと荒々しい音を立てて自分の頭を掻いた克彦は、渋々といった様子で見合いの話を始める。
見合いでの花の様子、婿候補の様子、そして藤見の若鬼の志を胸に刻む。
話を聞く限りでは権力や地位に無頓着のように思うが、他に重視している事があるとも受け取れる。
それは政略結婚を嫌う事から、恋情に対する考えの方が優位に立っているのだろう。
恋情という心を浮き沈みさせるモノは、育った環境が影響する事が多い。
少なからず藤見の地での風習が今回の行動を作りだしている。
思い返してみれば、知る限りでは藤見の男鬼に権力者の血を引く女鬼が嫁いだ記憶はない。
選ばれた女鬼に法則性はなく、農民の出身であったり、詳細な出身さえ怪しい者も居る。
それは権力者同士の縁を嫌っての事なのか、それとも単純に恋情が導いた結果なのか。
「ふむ、やはり藤見の鬼には多くの謎があるようじゃな」
「過去に藤見家について調べた事があるのですか?」
「年老いた分、若い者より噂話を多く知っておるだけじゃよ。ワシに聞くより藤見家へ実際に足を運んだ張本人に聞いた方が良いとも思うが……」
婿候補の招集に応じるという藤見家からの連絡後、克彦は吾妻に藤見家の事を調べさせていたはず。
藤見家の四男について真相を確かめる為に吾妻を藤見の地へ向かわせたと聞く。
しかし、克彦と共に目を向けると困惑した表情の吾妻が首を傾げていた。
「い、いえ、残念ながら先代様のお求めになる答えは……。私は『五年ぶりに帰省した藤見家の四男が本物か』を調査しただけです」
「何じゃ克彦。吾妻に命じたのはそれだけなのか?」
「は、はぁ。藤見家の事は先に他の者が調べておりましたので。その調査内容も一般的に知られているような事しか記載されておりませんでしたが」
「やれやれ、『行方知れず』という言葉に踊らされたのか」
行方知れずだという対象を調査するのは無駄と判断し、早々に諦めたのだろう。
調査時に何か問題が生じようものなら、主人である克彦に報告しないはずがない。
藤見家について深く知らない様子から何も報告が無かったという事が分かる。
斯(か)く言う自分も聞きかじった程度なので事実を確認するに至ってはいない。
「父上は何かご存じなのですか?」
「藤見家を調べようとすれば、藤見の地の外へ強制送還されるそうじゃ。何らかの術が働いておるようじゃが、どういう仕組かは分からん。厄介な事に、その行為を繰り返せば四度目には獄へ送られると噂されておる」
「ご、獄でございますか!?」
「うむ。仏の顔も三度までという事じゃろう」
「先代様、それは藤見家の従者など近しい者を通じた場合でしょうか。例えば藤見の地に住む民を通ずる事で多少の情報を集める事が可能かと……」
「藤見の民は意味深に笑うだけで余所者には語らん。何ひとつ口外せんので、知っているのか知らぬのかも不明じゃ」
その噂話を追及して確認しない理由は二つある。
一つ目は、諜報行為で藤見家に不信感を抱かれる事を恐れているからだ。
東条側が大袈裟なほど気にしているだけで、藤見側は忠誠を崩した事がない。
わざわざ自分達から火種を撒き、煽るような事はすべきでないと考えている。
二つ目は、真実を明確にする事で東鬼の危機を招くからだ。
東条が尋ねれば藤見は隠す事なく真相を明かす。包み隠さず全てを。
東条に仕える藤見が『命令』を拒む事はない。だが『命令』はできない。
隠された部分を明かしてしまう事で東鬼の戦力中枢を露見してしまう事に繋がる。
独自の風習が何かは分からない。だが藤見家の能力の根本は風習や環境だと推測される。
明るみに出た真実を隠そうとしても東条には隠しきれないだろう。
そして、いつか他族の鬼に伝わり様々な混乱を招く結果になる。
藤見家が三度も諜報者を逃すのは警告と挑発の意味を持つ。
三度の警告で藤見家という大きな壁の存在を認識させ、三度の挑発で激情し切った愚か者を四度目に裁く。
思慮深いが、決して慈悲深くはない。
忠義や仁義には誠実だが、決して情が深いわけではない。
藤見の地に住む鬼達はそれを知り、同じであろうとするから言葉にせず笑うだけなのかもしれない。
結局、藤見家の枢機(すうき)を以って安定した今があると言えるのだ。
「あの若鬼も多くを語らず、三度までは仏の顔をしておるのかもな……」
吐息と共に漏れた呟きは重々しい室内にじわじわと響き、焦りを誘った。
克彦は思い返すように視線を宙に向け、次いで吾妻に真顔で凄みをきかせる。
吾妻も心当たりがあるのか、克彦と同じような空気を纏っていた。
「吾妻、東条までの道中に必要以上の忍を嗾(けしか)けた事は数えられると思うか」
「克彦様、藤見殿の客間の天井裏で苦言を頂いた忍は対象でしょうか」
「……吾妻、見合いでの花の態度は数えられると思うか」
「……克彦様、ネズミを察知できなかった忍の失態は対象でしょうか」
「…………吾妻、偽の結界札に対処できなかった俺達は数えられると思うか」
「…………克彦様、既に許される回数を越えておりますが許容範囲が不明でございます」
「………………」
「………………」
ピタリと止んでしまった二人により場の空気が重々しいモノになった。
藤見家の逆鱗に触れる事が何なのか、二人の会話から導き出す事はできない。
ただ一つ、『藤見家の謎を追及する諜報活動』が対象になるのは明確だ。
それ以外については、若鬼が東条に身を置いている間に聞き出す努力をしよう。
方法を軽く考えてみると、思うように事が運びそうにないという不安が先立つが……。
あれこれ各自で思考を巡らせていると、離れの間に近づく気配を感じた吾妻が静かに開口した。
「――……克彦様、裡念殿が参られます」
「っ、そうか」
吾妻の言葉により、克彦は今までの考えを打ち切るように頭を軽く振って、思考を切り替えた。
暫くして離れの間の襖が開かれると、その先に二人の影があった。
現れた影の一つは上質な茶系の着物に袖を通した、白髪で厳格な年老いた男。
現役時には鬼一族で三大鬼道術士に数えられた、先々代傍仕えの裡念だ。
残りの影は裡念への伝令を遣わされ、この場まで連れ戻った忍。
「これはこれは、随分と由々しき事態のようでございますな」
「話は一部聞いているだろう。座れ」
「年寄りの扱いが酷ぅございますな、克彦様」
消し切れていない重苦しい空気を感じたのか、重圧のある一言を発して場を緊張に包む裡念。
小言を漏らしながら、ゆっくりとした動きで指定された場所へ座った。
その動作の間に、吾妻は裡念の後ろに居た忍と読唇(どくしん)で会話を行っていた。
忍の両者が頷きあった直後、裡念を連れて来た忍は音もなく天井裏に移動。
代わりに今まで天井裏に待機していた別の忍が吾妻の隣に、これまた音もなく降り立った。
恐らく、結界札の件で呼ばれていた忍だろう。
先程の忍も、吾妻の隣で控えている忍も上忍だ。
緊張しても不自然でない顔ぶれを前にして、中忍や下忍には無い落ち着いた空気を持っている。
「報告は受けただろうが、結界に妙な仕掛けが施されていた」
「存じ上げております」
「仕掛けは解除したが、念のため確認してくれるか」
「そう思い、既に八方の札を確認して参りましたが結界に異変はございませんでした」
裡念との会話により、これ以上の害が生じる事がないと思った克彦が体から力を抜いた。
吾も克彦と同じ心境だが、他の者は相変わらず厳格な裡念に恐縮したままだ。
もちろん、裡念も己の受け答えで最初の心構えを変えるはずがない。
「仕掛けを解除した、と先程仰いましたが詳しくお教え頂けますかな?」
「あぁ、そうだな……吾妻」
裡念の前に、偽の札が入った封箱が吾妻によって差し出された。
その封箱を持ち、裡念は神妙な顔で蓋に手を掛ける。
静まった室内には嫌な意味で興奮している皆の息使いが聞こえるのみ。
左程時間をかけずに、カパッ……と比較的軽い音を立てて封箱の蓋が開かれた。
封箱の中身を確認した裡念は、細めていた眼を限界まで見開いてから意味ありげに笑った。
偽の札を一目見ただけで多くの事を悟ったのだろう。
「これはこれは、かなり苦労なされた事でしょう」
「結界の事は長年懸念していたが、お前が不在で埒が明かなかった。多少の無理を強いてでも結界を扱える者を育てるようにして欲しい」
「それは私からもお願いしたい事でございます。是非とも、この札を剥がした者を我が後継者として育てさせて頂きたい。結界に手を出せるとは思わぬ実力者が隠れていたもの。忍でございますかな?」
克彦への査問であるのに、聞かれていない吾が裡念の言葉に体が硬直してしまった。
当然、同じように動作を停止した克彦へ裡念の容赦ない疑目が注がれる。
優れた後継者を望んでいる裡念が、あの札を剥がした者に興味を抱かないはずがない。
「おやおや、如何なさいましたか」
「残念ながら札を剥がしたのは忍ではない」
「ふむ、では使用人の中に術士が?」
「――使用人どころか、東条の者ですらない」
「――ほぅ。非常に興味深い話でございます。札を剥がした経緯と共に詳しく伺いたいものですな」
「……札を剥がす様子については、目撃した忍に詰問する。話中、専門の眼を持つお前から見て思う事があれば教えてくれ」
克彦と裡念の視線は、吾妻の隣に居る上忍へ向けられた。
顔を晒している吾妻とは違い、黒い布で口元を覆っている事から表情は窺い難い。
しかし上忍ともなれば落ち着いた受け答えが期待できる。
「お前は本当に藤見が札を剥がす姿を目撃したのか?」
「――は、確かに藤見の方が白い猫を使って札を剥がす姿を目撃致しました」
克彦が問えば、期待通りのしっかりとした答えが返ってきた。
忍の『白い猫』という言葉に、藤見の若鬼の肩に乗っていた子猫を思い出す。
影獣(かげもの)という事はすぐに分かったが、あまりに小さな影獣なので特に気にしていなかった。
しかし、こうして言葉の中に現れるという事はその見解が誤っていた事を痛感させる。
「藤見の方は一言『鬱陶しい』と呟き、結界札から少し距離を置いて立ち止まりました。暫く間を置かれた後、白い猫に結界札を破くよう指示を出したように認識致しました。事実、手を翳(かざ)した事により猫は地を駆け瞬く間に札を剥がす行為を繰り返し始めたのです」
続けられる話を聞いて、次第に恐怖心が沸き上がってきている事に気付いた。
克彦の問いに『可愛いらしい泣き声』だと返答した若鬼の笑顔を思い出し、身震いがした。
耳にした音や泣き声を『可愛らしい』と表現した事に一抹の不安を覚えていたが、まさか真意が真逆だとは思わなかった。
確かに快いとは言い難い微笑みだった。
偽の札による音や泣き声が、若鬼の逆鱗に触れてしまったという事だろうか。
仏の顔を保ってくれる範囲を越え、四度目の逆鱗に触れた場合には一体何が起こるのか。
偽の札を剥がして東条に及ぶ影響を未然に防いだ事は評価に値する。
味方内だからこそ守り、害に対して冷酷な言葉を吐き捨てた事は理解されるだろう。
だが能力(ちから)の使い方を誤れば最大の盾が最強の矛になる情景を連想させられた。
「白い猫が札を剥がす姿を暫く眺め、最後はご自分で札を……」
「ふむ。恐らく、その猫は神獣の類(たぐい)でしょう。白の獣には神の血が濃く受け継がれており能力も飛び抜けているはずです」
「し、神獣など使役できるものなのか?」
「厳密に言えば可能でございます、克彦様。しかし神獣は通常の影獣とは使役方法が異なるそうです。さすがに私も神獣の影獣は持っていないので存じませぬが……」
本当に、藤見の若鬼には驚かされてばかりだ。
あの小さな子猫が神獣の血を引いているなど、誰が考えようか。
そのように貴重な存在を影獣として使役しているなど、誰が予測しようか。
一般的に影獣といえば、野犬や狼等のイヌ科の動物を使役する事が多い。
他には利便性を考慮して伝令等に役立つ鳥類を選ぶ者も少なくは無い。
と言っても、影獣は相性が良くなければ契約を結ぶ事ができないので優秀な鬼でも自分の影獣を持たない者が殆どだ。
影獣を使役しているというだけでも十分評価に値するというのに、それが神獣だとは……。
「何故結界の異変に気付いたのかが気になりますな。その者、『藤見』殿が苦言を述べる前後の行動で気になる動きは?」
「そう言えば随分と耳元を気にされていたようでした」
状況を追及する裡念の言葉に忍は動作を真似るように自分の手を耳元へ動かし、耳に触れる手前でピタリと動きを止めた。
それは音を聞き取ろうとする時の仕草に酷似している。
「何かを聞き取ろうとしておりますな」
「そうだ裡念、確かに藤見は『音』と『泣き声』が聞こえたと言っていた」
「なるほど……」
「裡念には聞こえないのか?」
「おやおや、随分と興味をお持ちのようでございますな。覚悟がお有りならば、克彦様もお聞きになっては如何でしょう。この札を始末する際に少し手を抜けば『音』を聞く事ができます故」
子供のように質問を繰り返す克彦に、懐から一枚の札を取り出しながら裡念は笑った。
何気なく札を取り出したが、裡念は懐に尽きぬ程の札を忍ばせている。
鬼道術の効果を反映させた札は、作り上げるには時間が必要だが使用時に印や詠唱を行わなくて良いか、短くて済むので即時に術を発動させる事ができる。
印を組む方法と、札を使う方法。
どちらが便利なのかと聞かれれば、術士によって答えは違う。影獣と同じく、全ては相性なのだ。
「それは?」
「術返しの鬼道術と同じ効力を持つ符でございます。この符を作るには七日の歳月が必要なのですが、致し方ありますまい」
余程貴重なモノのようで、符を握る裡念は非常に名残惜しそうな顔をしている。
裡念はその札の表面を軽く撫でた後、封箱の中へ入れると蓋を閉じた。
次に、符の時と同じように懐から黒の風呂敷を出して慣れた手つきで封箱を包む。
持ち手を持ってそれを上げれば、土産物のようにも見えて封箱が入っているとは思えない。
包みの出来に満足した裡念は包みを再び畳上に置き、克彦に差し出した。
手を伸ばせば届く距離にある包みを見て、ゴクリと咽を鳴らす克彦。
「覚悟があるのでしたら、封箱に耳を近づけてみなされ。その者が聞いたという『音』が聞こえるはずでございます」
「克彦様、先に私が……」
「いや、大丈夫だ吾妻。裡念が害のあるモノを勧めるはずがない」
克彦を危険に晒すわけにはいかない。
そう考えた吾妻が封箱の『音』を耳にする事に名乗りを上げたが、克彦は拒んだ。
立場上、忍である吾妻が取ったこの行為は当然の事なので不快を抱く者は居ない。
裡念に勧められるまま、克彦は黒い風呂敷に包まれた封箱を手にした。
徐々に近づけて行き、耳の真横で止めて探るように意識を集中させる。
克彦のように、耳元へ封箱を近づけなければ聞き取れないという事だろうか。
静まり返った室内だが、裡念の言う『音』は聞こえない。
「――……う、わっ!!」
「克彦様っ!?」
短く声を上げた克彦に反応して、瞬時に吾妻が包みを弾き飛ばす。
ガンッ! と音を立てて包みは畳上に転がり、反動で体勢を崩した克彦を吾妻が支えている。
包みを近づけていた方の耳を押さえた克彦は、額に汗を浮かべながら体勢を直した。
その顔色は世辞にも良いとは言い難い。
「わ、悪い。想像の『音』とは違っていたから驚いただけだ……」
「まだまだ覚悟が足りませぬな、克彦様」
「裡念殿、戯(たわむ)れはお控え頂けますか」
「そのように睨まれるとは心外でございますな、怖い怖い。しかし私は克彦様に覚悟なさるよう申しましたぞ、吾妻殿。ご心配ならば、吾妻殿も『音』を耳にされては如何ですかな?なぁに、暫しの間『音』が耳に残るだけで特に害はありませぬ」
再び差し出された包みを、吾妻は引っ手繰るように裡念から受け取った。
咎められる可能性もある行動は、吾妻の苛立ちを表している。
それを理解した上で楽しんでいる裡念は、笑って吾妻を許していた。
半ば自棄糞(ヤケクソ)で包みを耳に近付けた吾妻だが、瞬く間にその表情を険しいモノに変貌させた。
克彦のように声を上げはしないものの、嫌悪の念は隠し切れていない。
包みから聞こえてくる『音』はどのようなモノなのか。
吾を含む他の者も、それが気になって仕方がないので尋ねる事にする。
「吾妻、一体どのような『音』が聞こえてくるのじゃ?」
「聞こえてくるのは、燃え盛る炎の音と甲高い悲鳴でございます」
その『音』が何を意味するのかは、分からない。
しかし聞いた二つの『音』は憎悪や悲愴を抱かせるには十分なモノだ。
直接耳にしていないにも関わらず、耳鳴りが聞こえるような幻聴さえ感じてしまった。
その間も、体勢を変えないまま答える吾妻は未だに『音』に耳を傾けたまま。
克彦と同じ行為だが、明らかに『音』を耳にする時間が違う。
更に『音』の中に何かを見出そうとしているのか、一向に耳を離す気配がない。
「吾妻殿、あまり聞き入らぬようにしなされ。魅入られすぎますと、自力では戻れぬようになりますぞ」
吾妻に近づいた裡念により、『音』が聞こえる包みは取り上げられた。
何かに熱中しても周りの空気に敏感に反応するはずの吾妻には珍しい事だ。
包みを持って戻る裡念を眺めて、謝礼の意味も込めて軽く頭を下げた吾妻。
平然としている様子から、大した事はないのだと安心する。
「そろそろ時間切れでございますな」
裡念がそう言って包みを畳上に置くと、一瞬で包みから炎が燃え上がった。
赤黒い炎が全体を覆えば、何故か燃え広がらずに小さくなっていく炎。
よく確認してみれば、不思議な事に封箱を包んでいた風呂敷は燃えていなかった。
熱を持たなかった炎が消えると、裡念は風呂敷を解いて中身を吾等に見せた。
しかし風呂敷の中身は封箱どころか、燃えた灰すら無い。
折り目のついた、ただの黒い風呂敷があるだけだった……。
「施されていた術は返し終わりました。やれやれ、随分と手の込んだ嫌がらせをしてきたものですな」
「……目的は」
「友好的でない事は確かでございます」
「本当に西の仕業だと思うか」
「下手な事は言えませぬが、濃厚かと。出方を窺うか、西を調査されるかの判断は克彦様にお任せ致します」
風呂敷を折りたたみながら答える裡念に、ぐっ……と克彦の眉が寄った。
表立った争い事の無かった数百年、平和呆けしていると言っても過言でない我等が火種になる事は得策ではない。
かと言って、一方的に仕掛けられる状況で黙っている事もできない。
現当主の克彦には近々、過酷な決断を迫られるようになるだろう。
それでも争い事には温厚な克彦は、被害を最小限に抑えるために動くと思う。
最終的に決断を下すのは克彦だが、その決断に至るまでを支えるのは周りになる。
隠居したとは言え、先代当主を担っていた身。
自分の判断が東鬼全ての命運を背負っている事はよく理解している。
先任の知恵として現当主を支えるのも、吾の役目と言えるはずだ。
幸いな事に、克彦は自分の臣(しん)に恵まれている。
これで意志を継ぐ跡目が居れば、今以上に多くの行動を起こせるというのに。
そんな面も考慮して婿を選ぶ必要があるかもしれない。
「しかし、『藤見』殿でございますか」
「そ、その者に何か気になる事でもあるのか?」
「確か婿候補のお一人としてその名を記憶しております。いやはや、お会いするのが楽しみになって参りましたな」
西との関係を懸念する吾等とは違い、くつくつと笑う裡念の口は藤見の若鬼へ興味を持った事を窺わせた。
その興味は『婿候補』としてなのか、『術士』としてなのか。
名を知られてしまった今では、もはや裡念の興味を止める方法は無い。
いつの間にか日も随分と落ち、あと半刻もすれば茜色の空の先に闇が広がるだろう。
茜色の空は東条に差す光を表しているのか。
それとも先に続く夜という深い闇を招くだけの催しなのか。
時間を巻き戻す事ができないように、抱かれた興味を消す事はできない。
過ぎた時間を惜しく思っても無駄なように、興味を無くせと告げる事も無駄だ。
今はただ、茜空の先に暗闇があるように時間の流れに任せるだけ。
その闇に輝く星のように僅かな光が恐怖を緩和してくれる事を願うだけ。
願わくば、深い闇に沈んだ夜を日の光が再び照らし晴らすように。
先の見えない不安を晴らす、光となる者が東鬼を率いてくれる事を祈るだけ。
未だ見ぬ朝日の光を求め、今は流れのまま瞼を閉じよう。
そうすれば迫りくる闇に呑まれる事は無いのだから。
再び眼を開いたその時に、眩しい程の光が辺り一面を照らしているのだから――。
東条家の現当主である息子の克彦からそれを聞いた瞬間、血が滾るような戦慄が走った。
藤見家と言えば武術や鬼道術に限らず、多種多様な面で卓越した名家。
東条と同じだけの時を過ごし、縁のある者達から絶対的な支持を受ける旧家だ。
鬼一族の激戦時代にも、その誉れ高い能力で東鬼の最前線を担い多くの鬼を魅了した。
魂の契約により隷従する篠崎家と相携えれば、誰も敵わぬ矛と盾になる。
藤見の鬼が通れば地に伏す屍は千を超え、轟く怒声で万を制すると謳われた程だ。
今では停戦協定により鬼一族の争い事が激減したため、その名を戦場で広める事はない。
だが多くの鬼は知を学ぶと共に藤見の名を知り、激戦の武勇として憧れを抱く。
独自の風習を持ち、並外れた能力と信念を持つ無二の存在。
歴史を遡れば、東条派と藤見派に分かれたという記録さえ文献には残っている。
藤の名を持つ鬼は言葉で多くを語らない。
藤の名を持つ鬼は全てを己の信念に従った行動で示すのだ。
そして藤の名を持つ鬼は、知らぬ間に多くを酔わせ夢中にさせている。
そんな藤見家の血を引く若鬼が婿候補として東条の地を訪れる。
隠居していた身を自ら動かし、己の目で穿鑿(せんさく)せずにはいられなかった。
門番に扮して婿候補達を迎え、時に脱落させながら藤の名を持つ若い鬼を待った。
そして刻限間近まで東条を焦らし、若鬼は一人の従者を連れ姿を現した。
互いの眼界が合うなり、門番に扮した此方の思惑を見抜いたのか纏う空気が変化する。
声を掛ける前に悠然だが情誼(じょうぎ)に厚い礼で頭を垂れる姿は、通行を許可した他の婿候補達との差を感受させた。
一歩後ろに控える赤毛の若鬼が篠崎家の者で、片腕なのだろう。
主人と同じく頭を垂れる姿は、熟練した作法を身につけている印象を抱かせる。
連れの数を聞けば一人だと答え、目配せするように森に向けられた視線。
誘導されるように後を追えば、森と夜の闇に隠れた東条の上忍の気配が確認できた。
近づくなと牽制しているのか、役立たずと罵っているのか、それ以外の意味を持つのか。
招集に応じた他の婿候補達の中には、尾行していた下忍に気絶させられて城へ辿り着けなかった者もいる。
または東条の使者を名乗る者に扮した下忍に、城とは別の場所へ連れて行かれ刻限までに到着が不可になった者も。
双方に置いても、少し考えれば下忍の正体など簡単に見破られてしまうのに脱落した婿候補は多かった。
無事に城へ辿り着いた者の中でも、先代当主である吾(われ)の顔を知らずに素通りした者も少なくはない。
もちろん気付いて頭を下げた者も居るが、あまりにも少数すぎた。
丁重な扱いを受けて城に案内されるのが当然だと態度に滲み出ていた者は吾の手で脱落させた。
城に入るよう誘致すれば吾に背を向けず門をくぐる。
優良なそれに感嘆の言葉を漏らせば、控えめに薄く笑った。
案内の為に控えていた使用人が声を掛ければ、それにさえ礼(いや)を納むる。
さすがは藤見家。
近年の若鬼は口先だけが達者で礼儀や忠義に欠けている者が多いと思っていたが、その悪印象をたった一人で覆してしまう。
ただ礼儀正しいだけの者など、良い教育を受けさえすれば育つ。
だが何かが違うと感じた。
闇に溶けた忍を制する流れた眼も、浮かべた微笑も。
腕の良い鬼ならば当然であるその行為が、吾の血を熱くさせた。
閉じる門の先に消えた若鬼に思いを馳せれば久方ぶりに騒ぐ血。
茜色から闇に染まった空には銀色の月が輝いていた。
少しだけ欠けた月は近日中に満ち、星のない夜を明るく照らすだろう。
それは東条の地に足を踏み入れた者達を導く光なのか。
それとも東条の地に縛り付けられた鬼姫を導くための光なのか。
銀月から注ぐ光の真意は未だ不明……。
夜が明けるのが待ち遠しくてならなかった――。
◆◇◆
招集から一夜明け、孫娘と婿候補達が顔合わせを行うと聞いて朝から落ち着く事ができなかった。
一刻近く自室で過ごしたが、居ても立っても居られなくなり部屋を後にする。
現当主と隠居した身を比べれば暇な方は明確。
さすがに広間に顔を出す事はできないので、傍仕えの二人を連れて克彦の執務室へ向かう事にした。
顔合わせが済んだのであれば即座に話を聞く事ができる。
未だ終わらぬのならば、話を聞くために克彦の執務室で待っていれば良い。
後ろを歩く傍仕えの二人は『急がなくても結果は逃げない』と小言を漏らしているが聞かなかった事にした。
落ち着かない時を過ごしていた吾の傍で、奴等もまた落ち着かぬ空気を纏っていたのだから。
本殿とは別に複数の御殿がある城内では廊下を歩くより庭を回った方が早い事がある。
生まれ育った城は別の事を考えていても目的地へ着く事は容易だ。
庭を抜け整地された地面を大股で進みながら、克彦の使いとして昨晩遅くに上忍が報告に来た事を思い出す。
忍の報告であった、招集にて残った四家は概ね予想通りだった。
東鬼一族の中でも、武・知・商の面で群を抜く高名の三家。
そしてその三家を圧倒し絶対的な存在感を示したという藤見家。
昨日の様子から個人的に特に関心があるのは藤見家だが、他の三家も申し分ない。
上に立つ者として育てられてきたからには一定以上の素質は持っているはず。
東鬼の長を選ぶ事に介入してくる老臣達を黙らせる事ができる輩の一名くらいは居る事を願う。
だがやはり老臣達が東鬼の長と認めるための条件が何なのか考えてしまう。
単に優秀だというだけでは納得されないだろう。
ただ武に抜きん出ていれば良いわけではない。
ただ知が豊富であれば良いわけではない。
ただ商の才能に優れていれば良いわけではない。
老臣達を黙らせる為に、手本となるのは父である先々代当主だが今は亡き者。
記憶に存在する姿を説明しても所詮空想の産物になってしまい、実物には遠い。
何より間近で見てきた老臣達は容赦なく下手な猿真似事だと判断を下すに決まっている。
そんなに厳しい条件を付けては東鬼の長など決まるはずが無い、と意見した事もある。
しかし最終的に東条の血を持たない長は一族に軽んじられる可能性があると言い包められてしまった。
あの時の老臣達の威圧を思い出すだけで、今でも憂鬱になる己の弱さを誰か咎めてくれないだろうか。
「明彦(あきひこ)様、お気付きでございますか」
「結界札の前に何者かが……」
傍仕えの二人の言葉に、直線上に存在する鬼に気付いた。
術士の類かと思っていたが、近づくに連れてその姿形が認識できるようになる。
それは対面を果たした時とは服装が違うが、背格好は吾の関心を最も引いた者。
何より、利休色の羽織に描かれている家紋がその名を語っている。
「何をしておるのじゃ?」
近づいて声を掛ければ、さも今気付いたとばかりに体を揺らす若鬼。
気付かないはずがない。忍ではないのだから足音は消していなかった。
こんな近い距離まで気付かない上に背を取らせるとは意外な失態だと、逆に怪しく思った。
「こんにちは」
静かに振り返った彼は物を言わせない笑顔だが、引くわけにはいかない。
何か後ろめたい事があるのかと訝(いぶか)しみながら上から下へ順を追って確認すると、肩口に張り付いた小さな猫と眼が合った。
小さな体で懸命に威嚇してくる姿が微笑ましいが、今は和んでいる場合ではない。
続けて視線を下げていくと、若鬼が右手に白い紙を持っている事に気付いた。
まさか、まさか……と嫌な感情が沸き上がる。
だが何度確認しても、その紙は東条の結界札に見えてしまう。
無残にも破られてしまっているが、それは東条の城を守る結界札に他ならない。
「お主がこの札を剥がしたのか……!」
何と愚かな。
何と浅はかな。
誤りの行為にしては許容範囲を越えている。
藤の名を持つ名家に生まれながら、このような所業……。
計り知れない失望感と怒りで腹の底から声を上げてしまった。
傍仕えの二人も刀に手を掛けながら目の前の若鬼との距離を詰める。
それでも大きな動揺を見せず曇りのない眼で吾等を見返す姿は、ある意味では正当だった。
侵入者や外部の攻撃から城を守る結界は、八方に貼り巡らせた結界札により構成されている。
東西南北に主となる結界札を貼り、各間に補助札が1枚ずつ貼られているのだ。
補助札が剥がされた場合は瞬時に主の札へ効果を増大させる術が解放される。
対照的に、主の札が損傷しても多少の効力は落ちるも補助札にて補う事ができる。
しかし、互いに代役を果たせるように見えるが効果は一時的なもの。
一定の時間が経過すれば、札が消滅した個所の結界は極端に弱まり穴になり易くなる
つまり結界札を剥がすという行為は、東条に害を加えていると判断されても拠(よんどころ)ない。
東条と同じく、結界で城を守っているであろう藤見家の者がその事実を知らぬはずがない。
それでも尚、結界札を剥がすという暴挙に出たというのか。
名家の出身であっても、束縛後に尋問は免れない。
返答によっては東条への反逆と見做(みな)されるであろう。
「お待ち下さい、結界の役目を果たしている札は残ったままでございます」
「彼が持っている札は酷似していますが東条の結界札ではないと思われます」
「……何じゃと?」
しかし束縛するよう指示を出す寸前、若鬼との距離を縮めていた二人が若干の動揺を含ませて制止を掛けた。
気が動転して確認するに至っていなかったが、確かに二人が言うように東条の城を守る結界に乱れはない。むしろ良くなっているとも思える。
若鬼の読み切れない表情と、手にある札を見比べて説明するように目で諭す。
相変わらず澄んだ眼をした若鬼は、吾の視界に塀の結界札が見えるよう一歩だけ横に動く。
そして、この時を待っていたとばかりに疑いを晴らす言葉を紡ぎ始めた。
「この札は重ねて貼ってありました」
しっかりと耳に届いた言葉は真実とは思えない事を証明しているように感じた。
青年らしい若い筋肉が付いた手に握られているモノは結界札と同じにしか見えない。
確認しようと偽の札に手を伸ばせば、目的のモノを手にする事は叶わなかった。
「お触りにならない方が宜しいかと……」
控えめだが有無を言わせぬ声色で告げ、伸ばした吾の手を避けるように拒む。
札に触れる事を厭う言動に、忌避(きひ)の意を持っているのかと思った。
否、それは吾の誤解だ。そのように軽んじた物言いは感じ取れない。
大げさすぎるほど慎重に札に触れている姿から溢れる警戒心。
少しでも間違った認識で札に触れようものなら、惨事に繋がるのか。
偽の札を剥がす為に術により何らかの法則が存在したのかもしれない。
近づく吾の気配に気づいていたにも関わらず、振り返らなかったのは法則の途中だった為か。
背を向けたままだったのは危害を加える者が居ないと判断していたからだ。
背を空けねばならぬ危機的状況。それは少なからず戦者の血を持つ者にとって、危険で愚かすぎる行動。
そんな負荷を負ってでも尚、術の完成を優先させて被害を防いだ若鬼に感謝せざるを得ない。
同時に、下手な術者であれば集中が切れて無事では済まなかった事態に悪寒が走った。
「偽の札を剥がしてくれたというわけか。疑ってすまんかった……」
「そんな、当然の事です」
あれだけ一方的に疑われていたというのに、東条の地を守る事を当然だと言う心の寛大さを知る事になった。
緩められた目元から、器の大きわと人格の良さが伝わってくる。
やはり見えている範囲が、感じるモノが違う。
物事を受け取る感受性が同年代の鬼と比べて寛容すぎる。
そうだ、最初からこの若鬼は澄んだ眼で真実しか語っていなかった。
普通であれば必死に弁解しようと慌てふためくものだが、自分の意志を伝える為の間合いを見切っていた。
相手が如何なる解釈をしようとも、如何なる誤解を招こうとも覆す知恵をこの若鬼は持っている。
一手先を読むという生半可な考えではない。もはや結果は決まっているのだ。
その結果に導くだけの手を多数に持ち、時と場合で使い分けている。
少しの言動で最良の状況を導き出すなど、容易に出来る事ではない。
――……これが、藤の名を持つ鬼。
言葉で多くを語らず、全てを己の信念に従った行動で示す鬼。
そして知らぬ間に多くを酔わせ夢中にさせている、鬼が憧れる存在。
どのように教育すれば、この若鬼のような青年に育つというのか。
もはや上に立つ者となるべく成長を遂げたのだとしか思えない。
藤見の地には、このような青年が多く育っているのだろうか。
これで藤の名を背負う跡目で無いなど、信じられない。
その場に溶け込むようにして目を閉じた姿が、一時でも濁った判断を下した己には眩しすぎた。
この歳になっても全く敵わない鬼が、しかも孫と同年代の鬼が居るとは思ってもみなかった。
まだまだ力不足だと、己自身に苦笑していると傍仕えの二人から再び声が掛かった。
「明彦様、近くに克彦様の気配がございます。どうやら忍頭と共にこちらに気付いている様子です」
「ふむ、すまんが二人を連れてきてくれんか。忍頭の吾妻であれば封箱の一つや二つ、持ち歩いておるじゃろう」
「はっ、畏まりました」
克彦にも偽の札の件は話さなければならないので、場に呼んだ方が早い。
それに吾妻が共に居るのであれば、鬼道術の効力を持つ品を封じる事ができる封箱を持っているだろう。
能力(ちから)のある鬼が剥がしたとは言え強大な効力を持つ結界札に似せた札を、未だ東条の者ではない若鬼に所有させておくのは忍びない。
本来の効力があるままの札を封箱に封じる事はできないが、破り剥がされた事で弱っている今ならば一定時間抑える事は可能だ。
暫くして姿を現した克彦と吾妻は、藤見の若鬼を見て息を呑んだ。
先代当主である吾と若鬼が一緒に居た事に驚いているようで、歩みを進めながら困惑した視線と共に問い掛けの言葉を寄越してくる。
偽の札の事を告げれば、瞬時に状況を察した克彦と吾妻。
頭痛を堪えるよう額に手をやってしまった克彦の気持ちは、分からなくもない。
しかし札を放置するわけにもいかず、克彦は後ろに控えていた吾妻に札を回収するよう指示を出した。
封箱に納まった偽の札を克彦と吾妻が確認し、言葉を交わすが藤見の若鬼は札を剥がした方法を語らない。語るつもりもないようだ。
「藤見、何故この札が二重だと気付いたんだ?」
「……音が聞こえましたので」
「音?」
「それと、鳴き声も」
「泣き声……!?」
それでも質疑を続ける克彦への答えに、皆が驚愕した。
札の二重貼りに気付いたのは『音』と『泣き声』が聞こえたからだという言葉に。
能力(ちから)のある術者は害のあるモノに対して『何か』を察知するという。
モノとは術に限らず能力の強い鬼や年季の入った置物、動物にも言える事だ。
察知の方法は多種多様で限定されたものはない。術士の数だけ察知の方法があるので、限定できないという方が正しい。
東条の地では、かつて三大術士に数えられた裡念(りねん)が同じような事を言っていた記憶がある。
もっとも、裡念が同じく耳で異変を感じる術士なのかは不明だ。
裡念に訪ねた事があるが、術士は己の能力を明かさないものだと教えられた。
……では、藤見の若鬼が自ら術士の能力の一部を明かす理由は?
まさかこの何気ない一言も策の内なのだろうか。
一部を明かす事で認識を植え付け、それすらも利用する一手なのか。
こうして様々な可能性を考える事で混乱を誘っているようにも思える。
「しかし泣き声が聞こえたなど、不気味ではなかったのか?」
「いいえ、可愛らしい鳴き声でしたので」
「……そうか」
追って真相を聞き出そうと喰い付く克彦を、理解し難い答えでかわしていく。
『可愛らしい泣き声』とはどのようなモノなのか。
強力な札から聞こえる泣き声と聞いて、間違っても『可愛い』という印象は抱かない。
蔑んだような微笑みの先には封箱に封じられた偽の札。
その表情から『可愛い』という言葉が一般でいう意味を指しているのではないと伝わる。
これ以上は若鬼に語る気が無い上、言葉の意味を解せない状態では会話が続かない。
興味を無くしたように若鬼の視線が封箱から逸らされたのを合図に、克彦と吾妻が吾に近づいた。
「克彦様、藤見殿を結界の警備にあたっていた者が目撃しているはずです。偽の札について何か有力な情報があるかもしれませんので場を移しては……」
「そうだな、離れの間に移動するか」
「裡念殿には忍を向かわせておりますので、早くお帰り頂けるはずです」
「あぁ、わかった。裡念が戻ったら通してくれ」
思案するよう彷徨う克彦の視線が捕えたのは藤見の若鬼。
これから話す事は、東条以外の者には遠慮してもらわなくてはならない。
克彦はどのように切り出そうか考えているのであろう。
しかし、その空気さえ読んだ若鬼から控えめに退場の挨拶が告げられた。
深い礼をして場を去っていく姿に、もはや溜息しか零れない。
「では離れの間に向かいましょう。父上もご一緒願います」
「わかっておる。ワシもある意味、目撃者じゃからのぉ」
離れの間に移動する為に足を進め始めた克彦と吾妻。
吾も連なるように傍仕えの二人と共に一歩を踏み出すが、ふと反対方向を返り見る。
淡々と去り小さくなって行く藤見の若鬼。
既に東条の結界など微塵の興味もない、と背で語っているように見えた。
侮り難し、藤の名を持つ鬼。
この分では、従者として参じている赤毛の鬼も油断ならない存在だろう。
東条に巻き起こるかもしれない嵐の予感に、再び血が騒ぎ出した事を静かに感じていた――。
◆◇◆
離れの間は本殿より奥にあり、重要な軍議等が行われる時に使用される事が多い。
更なる大人数を集めての議会の場合は他の場所が在るのだが、今回は少数のためこの場になった。
しかしながら、話し合いの内容は集まった顔ぶれからして十分に重要性のあるモノだ。
室内にて集まった者は今の時点で六名。
当主である克彦と丁度良い距離を空けて対面するように座り、互いに背後に傍仕えの二人を置く。
吾妻は、他の忍に命じて呼んだ克彦の傍仕えが参じた後に天井裏へ移動した。
先程の結界札の件を題として話し合っても良いのだが、憶測で意見を交わすしかない状態では無駄に等しい事だと思える。
東条が誇る術士である裡念が居れば確信を突いた結果に導く事が可能だろう。
裡念は伝令の忍と共に城へ帰ってくるはず。
年配者の足では時間がかかる距離も、忍一名が居れば全く違う。
克彦も同じ事を思っているのか、眉間に深い皺を刻みながら吾妻が煎れた茶を飲んでいる。
東鬼の中でも上位に部類される東条の忍。
本来ならば多くの忍を率いる忍頭は滅多に姿を現す事がない。
現したとしても当主の前だけに留まるか、顔を隠して影として生きるのみ。
古来より忍は主人のために、その命を危険に晒しながら任務を遂行する存在だ。
諜報活動だけではなく、時に暗殺や残虐な行動をとる忍は表情に乏しく心を闇に閉ざした者が大半を占める。
しかし吾妻に至っては物心ついた頃から既に克彦と共に在った為に、忍であって忍でない心を持った。
共に笑い、共に泣き、共に怒り、共に悲しみ、共に喜び、互いを信頼している。
それが良いか悪いかを問われれば、答えはどちらでもあり、どちらでもない。
信頼し合えるからこそ生まれるモノもあり、信頼(それ)が邪魔で阻むモノもある。
克彦は当主であるが故、忍を切り捨てる決断を下す事も迫られる時がくるかもしれない。
吾妻は忍頭であるが故、己や多くの命ある者を犠牲にしてもなお主人を守る必要がある。
そう。克彦は東鬼の長であり、吾妻は忍頭なのだ。
もう一度言うが、東鬼の中でも東条の忍は上位に部類される。
その代表である忍頭に茶を煎れさせる当主など、克彦以外には存在しないと思う。
昔馴染みの間柄だからこそ許される事であり、本来ならば忍頭は滅多に姿を現す事はない。
つまり結論として『普通の忍は茶を煎れたりはしない』という事を言いたい。
兄弟に似た関係を築いてきた二人は血の関係が無くとも、家族あるいはそれに近い存在。
言葉にしなくても心で認識し合っている二人だからこそ叶う事であって、この情景が歴代の当主と忍頭の姿だとは思われたくない。
その二人の影響なのか、娘同士も非常に仲が良い。
年若く見目麗しい女鬼が並んでいるのは目の保養になる上、華がある。
身内贔屓だと言われても仕方ないのだが、特に孫娘の花の美しさは自慢だった。
……そうだ、花だ。
そもそもの目的は、克彦に花の見合い結果を聞く事。
結界札の件で随分と時間を消費してしまったが、今この場で聞いても良いだろう。
「そう言えば克彦、花の見合いはどうじゃった?」
「ぶっ、ゲホッ!」
重々しい空気を一転させての質問に、克彦は口にしていた茶を噴いてむせた。
間を置かず吾妻が待機していた天井裏から参じて克彦に寄る。
その甲斐甲斐しさに笑いそうになったが、咳き込む克彦の背を擦らずに噴いた茶を始末している姿に冷たさを感じて苦笑にとどまった。
「ごほっ……。ち、父上、今は結界について話し合う方が重要かと」
「裡念が居らんままでは大した話はできんじゃろう。それに、これ以上の害が出ておれば藤見の若鬼が黙っているはずがない。忠誠心の有無は計れぬが、少なくとも東条を守るという意はあるようじゃ」
「確かに藤見は我等では及ばぬほどに有能な鬼です。しかし彼に頼り切るのは東条としての立場があまりにも……!」
「では他の者でも解決できた、と言えるかのぅ? 東条の者が無力だとは言わん。鬼として優秀じゃと思うておる」
取って付けたような言い方に、克彦の眉が顰められた。
吾妻は吾妻で、無表情を装っているが沸き上がる怒りを抑えているようにも見える。
「この場での題も結界札の件に的を絞っておらぬ事は知っておる。お主だけではなく吾妻も、あの若鬼に対して反応が妙じゃったからのぉ。『他家から預かった大事な婿候補』というには、見る目が違ぅておったわ」
「う……」
その言葉が図星だったのか、克彦は言葉を詰まらせて肩を落とした。
暫くして何かを吹っ切るようにガシガシと荒々しい音を立てて自分の頭を掻いた克彦は、渋々といった様子で見合いの話を始める。
見合いでの花の様子、婿候補の様子、そして藤見の若鬼の志を胸に刻む。
話を聞く限りでは権力や地位に無頓着のように思うが、他に重視している事があるとも受け取れる。
それは政略結婚を嫌う事から、恋情に対する考えの方が優位に立っているのだろう。
恋情という心を浮き沈みさせるモノは、育った環境が影響する事が多い。
少なからず藤見の地での風習が今回の行動を作りだしている。
思い返してみれば、知る限りでは藤見の男鬼に権力者の血を引く女鬼が嫁いだ記憶はない。
選ばれた女鬼に法則性はなく、農民の出身であったり、詳細な出身さえ怪しい者も居る。
それは権力者同士の縁を嫌っての事なのか、それとも単純に恋情が導いた結果なのか。
「ふむ、やはり藤見の鬼には多くの謎があるようじゃな」
「過去に藤見家について調べた事があるのですか?」
「年老いた分、若い者より噂話を多く知っておるだけじゃよ。ワシに聞くより藤見家へ実際に足を運んだ張本人に聞いた方が良いとも思うが……」
婿候補の招集に応じるという藤見家からの連絡後、克彦は吾妻に藤見家の事を調べさせていたはず。
藤見家の四男について真相を確かめる為に吾妻を藤見の地へ向かわせたと聞く。
しかし、克彦と共に目を向けると困惑した表情の吾妻が首を傾げていた。
「い、いえ、残念ながら先代様のお求めになる答えは……。私は『五年ぶりに帰省した藤見家の四男が本物か』を調査しただけです」
「何じゃ克彦。吾妻に命じたのはそれだけなのか?」
「は、はぁ。藤見家の事は先に他の者が調べておりましたので。その調査内容も一般的に知られているような事しか記載されておりませんでしたが」
「やれやれ、『行方知れず』という言葉に踊らされたのか」
行方知れずだという対象を調査するのは無駄と判断し、早々に諦めたのだろう。
調査時に何か問題が生じようものなら、主人である克彦に報告しないはずがない。
藤見家について深く知らない様子から何も報告が無かったという事が分かる。
斯(か)く言う自分も聞きかじった程度なので事実を確認するに至ってはいない。
「父上は何かご存じなのですか?」
「藤見家を調べようとすれば、藤見の地の外へ強制送還されるそうじゃ。何らかの術が働いておるようじゃが、どういう仕組かは分からん。厄介な事に、その行為を繰り返せば四度目には獄へ送られると噂されておる」
「ご、獄でございますか!?」
「うむ。仏の顔も三度までという事じゃろう」
「先代様、それは藤見家の従者など近しい者を通じた場合でしょうか。例えば藤見の地に住む民を通ずる事で多少の情報を集める事が可能かと……」
「藤見の民は意味深に笑うだけで余所者には語らん。何ひとつ口外せんので、知っているのか知らぬのかも不明じゃ」
その噂話を追及して確認しない理由は二つある。
一つ目は、諜報行為で藤見家に不信感を抱かれる事を恐れているからだ。
東条側が大袈裟なほど気にしているだけで、藤見側は忠誠を崩した事がない。
わざわざ自分達から火種を撒き、煽るような事はすべきでないと考えている。
二つ目は、真実を明確にする事で東鬼の危機を招くからだ。
東条が尋ねれば藤見は隠す事なく真相を明かす。包み隠さず全てを。
東条に仕える藤見が『命令』を拒む事はない。だが『命令』はできない。
隠された部分を明かしてしまう事で東鬼の戦力中枢を露見してしまう事に繋がる。
独自の風習が何かは分からない。だが藤見家の能力の根本は風習や環境だと推測される。
明るみに出た真実を隠そうとしても東条には隠しきれないだろう。
そして、いつか他族の鬼に伝わり様々な混乱を招く結果になる。
藤見家が三度も諜報者を逃すのは警告と挑発の意味を持つ。
三度の警告で藤見家という大きな壁の存在を認識させ、三度の挑発で激情し切った愚か者を四度目に裁く。
思慮深いが、決して慈悲深くはない。
忠義や仁義には誠実だが、決して情が深いわけではない。
藤見の地に住む鬼達はそれを知り、同じであろうとするから言葉にせず笑うだけなのかもしれない。
結局、藤見家の枢機(すうき)を以って安定した今があると言えるのだ。
「あの若鬼も多くを語らず、三度までは仏の顔をしておるのかもな……」
吐息と共に漏れた呟きは重々しい室内にじわじわと響き、焦りを誘った。
克彦は思い返すように視線を宙に向け、次いで吾妻に真顔で凄みをきかせる。
吾妻も心当たりがあるのか、克彦と同じような空気を纏っていた。
「吾妻、東条までの道中に必要以上の忍を嗾(けしか)けた事は数えられると思うか」
「克彦様、藤見殿の客間の天井裏で苦言を頂いた忍は対象でしょうか」
「……吾妻、見合いでの花の態度は数えられると思うか」
「……克彦様、ネズミを察知できなかった忍の失態は対象でしょうか」
「…………吾妻、偽の結界札に対処できなかった俺達は数えられると思うか」
「…………克彦様、既に許される回数を越えておりますが許容範囲が不明でございます」
「………………」
「………………」
ピタリと止んでしまった二人により場の空気が重々しいモノになった。
藤見家の逆鱗に触れる事が何なのか、二人の会話から導き出す事はできない。
ただ一つ、『藤見家の謎を追及する諜報活動』が対象になるのは明確だ。
それ以外については、若鬼が東条に身を置いている間に聞き出す努力をしよう。
方法を軽く考えてみると、思うように事が運びそうにないという不安が先立つが……。
あれこれ各自で思考を巡らせていると、離れの間に近づく気配を感じた吾妻が静かに開口した。
「――……克彦様、裡念殿が参られます」
「っ、そうか」
吾妻の言葉により、克彦は今までの考えを打ち切るように頭を軽く振って、思考を切り替えた。
暫くして離れの間の襖が開かれると、その先に二人の影があった。
現れた影の一つは上質な茶系の着物に袖を通した、白髪で厳格な年老いた男。
現役時には鬼一族で三大鬼道術士に数えられた、先々代傍仕えの裡念だ。
残りの影は裡念への伝令を遣わされ、この場まで連れ戻った忍。
「これはこれは、随分と由々しき事態のようでございますな」
「話は一部聞いているだろう。座れ」
「年寄りの扱いが酷ぅございますな、克彦様」
消し切れていない重苦しい空気を感じたのか、重圧のある一言を発して場を緊張に包む裡念。
小言を漏らしながら、ゆっくりとした動きで指定された場所へ座った。
その動作の間に、吾妻は裡念の後ろに居た忍と読唇(どくしん)で会話を行っていた。
忍の両者が頷きあった直後、裡念を連れて来た忍は音もなく天井裏に移動。
代わりに今まで天井裏に待機していた別の忍が吾妻の隣に、これまた音もなく降り立った。
恐らく、結界札の件で呼ばれていた忍だろう。
先程の忍も、吾妻の隣で控えている忍も上忍だ。
緊張しても不自然でない顔ぶれを前にして、中忍や下忍には無い落ち着いた空気を持っている。
「報告は受けただろうが、結界に妙な仕掛けが施されていた」
「存じ上げております」
「仕掛けは解除したが、念のため確認してくれるか」
「そう思い、既に八方の札を確認して参りましたが結界に異変はございませんでした」
裡念との会話により、これ以上の害が生じる事がないと思った克彦が体から力を抜いた。
吾も克彦と同じ心境だが、他の者は相変わらず厳格な裡念に恐縮したままだ。
もちろん、裡念も己の受け答えで最初の心構えを変えるはずがない。
「仕掛けを解除した、と先程仰いましたが詳しくお教え頂けますかな?」
「あぁ、そうだな……吾妻」
裡念の前に、偽の札が入った封箱が吾妻によって差し出された。
その封箱を持ち、裡念は神妙な顔で蓋に手を掛ける。
静まった室内には嫌な意味で興奮している皆の息使いが聞こえるのみ。
左程時間をかけずに、カパッ……と比較的軽い音を立てて封箱の蓋が開かれた。
封箱の中身を確認した裡念は、細めていた眼を限界まで見開いてから意味ありげに笑った。
偽の札を一目見ただけで多くの事を悟ったのだろう。
「これはこれは、かなり苦労なされた事でしょう」
「結界の事は長年懸念していたが、お前が不在で埒が明かなかった。多少の無理を強いてでも結界を扱える者を育てるようにして欲しい」
「それは私からもお願いしたい事でございます。是非とも、この札を剥がした者を我が後継者として育てさせて頂きたい。結界に手を出せるとは思わぬ実力者が隠れていたもの。忍でございますかな?」
克彦への査問であるのに、聞かれていない吾が裡念の言葉に体が硬直してしまった。
当然、同じように動作を停止した克彦へ裡念の容赦ない疑目が注がれる。
優れた後継者を望んでいる裡念が、あの札を剥がした者に興味を抱かないはずがない。
「おやおや、如何なさいましたか」
「残念ながら札を剥がしたのは忍ではない」
「ふむ、では使用人の中に術士が?」
「――使用人どころか、東条の者ですらない」
「――ほぅ。非常に興味深い話でございます。札を剥がした経緯と共に詳しく伺いたいものですな」
「……札を剥がす様子については、目撃した忍に詰問する。話中、専門の眼を持つお前から見て思う事があれば教えてくれ」
克彦と裡念の視線は、吾妻の隣に居る上忍へ向けられた。
顔を晒している吾妻とは違い、黒い布で口元を覆っている事から表情は窺い難い。
しかし上忍ともなれば落ち着いた受け答えが期待できる。
「お前は本当に藤見が札を剥がす姿を目撃したのか?」
「――は、確かに藤見の方が白い猫を使って札を剥がす姿を目撃致しました」
克彦が問えば、期待通りのしっかりとした答えが返ってきた。
忍の『白い猫』という言葉に、藤見の若鬼の肩に乗っていた子猫を思い出す。
影獣(かげもの)という事はすぐに分かったが、あまりに小さな影獣なので特に気にしていなかった。
しかし、こうして言葉の中に現れるという事はその見解が誤っていた事を痛感させる。
「藤見の方は一言『鬱陶しい』と呟き、結界札から少し距離を置いて立ち止まりました。暫く間を置かれた後、白い猫に結界札を破くよう指示を出したように認識致しました。事実、手を翳(かざ)した事により猫は地を駆け瞬く間に札を剥がす行為を繰り返し始めたのです」
続けられる話を聞いて、次第に恐怖心が沸き上がってきている事に気付いた。
克彦の問いに『可愛いらしい泣き声』だと返答した若鬼の笑顔を思い出し、身震いがした。
耳にした音や泣き声を『可愛らしい』と表現した事に一抹の不安を覚えていたが、まさか真意が真逆だとは思わなかった。
確かに快いとは言い難い微笑みだった。
偽の札による音や泣き声が、若鬼の逆鱗に触れてしまったという事だろうか。
仏の顔を保ってくれる範囲を越え、四度目の逆鱗に触れた場合には一体何が起こるのか。
偽の札を剥がして東条に及ぶ影響を未然に防いだ事は評価に値する。
味方内だからこそ守り、害に対して冷酷な言葉を吐き捨てた事は理解されるだろう。
だが能力(ちから)の使い方を誤れば最大の盾が最強の矛になる情景を連想させられた。
「白い猫が札を剥がす姿を暫く眺め、最後はご自分で札を……」
「ふむ。恐らく、その猫は神獣の類(たぐい)でしょう。白の獣には神の血が濃く受け継がれており能力も飛び抜けているはずです」
「し、神獣など使役できるものなのか?」
「厳密に言えば可能でございます、克彦様。しかし神獣は通常の影獣とは使役方法が異なるそうです。さすがに私も神獣の影獣は持っていないので存じませぬが……」
本当に、藤見の若鬼には驚かされてばかりだ。
あの小さな子猫が神獣の血を引いているなど、誰が考えようか。
そのように貴重な存在を影獣として使役しているなど、誰が予測しようか。
一般的に影獣といえば、野犬や狼等のイヌ科の動物を使役する事が多い。
他には利便性を考慮して伝令等に役立つ鳥類を選ぶ者も少なくは無い。
と言っても、影獣は相性が良くなければ契約を結ぶ事ができないので優秀な鬼でも自分の影獣を持たない者が殆どだ。
影獣を使役しているというだけでも十分評価に値するというのに、それが神獣だとは……。
「何故結界の異変に気付いたのかが気になりますな。その者、『藤見』殿が苦言を述べる前後の行動で気になる動きは?」
「そう言えば随分と耳元を気にされていたようでした」
状況を追及する裡念の言葉に忍は動作を真似るように自分の手を耳元へ動かし、耳に触れる手前でピタリと動きを止めた。
それは音を聞き取ろうとする時の仕草に酷似している。
「何かを聞き取ろうとしておりますな」
「そうだ裡念、確かに藤見は『音』と『泣き声』が聞こえたと言っていた」
「なるほど……」
「裡念には聞こえないのか?」
「おやおや、随分と興味をお持ちのようでございますな。覚悟がお有りならば、克彦様もお聞きになっては如何でしょう。この札を始末する際に少し手を抜けば『音』を聞く事ができます故」
子供のように質問を繰り返す克彦に、懐から一枚の札を取り出しながら裡念は笑った。
何気なく札を取り出したが、裡念は懐に尽きぬ程の札を忍ばせている。
鬼道術の効果を反映させた札は、作り上げるには時間が必要だが使用時に印や詠唱を行わなくて良いか、短くて済むので即時に術を発動させる事ができる。
印を組む方法と、札を使う方法。
どちらが便利なのかと聞かれれば、術士によって答えは違う。影獣と同じく、全ては相性なのだ。
「それは?」
「術返しの鬼道術と同じ効力を持つ符でございます。この符を作るには七日の歳月が必要なのですが、致し方ありますまい」
余程貴重なモノのようで、符を握る裡念は非常に名残惜しそうな顔をしている。
裡念はその札の表面を軽く撫でた後、封箱の中へ入れると蓋を閉じた。
次に、符の時と同じように懐から黒の風呂敷を出して慣れた手つきで封箱を包む。
持ち手を持ってそれを上げれば、土産物のようにも見えて封箱が入っているとは思えない。
包みの出来に満足した裡念は包みを再び畳上に置き、克彦に差し出した。
手を伸ばせば届く距離にある包みを見て、ゴクリと咽を鳴らす克彦。
「覚悟があるのでしたら、封箱に耳を近づけてみなされ。その者が聞いたという『音』が聞こえるはずでございます」
「克彦様、先に私が……」
「いや、大丈夫だ吾妻。裡念が害のあるモノを勧めるはずがない」
克彦を危険に晒すわけにはいかない。
そう考えた吾妻が封箱の『音』を耳にする事に名乗りを上げたが、克彦は拒んだ。
立場上、忍である吾妻が取ったこの行為は当然の事なので不快を抱く者は居ない。
裡念に勧められるまま、克彦は黒い風呂敷に包まれた封箱を手にした。
徐々に近づけて行き、耳の真横で止めて探るように意識を集中させる。
克彦のように、耳元へ封箱を近づけなければ聞き取れないという事だろうか。
静まり返った室内だが、裡念の言う『音』は聞こえない。
「――……う、わっ!!」
「克彦様っ!?」
短く声を上げた克彦に反応して、瞬時に吾妻が包みを弾き飛ばす。
ガンッ! と音を立てて包みは畳上に転がり、反動で体勢を崩した克彦を吾妻が支えている。
包みを近づけていた方の耳を押さえた克彦は、額に汗を浮かべながら体勢を直した。
その顔色は世辞にも良いとは言い難い。
「わ、悪い。想像の『音』とは違っていたから驚いただけだ……」
「まだまだ覚悟が足りませぬな、克彦様」
「裡念殿、戯(たわむ)れはお控え頂けますか」
「そのように睨まれるとは心外でございますな、怖い怖い。しかし私は克彦様に覚悟なさるよう申しましたぞ、吾妻殿。ご心配ならば、吾妻殿も『音』を耳にされては如何ですかな?なぁに、暫しの間『音』が耳に残るだけで特に害はありませぬ」
再び差し出された包みを、吾妻は引っ手繰るように裡念から受け取った。
咎められる可能性もある行動は、吾妻の苛立ちを表している。
それを理解した上で楽しんでいる裡念は、笑って吾妻を許していた。
半ば自棄糞(ヤケクソ)で包みを耳に近付けた吾妻だが、瞬く間にその表情を険しいモノに変貌させた。
克彦のように声を上げはしないものの、嫌悪の念は隠し切れていない。
包みから聞こえてくる『音』はどのようなモノなのか。
吾を含む他の者も、それが気になって仕方がないので尋ねる事にする。
「吾妻、一体どのような『音』が聞こえてくるのじゃ?」
「聞こえてくるのは、燃え盛る炎の音と甲高い悲鳴でございます」
その『音』が何を意味するのかは、分からない。
しかし聞いた二つの『音』は憎悪や悲愴を抱かせるには十分なモノだ。
直接耳にしていないにも関わらず、耳鳴りが聞こえるような幻聴さえ感じてしまった。
その間も、体勢を変えないまま答える吾妻は未だに『音』に耳を傾けたまま。
克彦と同じ行為だが、明らかに『音』を耳にする時間が違う。
更に『音』の中に何かを見出そうとしているのか、一向に耳を離す気配がない。
「吾妻殿、あまり聞き入らぬようにしなされ。魅入られすぎますと、自力では戻れぬようになりますぞ」
吾妻に近づいた裡念により、『音』が聞こえる包みは取り上げられた。
何かに熱中しても周りの空気に敏感に反応するはずの吾妻には珍しい事だ。
包みを持って戻る裡念を眺めて、謝礼の意味も込めて軽く頭を下げた吾妻。
平然としている様子から、大した事はないのだと安心する。
「そろそろ時間切れでございますな」
裡念がそう言って包みを畳上に置くと、一瞬で包みから炎が燃え上がった。
赤黒い炎が全体を覆えば、何故か燃え広がらずに小さくなっていく炎。
よく確認してみれば、不思議な事に封箱を包んでいた風呂敷は燃えていなかった。
熱を持たなかった炎が消えると、裡念は風呂敷を解いて中身を吾等に見せた。
しかし風呂敷の中身は封箱どころか、燃えた灰すら無い。
折り目のついた、ただの黒い風呂敷があるだけだった……。
「施されていた術は返し終わりました。やれやれ、随分と手の込んだ嫌がらせをしてきたものですな」
「……目的は」
「友好的でない事は確かでございます」
「本当に西の仕業だと思うか」
「下手な事は言えませぬが、濃厚かと。出方を窺うか、西を調査されるかの判断は克彦様にお任せ致します」
風呂敷を折りたたみながら答える裡念に、ぐっ……と克彦の眉が寄った。
表立った争い事の無かった数百年、平和呆けしていると言っても過言でない我等が火種になる事は得策ではない。
かと言って、一方的に仕掛けられる状況で黙っている事もできない。
現当主の克彦には近々、過酷な決断を迫られるようになるだろう。
それでも争い事には温厚な克彦は、被害を最小限に抑えるために動くと思う。
最終的に決断を下すのは克彦だが、その決断に至るまでを支えるのは周りになる。
隠居したとは言え、先代当主を担っていた身。
自分の判断が東鬼全ての命運を背負っている事はよく理解している。
先任の知恵として現当主を支えるのも、吾の役目と言えるはずだ。
幸いな事に、克彦は自分の臣(しん)に恵まれている。
これで意志を継ぐ跡目が居れば、今以上に多くの行動を起こせるというのに。
そんな面も考慮して婿を選ぶ必要があるかもしれない。
「しかし、『藤見』殿でございますか」
「そ、その者に何か気になる事でもあるのか?」
「確か婿候補のお一人としてその名を記憶しております。いやはや、お会いするのが楽しみになって参りましたな」
西との関係を懸念する吾等とは違い、くつくつと笑う裡念の口は藤見の若鬼へ興味を持った事を窺わせた。
その興味は『婿候補』としてなのか、『術士』としてなのか。
名を知られてしまった今では、もはや裡念の興味を止める方法は無い。
いつの間にか日も随分と落ち、あと半刻もすれば茜色の空の先に闇が広がるだろう。
茜色の空は東条に差す光を表しているのか。
それとも先に続く夜という深い闇を招くだけの催しなのか。
時間を巻き戻す事ができないように、抱かれた興味を消す事はできない。
過ぎた時間を惜しく思っても無駄なように、興味を無くせと告げる事も無駄だ。
今はただ、茜空の先に暗闇があるように時間の流れに任せるだけ。
その闇に輝く星のように僅かな光が恐怖を緩和してくれる事を願うだけ。
願わくば、深い闇に沈んだ夜を日の光が再び照らし晴らすように。
先の見えない不安を晴らす、光となる者が東鬼を率いてくれる事を祈るだけ。
未だ見ぬ朝日の光を求め、今は流れのまま瞼を閉じよう。
そうすれば迫りくる闇に呑まれる事は無いのだから。
再び眼を開いたその時に、眩しい程の光が辺り一面を照らしているのだから――。
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