へっぽこ鬼日記 第十話
第十話 聞こえない鼓動
未(ひつじ)の刻に花姫様と茶会――、それが俺に与えられた挽回の機会だ。
緊張して眠れなくなると思ったが、爆睡したため体調は良好。
朝餉に苦手なニンジンも入っていなかったので胃も心も軽く感じる。
着付を手伝ってくれた陽太が、墨色の着物に身を包んだ俺を上から下へ何度も確認して『さすが恭様ですね』と満足そうに笑った事でテンションも上がった。
これは花姫様との茶会も上手く行くんじゃね?と考えて、湯飲みの中に半分ほど残っている茶を飲み干す。
ゴクッ、という溜飲の音が部屋によく響き、俺の体に溶けるように吸収された。
あー、茶が美味しい。陽太におかわりをお願いしようっと。
「陽太、茶を煎れてくれないか」
「……恭様、これで四杯目になりますが」
「…………」
すみません、やっぱり緊張しすぎて心臓が破裂しそうです。
自分が何杯茶を飲んだのかさえ覚えていませんでした。
意識してしまうと平然を装っていた表情が次第に引き攣ってくるのが分かった。
そんな俺を興味深そうに見ながら、陽太は俺の言葉通り四杯目の茶を煎れてくれる。
「恭様がこれほど落ち着かれないのは久しぶりですね。何故、一度お会いになっただけの花姫様にそこまで夢中になるのですか?」
「愚問だな、陽太」
そして相変わらず直球な質問だ。少しは遠回しに聞いてくれよ。
陽太の言葉に内心で愚痴を言いながら、気持ちを落ち着かせる為に目を閉じた。
何故、花姫様に夢中になるのか――。
それは当事者である俺が自分自身に聞きたい事だ。
潔く諦めたはずの気持ちが、挽回の機会にどれだけ舞い上がった事か。
冷たい眼しか向けてくれなかった花姫様に、何故こんなにも縋りつこうとするのか。
理由を聞かれても簡単に答える事はできない。
考えるのを止め、自ら目を背けて蓋(ふた)をした気持ち。
失恋の傷が広がる事を恐れた。だから傷が自然と回復するまで時間を置くつもりだった。
しかし時間を置けば落ち着くと思ったそれは、いつの間にか着々と成長していた。
想えば胸が熱くなって、好かれていない事への辛さや会えない寂しさが押し迫った。
ただ『愛しい』と溢れてくる気持ちを、誰かに教える事なんて器用でない俺には難しい。
一度しか顔を合わせていないので、花姫様に対して多少の美化が掛かった状態だという認識もある。
そう理解していても払えきれない思考。
花姫様を称(たた)えるべき言葉が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。
「今の俺がどんな言葉を並べても、上滑りするだけだよ」
聞き慣れた賛辞や甘い囁きなど右から左へ通過するだけだろう。
関心も何も引いていない俺の言葉は、きっと花姫様の心には響かない。
それに、焦がれるだけの俺には肝心な言葉を紡ぐ勇気が少しだけ足りない。
「それでも、何故かココが酷く痛んで熱くなる」
左胸の上に手を乗せて、鼓動と同じ速さで数回叩いてみせる。
平常時より少しだけ早い音は俺の気持ちを代弁してくれているように思えた。
枯れない泉のように湧き出る事を止めない感情。
花姫様が綺麗だと思う物を一緒に見て、彼女に少しでも近いモノを共感したい。
もちろん綺麗な物だけに限らず、彼女の感情に波を立てるモノを知りたいのだ。
違う感性を持ち合わせている事など承知の上で、多方面の彼女を見たいから。
「たった一つの仕草だけでも、目を奪われるんだ。髪を梳くために伸ばした手も、その髪を掬う指も、揺れる長い髪さえも」
見た事のない仕草をする彼女を思い浮かべるだけで、目頭が熱くなる。
逆に、見た事のある仕草を思い出すだけで、胸がギュッと苦しくなる。
目を閉じて願った。
愚かな男(おれ)に奇跡のような想いを注いでほしい、と。
彼女が与えてくれるかもしれない、歓びを求めている。
望んでも、虚しくなるだけかもしれないのに。
あぁ、これは恐らく――……。
「もう、手遅れだ」
馬鹿だなぁ、と自分を罵りながら息を吐くが何故か胸には熱が灯ったままだった。
恋に盲目になりそうな自分の不器用さに同情すら覚えて、閉じていた目を開く。
出会う前なら、抱くはずが無かった。
だが彼女に出会ってしまった。知ってしまった。
言葉を失う程に甘く痺れ、時に切なく痛い想いを。
そして、結局のところ独りよがりな恋をしているだと嫌でも気付く。
見た事などないくせに、求めるが故に勝手に彼女の笑顔を思い浮かべてしまう。
その彼女の笑顔が本当でも嘘でも、俺がそれを求めている事は真実で……。
離れた場所に居るだけでも、こんなにも幸せをくれる。
そんな風に彼女を想う時間さえも――……何もかもが愛しい。
「まったく、本当に厄介な感情だよ」
少しだけ無理をして笑えば、目を見開いている陽太と視線がぶつかった。
何だか気恥かしくて隠すように湯飲みに手を伸ばすと、伝わる茶の熱が心地好く感じる。
「でも、恭様はとても嬉しそうです」
俺の照れ隠しを見て、まるで自分の事のように笑う陽太。
裏のない笑顔は俺を元気付けてくれているように思える。
たくさんの出会いの中から、巡り合えた。
それだけで奇跡と呼べるというのに、欲深くその先を求めて手を伸ばす。
俺が伸ばした手の先に彼女が居るなら、決してその手を離さない。
しかし、手を伸ばさなければ先に彼女が居るのかは分からない。
だから誠心誠意、彼女の為に尽くそう。
与えられた機会に真正面から向き合おう。
その向こうには何も無いかもしれないけれど。
その向こうに見えるかもしれない、小さな光を目指すために――……。
◆◇◆
胃を痛めながら待つしかないと思っていたが、陽太と会話している事で待ち時間は全く苦痛でなかった。
男同士なので恋愛話は初めの内で終わり、今は東条の城下町について陽太から話を聞いている。
何でも、俺が花姫様とお茶会を楽しんでいる間に買い物に行く予定だそうだ。
見合いの時のように後ろに陽太が控えているものだとばかり思っていたので、少し心細い。
もちろん、そんな情けない気持ちは口に出さないが不安なのは確かだ。
「東条は『音沁水(おとしみず)』という地酒が有名だそうです」
おとしみず?
また脳内で漢字変換できない言葉が出てきたな。
清水……かな。おいしい水で作った酒という事だとは思うけど。たぶん。
陽太の言葉に疑問を抱くが、冷えた酒と美味いつまみが俺の頭に浮かび上がった。
酒を飲む事は好きなので未知なる響きを持つ、酒に興味が沸く。
「興味あるな」
「お酒好きの恭様なら、そう仰ると思いました。では音沁水も買付けて来ますね。城にある分を分けて貰う事も出来ますが、買付けるのも楽しむ為の醍醐味ですから」
「なるほど、陽太も楽しんで来いよ」
「はい、戻るのは酉(とり)の刻頃になると思います。ちょうど夕餉の時刻ですが、上手くいけば花姫様とご一緒できるかもしれませんね!」
最後の言葉は、内緒話をする時のように口元に手をやって小声で話す陽太。
悪戯小僧のような笑顔を浮かべているので、俺はその言葉を聞こえなかった事にする。
プイっと横を向いた俺を笑った陽太が、更に笑みを深くするのが空気で伝わった。
「ふふっ、もう少しお話を伺いたいのですが今日はこの辺にしましょうか。そろそろ未の刻ですので、迎えが来たようです。女性の足音が近づいてきます」
そう言って、陽太は無音で立ち上がって部屋の出入口を開け放つ。
何だか催促されている気がしたので、言われる前に立ち上がり部屋を出た。
ほどなくして、陽太の言葉通り少し先の角から此方へ歩いてくる女中さんが見えた。
……すげぇ地獄耳だな。
俺なんか至近距離まで近づかれても足音が聞こえないんですけど。
「お迎えに参りました、藤見恭様」
対話が可能な距離まで近づいて俺に頭を下げたのは、薄い水色の着物を着た女中さんだった。
何か見た事のある着物だなぁ、と考えていると昨日会った千代さんの顔が思い浮かぶ。
そうだ、俺の記憶が間違っていなければ千代さんも同じ着物を着ていたはず。
女中さんのユニフォーム的な着物なのかな、と思ったが初日に俺を案内してくれた女中さんは違う着物だった事に頭を捻る。
仕事別で違うのかもしれない、という結論を導いて礼を返しておく。
「本日は奥御殿の花姫様の茶室へご案内させて頂きます」
「よろしくお願いします」
体の向きを変えて先を歩き出す女中さんを見失わないよう、俺も一歩を踏み出そうとする。
何気なく横を見れば、俺を見送る陽太と視線が合ったので軽く手を振ってみた。
陽太はキョトンとした表情でパチパチと瞬きをしたが、意図を理解して頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
「あぁ。お前も気をつけるんだぞ」
ようやく踏み出した一歩は、思っていたほど緊張に震えたものでは無かった。
◆◇◆
複数の角を曲がって、それなりの距離を歩いた後に案内された場所は茶室と呼ぶには少し雰囲気の違った部屋だった。
真四角の部屋に目立つ物は何もなく、申し訳程度に座布団が置かれているだけだ。
そして部屋の中には、花姫様の姿もない。
疑問に思って女中さんを見ると、丁寧な口調で言葉を返してくれた。
「花姫様は所要で席を外しておりますが、すぐに参られます。ご用意が出来ましたら、改めてご案内させて頂きますのでお待ち下さいませ」
なるほど、この部屋は待合室に似た場所なのか。
そう納得し、勧められるがままに部屋に入って何度か深呼吸を繰り返して座る。
続いて部屋に入ってきた案内役の女中さんは、花姫様が来るまで俺の世話をしてくれるようだ。
手際良く茶を煎れて茶菓子と一緒に俺に差し出してくれた。
一円玉くらいの大きさの饅頭に似た菓子が浅めの白い器に五つほど盛られている。
白い器も女の子が好みそうなウサギが数匹描かれていた。
「こちらの茶菓子は花姫様のお気に入りでございます」
「随分と小さな菓子ですね。器もウサギが……」
「その菓子は見た目より満腹感を得る事ができますし、美味と評判なのです。兎は動物好きの花姫様が、幼少の頃より特に好まれている動物でございますわ」
「花姫様にウサギ……、とても可愛らしいですね」
「そうでございましょう!? 姫様は昔から、それはそれは可愛らしい方でございました。
そして今は可愛らしさに加え大人の女性の美しさもお持ちなのです!」
「そ、そうですか」
「そんな可愛らしい一面を持つ上に、ご自分がお生まれになられた春に桜を愛で……」
先程までの雰囲気を一変させて、女中さんは急に身を乗り出して俺に花姫様の事を語り始めた。
その勢いに押されてか、思わず後ろに下がりそうになってしまった。
あれ、何かスイッチ入っちゃった?
女中さんの目が何故かギラギラしてます。
俺、ウサギと戯れる花姫様を想像してポロッと本音を漏らしちゃったんですよね。
妄想してんじゃねーよ!と文句を言われると思ったんだけど、大丈夫だったみたいです。
それより女中さんの鼻息が滅茶苦茶荒くなった事にビックリだ。
何か女中さんの話が花姫様一色なのですが。
聞いてもいないのに、次から次へとノンストップで話が進む。
好きな花や色、口を挟む間もなく挙げられていく状態で完全に置いてけぼりだ。
俺としては花姫様の情報が聞けて嬉しいけど、さすがに情報提供し過ぎじゃない?
まさか、この後に『花姫様クイズ』とか出題されちゃうのかな。
答えられなければ花姫様に会う事が出来ないとか。
ヤベ、あんまり真剣に聞いてなかった。
聞き逃した分は後でもう一度話してくれる事を期待して、今から真剣に聞く事にしよう。
メモを取る事が出来ないので、俺の記憶力が試される事になる。
暗記は苦手だ……と心の中で愚痴をこぼしながら、茶菓子を頬張りながら熱中する女中さんへ耳を傾けたのだった。
◆◇◆
そして、何度か同じ話を繰り返しながら話す女中さんに付き合っていた事で約束の時間を過ぎている事に気付いた。
夢中で話をしているのかと思っていたが、時折チラチラと部屋の外を気にしていたので俺と同じ境遇なのだと理解する。
恐らく、この女中さんも花姫様が現れるのを待っているのだ。
途中で何度か席を立っていたので、他の仕事を行いながら俺の相手をしてくれていると容易に推測できた。
更に言えば、俺は少しだけ『他の仕事』が羨ましい。
何故なら、さすがの俺も約三時間の待ちぼうけはキツイからだ。
そう、あれから三時間だ。
もちろん、その三時間の間に俺も様々な事を考えた。
花姫様は忙しいのかと女中さんに遠回しに聞けば『もう暫くお待ち下さい』と言われるだけ。
何か良くない事でもあったのかと、心配にもなって同じように尋ねても『問題ありません』との応答で会話は終わってしまう。
そんなやり取りが何度か繰り返されての三時間だ。
待たされる理由も分からず、下手に動く事も出来ず。ただ時間が過ぎていく事は苦痛だった。
それに加えて、長時間の正座で足が限界を迎えていた。
痺れては感触が無くなり、また痺れて……の繰り返し。
辛い、辛すぎる。足を崩せば良いのだが俺にはその余裕すら無い。
「は、花姫様のお好きな……」
「好きな花、色、食べ物、季節、着物の柄、動物など昔の話まで。貴女には様々な事を教えて頂きましたが、まだ何か話されるのですか?」
「いっ、いえ、その……おっ、お茶をもう一杯いかがですか!?」
「……そうですね、いただきます」
繰り返された話のおかげで、暗記もほぼ完璧だ。
それでも尚、花姫様の話を繰り返そうとする女中さんに低めの声で嫌味半分な質問をしてしまった。
女中さんは悪くないのに少し八つ当たりをしてしまった事が申し訳なくて、茶を断る事は止めた。
だが、出された茶を飲む事はできないだろう。
何故なら、茶を飲み過ぎて俺の腹はタプタプだからだ。
朝から緊張して四杯も飲んでいた上に、この部屋に来てから五杯は飲んだ。
ついでに言えば、満腹感を得られるという茶菓子も勧められるがまま二十個以上食べた記憶がある。
空腹でない事が唯一の救いであるが、水分の過剰摂取は危険だ。
合計すれば、もうすぐ二桁に届くのだ。それがどんな事態を招くか、簡単に予測できる。
ぬおおお、トイレに行きたいんですけど……!
十杯近い茶による水分摂取により、俺の体が悲鳴を上げている!
や、でも限界まで我慢しよう。まだ我慢できる。体に悪いけどもう少しだけ……。
席を外している間に花姫様が来るかもしれない、という考えが俺の判断を鈍らせている。
歯を食いしばるようにして力を入れる事で、何とか冷静さを保つ事ができるが長くは持たないと思った。
そんな俺の様子を見ながら、おずおずと女中さんが十杯目の茶を注いでくれたが、トイレ我慢中の俺には手をつける事など出来るはずがなかった――。
結論から言おう。
俺のトイレ我慢記録は一時間半だった。頑張った俺、超頑張った。
ついに限界値を越えてしまった俺は、女中さんには悪いが断りもなく部屋を飛び出した。
奇跡的に正座による足の痺れ等は無い。しかし正座を侮ってはいけないので、時間差で起こるかもしれないので早足を決め込む事にしたのだ。
目指す先はトイレだ。この世界では『厠(かわや)』というらしい。
「ど、どうかお待ち下さい、藤見様――っ……!」
遥か後方から、女中さんの焦った声が聞こえるが足が止まる事はない。
ゴメンね、今それどころじゃないから。本当にヤバイから。後で謝りに来るから今は見逃して下さい。
女中さんには後で謝ると決めて、待合室に案内される時に通った道順を思い出しながら急ぐ。
が、途中から焦るあまり適当になってトイレが在りそうな方向を目指していた。
当然、トイレが在りそうな方向なんか分からない。つまり適当だ。
その道中、中庭に面した廊下を通ったので外の様子を確認する事ができた。
すっかり日が落ち藍色の空が漆黒に変わりつつある景色を見て、嫌でも悟らされる。
結局、空回った俺の意気込みは無駄に終わったのだと。
今日はもう、花姫様に会う事は叶わないのだとも――……。
◆◇◆
無事にトイレを見つけ、目的を果たした俺は廊下のど真ん中で佇んでいた。
理由は簡単。帰り道が分からないのだ。
一心不乱にトイレを目指して来たから途中からの道順が不明だ。今となってはトイレに辿りつけた事が奇跡に思えてくる。
ちなみに、先程の待合室に戻る気はない。
意気消沈したままの状態で花姫様に会っても、上手く話ができないと思う。
だから今の俺は、一度自分の部屋に戻って気持ちの整理をする必要があるのだ。
こんな場所で悶々と悩んでいても仕方がないので、とりあえず歩き出す事にした。
誰かに部屋までの道を聞けば良いだろう、と考えていると後ろから聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
「恭様?」
「……陽太か?」
「はい。こんな所で何をなさっているのですか?」
振り返れば、俺を送りだしてくれた時と同じキョトンとした表情の陽太が立っていた。
城下町に買物に行くと言っていたが、手ぶらなので少し前に帰ってきていたのだと分かる。
「部屋に帰る途中だ。そういうお前は?」
「オレは城下町への買付(かいつけ)が済んだので城内探索をしていました。あの、確か恭様は花姫様とお会いになる予定だったと記憶しているのですが……」
「あぁ、今の今まで待ったが我慢できなくなってな」
「は? 約束の時間は未の刻だったはずですが……って、今は酉(とり)三(み)つ時(どき)ですよ!?」
声がデカイよ陽太。
酉三つ時という事は、えーっとえーっと……午後六時半くらいか。確かに四時間半は待ち過ぎだな。陽太が驚くのも当然かもしれない。
それにしても、随分待たされたな俺。怒って帰っても変じゃないぞ。
考えてみれば、昨日の見合いで失礼な態度を取った俺への仕返しだと思えなくも無い。
俺を控室まで案内してくれた女中さんも妙に落ち着きが無かった。
いつ俺が花姫様の事を聞くか、いつ俺が怒りの矛先を向けるか……気を抜けなかったのだろう。
「俺と花姫様は、縁が無いのかもしれないな」
「そ、そんな事は……」
溜息を吐きながら言った俺の言葉が深刻そうに聞こえたのか、俺より陽太の方が落ち込んでいる。
俺を元気付ける言葉を選ぼうとする陽太だが、口をパクパクと開閉させるだけなので赤毛と相俟(あいま)って金魚を連想させた。
その姿が面白くて、苦笑が零れてしまう。
「言っただろ? 厄介な感情だ、と」
「で、では花姫様の事は……」
「今回の展開は予想外だったから、部屋で少し考えるよ」
自分の前髪を掻き上げて精一杯明るく言うと、陽太は渋々だが小さく頷いてくれた。
流れてしまった挽回の機会を、どうやって取り戻すかを考える。
俺が花姫様に取った失礼な態度と、今回の待ちぼうけで関係は振り出しに戻ったのだと解釈する事もできる。
そう思えばポジティブ思考に切り替える事が出来る気がした。
そんな俺が、足掻いても良いのではないかと自分自身に言い聞かせている。
間接的に拒絶されている気もするが、決定的な言葉がない限り全力を尽くしたいと。
「少し遅くなりましたが、夕餉を用意しますね」
「悪いが今は食欲が無いんだ」
俺を部屋へ案内する為に、少し前を歩く陽太に返事を返す。
待合室で茶請けの菓子を大量に食べたから、全く空腹でないからだ。
しかし、俺の腹事情を知らない陽太は心配して必死に夕餉を勧めてくる。
「恭様、気が滅入っていても食事を抜くのは良くありません。人参は控えてもらうよう伝えますので、少しだけでも召し上がって下さい」
待て待て陽太、子供か俺は。
ニンジンが嫌で駄々捏ねてるように受け取られるじゃねーか!
それに落ち込んでるから食べないわけじゃない。お腹が空いて無いだけだから。
俺は食べない理由を説明しようと口を開くが、陽太の真剣な眼差しに気遅れしてしまう。
陽太の目は、問答無用で俺に夕餉を食べさせる目だ。俺が何を言っても、夕餉を俺の口に放り込むつもりの目だ。
「……わかった、食べるよ。ニンジンの事も伝えなくて良いから」
結局、根気負けしたのは俺だった。
陽太への説明も面倒臭く思えてきたので、夕餉を食べる事にしたのだ。
大量の間食に加え、夕餉となると少々食べ過ぎな気もするが偶には良いだろう。
こうなれば自棄(ヤケ)食いだ。自棄酒だ。食べて飲んで、今日の事を忘れよう。
「今夜は酒も用意してくれよ?」
「わかりました。昼間お話した通り、東条の地酒を買って来ましたのでお出ししますね」
おー、おとしみず? って名前の酒だよな。
新発売の菓子を試すタイプの俺には待ち遠しい事だ。
昨日は月が綺麗だったから、月見酒と洒落込むのも悪くない。
あまり酒に呑まれた事は無いけど、愚痴が言いたくなったら陽太に聞いてもらう事にしよう。
一人で部屋に戻るより明らかに軽くなった足取り。
それが陽太のおかげだと再度思いながら、花姫様への挽回計画を考えつつ足を進めたのだった。
緊張して眠れなくなると思ったが、爆睡したため体調は良好。
朝餉に苦手なニンジンも入っていなかったので胃も心も軽く感じる。
着付を手伝ってくれた陽太が、墨色の着物に身を包んだ俺を上から下へ何度も確認して『さすが恭様ですね』と満足そうに笑った事でテンションも上がった。
これは花姫様との茶会も上手く行くんじゃね?と考えて、湯飲みの中に半分ほど残っている茶を飲み干す。
ゴクッ、という溜飲の音が部屋によく響き、俺の体に溶けるように吸収された。
あー、茶が美味しい。陽太におかわりをお願いしようっと。
「陽太、茶を煎れてくれないか」
「……恭様、これで四杯目になりますが」
「…………」
すみません、やっぱり緊張しすぎて心臓が破裂しそうです。
自分が何杯茶を飲んだのかさえ覚えていませんでした。
意識してしまうと平然を装っていた表情が次第に引き攣ってくるのが分かった。
そんな俺を興味深そうに見ながら、陽太は俺の言葉通り四杯目の茶を煎れてくれる。
「恭様がこれほど落ち着かれないのは久しぶりですね。何故、一度お会いになっただけの花姫様にそこまで夢中になるのですか?」
「愚問だな、陽太」
そして相変わらず直球な質問だ。少しは遠回しに聞いてくれよ。
陽太の言葉に内心で愚痴を言いながら、気持ちを落ち着かせる為に目を閉じた。
何故、花姫様に夢中になるのか――。
それは当事者である俺が自分自身に聞きたい事だ。
潔く諦めたはずの気持ちが、挽回の機会にどれだけ舞い上がった事か。
冷たい眼しか向けてくれなかった花姫様に、何故こんなにも縋りつこうとするのか。
理由を聞かれても簡単に答える事はできない。
考えるのを止め、自ら目を背けて蓋(ふた)をした気持ち。
失恋の傷が広がる事を恐れた。だから傷が自然と回復するまで時間を置くつもりだった。
しかし時間を置けば落ち着くと思ったそれは、いつの間にか着々と成長していた。
想えば胸が熱くなって、好かれていない事への辛さや会えない寂しさが押し迫った。
ただ『愛しい』と溢れてくる気持ちを、誰かに教える事なんて器用でない俺には難しい。
一度しか顔を合わせていないので、花姫様に対して多少の美化が掛かった状態だという認識もある。
そう理解していても払えきれない思考。
花姫様を称(たた)えるべき言葉が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。
「今の俺がどんな言葉を並べても、上滑りするだけだよ」
聞き慣れた賛辞や甘い囁きなど右から左へ通過するだけだろう。
関心も何も引いていない俺の言葉は、きっと花姫様の心には響かない。
それに、焦がれるだけの俺には肝心な言葉を紡ぐ勇気が少しだけ足りない。
「それでも、何故かココが酷く痛んで熱くなる」
左胸の上に手を乗せて、鼓動と同じ速さで数回叩いてみせる。
平常時より少しだけ早い音は俺の気持ちを代弁してくれているように思えた。
枯れない泉のように湧き出る事を止めない感情。
花姫様が綺麗だと思う物を一緒に見て、彼女に少しでも近いモノを共感したい。
もちろん綺麗な物だけに限らず、彼女の感情に波を立てるモノを知りたいのだ。
違う感性を持ち合わせている事など承知の上で、多方面の彼女を見たいから。
「たった一つの仕草だけでも、目を奪われるんだ。髪を梳くために伸ばした手も、その髪を掬う指も、揺れる長い髪さえも」
見た事のない仕草をする彼女を思い浮かべるだけで、目頭が熱くなる。
逆に、見た事のある仕草を思い出すだけで、胸がギュッと苦しくなる。
目を閉じて願った。
愚かな男(おれ)に奇跡のような想いを注いでほしい、と。
彼女が与えてくれるかもしれない、歓びを求めている。
望んでも、虚しくなるだけかもしれないのに。
あぁ、これは恐らく――……。
「もう、手遅れだ」
馬鹿だなぁ、と自分を罵りながら息を吐くが何故か胸には熱が灯ったままだった。
恋に盲目になりそうな自分の不器用さに同情すら覚えて、閉じていた目を開く。
出会う前なら、抱くはずが無かった。
だが彼女に出会ってしまった。知ってしまった。
言葉を失う程に甘く痺れ、時に切なく痛い想いを。
そして、結局のところ独りよがりな恋をしているだと嫌でも気付く。
見た事などないくせに、求めるが故に勝手に彼女の笑顔を思い浮かべてしまう。
その彼女の笑顔が本当でも嘘でも、俺がそれを求めている事は真実で……。
離れた場所に居るだけでも、こんなにも幸せをくれる。
そんな風に彼女を想う時間さえも――……何もかもが愛しい。
「まったく、本当に厄介な感情だよ」
少しだけ無理をして笑えば、目を見開いている陽太と視線がぶつかった。
何だか気恥かしくて隠すように湯飲みに手を伸ばすと、伝わる茶の熱が心地好く感じる。
「でも、恭様はとても嬉しそうです」
俺の照れ隠しを見て、まるで自分の事のように笑う陽太。
裏のない笑顔は俺を元気付けてくれているように思える。
たくさんの出会いの中から、巡り合えた。
それだけで奇跡と呼べるというのに、欲深くその先を求めて手を伸ばす。
俺が伸ばした手の先に彼女が居るなら、決してその手を離さない。
しかし、手を伸ばさなければ先に彼女が居るのかは分からない。
だから誠心誠意、彼女の為に尽くそう。
与えられた機会に真正面から向き合おう。
その向こうには何も無いかもしれないけれど。
その向こうに見えるかもしれない、小さな光を目指すために――……。
◆◇◆
胃を痛めながら待つしかないと思っていたが、陽太と会話している事で待ち時間は全く苦痛でなかった。
男同士なので恋愛話は初めの内で終わり、今は東条の城下町について陽太から話を聞いている。
何でも、俺が花姫様とお茶会を楽しんでいる間に買い物に行く予定だそうだ。
見合いの時のように後ろに陽太が控えているものだとばかり思っていたので、少し心細い。
もちろん、そんな情けない気持ちは口に出さないが不安なのは確かだ。
「東条は『音沁水(おとしみず)』という地酒が有名だそうです」
おとしみず?
また脳内で漢字変換できない言葉が出てきたな。
清水……かな。おいしい水で作った酒という事だとは思うけど。たぶん。
陽太の言葉に疑問を抱くが、冷えた酒と美味いつまみが俺の頭に浮かび上がった。
酒を飲む事は好きなので未知なる響きを持つ、酒に興味が沸く。
「興味あるな」
「お酒好きの恭様なら、そう仰ると思いました。では音沁水も買付けて来ますね。城にある分を分けて貰う事も出来ますが、買付けるのも楽しむ為の醍醐味ですから」
「なるほど、陽太も楽しんで来いよ」
「はい、戻るのは酉(とり)の刻頃になると思います。ちょうど夕餉の時刻ですが、上手くいけば花姫様とご一緒できるかもしれませんね!」
最後の言葉は、内緒話をする時のように口元に手をやって小声で話す陽太。
悪戯小僧のような笑顔を浮かべているので、俺はその言葉を聞こえなかった事にする。
プイっと横を向いた俺を笑った陽太が、更に笑みを深くするのが空気で伝わった。
「ふふっ、もう少しお話を伺いたいのですが今日はこの辺にしましょうか。そろそろ未の刻ですので、迎えが来たようです。女性の足音が近づいてきます」
そう言って、陽太は無音で立ち上がって部屋の出入口を開け放つ。
何だか催促されている気がしたので、言われる前に立ち上がり部屋を出た。
ほどなくして、陽太の言葉通り少し先の角から此方へ歩いてくる女中さんが見えた。
……すげぇ地獄耳だな。
俺なんか至近距離まで近づかれても足音が聞こえないんですけど。
「お迎えに参りました、藤見恭様」
対話が可能な距離まで近づいて俺に頭を下げたのは、薄い水色の着物を着た女中さんだった。
何か見た事のある着物だなぁ、と考えていると昨日会った千代さんの顔が思い浮かぶ。
そうだ、俺の記憶が間違っていなければ千代さんも同じ着物を着ていたはず。
女中さんのユニフォーム的な着物なのかな、と思ったが初日に俺を案内してくれた女中さんは違う着物だった事に頭を捻る。
仕事別で違うのかもしれない、という結論を導いて礼を返しておく。
「本日は奥御殿の花姫様の茶室へご案内させて頂きます」
「よろしくお願いします」
体の向きを変えて先を歩き出す女中さんを見失わないよう、俺も一歩を踏み出そうとする。
何気なく横を見れば、俺を見送る陽太と視線が合ったので軽く手を振ってみた。
陽太はキョトンとした表情でパチパチと瞬きをしたが、意図を理解して頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
「あぁ。お前も気をつけるんだぞ」
ようやく踏み出した一歩は、思っていたほど緊張に震えたものでは無かった。
◆◇◆
複数の角を曲がって、それなりの距離を歩いた後に案内された場所は茶室と呼ぶには少し雰囲気の違った部屋だった。
真四角の部屋に目立つ物は何もなく、申し訳程度に座布団が置かれているだけだ。
そして部屋の中には、花姫様の姿もない。
疑問に思って女中さんを見ると、丁寧な口調で言葉を返してくれた。
「花姫様は所要で席を外しておりますが、すぐに参られます。ご用意が出来ましたら、改めてご案内させて頂きますのでお待ち下さいませ」
なるほど、この部屋は待合室に似た場所なのか。
そう納得し、勧められるがままに部屋に入って何度か深呼吸を繰り返して座る。
続いて部屋に入ってきた案内役の女中さんは、花姫様が来るまで俺の世話をしてくれるようだ。
手際良く茶を煎れて茶菓子と一緒に俺に差し出してくれた。
一円玉くらいの大きさの饅頭に似た菓子が浅めの白い器に五つほど盛られている。
白い器も女の子が好みそうなウサギが数匹描かれていた。
「こちらの茶菓子は花姫様のお気に入りでございます」
「随分と小さな菓子ですね。器もウサギが……」
「その菓子は見た目より満腹感を得る事ができますし、美味と評判なのです。兎は動物好きの花姫様が、幼少の頃より特に好まれている動物でございますわ」
「花姫様にウサギ……、とても可愛らしいですね」
「そうでございましょう!? 姫様は昔から、それはそれは可愛らしい方でございました。
そして今は可愛らしさに加え大人の女性の美しさもお持ちなのです!」
「そ、そうですか」
「そんな可愛らしい一面を持つ上に、ご自分がお生まれになられた春に桜を愛で……」
先程までの雰囲気を一変させて、女中さんは急に身を乗り出して俺に花姫様の事を語り始めた。
その勢いに押されてか、思わず後ろに下がりそうになってしまった。
あれ、何かスイッチ入っちゃった?
女中さんの目が何故かギラギラしてます。
俺、ウサギと戯れる花姫様を想像してポロッと本音を漏らしちゃったんですよね。
妄想してんじゃねーよ!と文句を言われると思ったんだけど、大丈夫だったみたいです。
それより女中さんの鼻息が滅茶苦茶荒くなった事にビックリだ。
何か女中さんの話が花姫様一色なのですが。
聞いてもいないのに、次から次へとノンストップで話が進む。
好きな花や色、口を挟む間もなく挙げられていく状態で完全に置いてけぼりだ。
俺としては花姫様の情報が聞けて嬉しいけど、さすがに情報提供し過ぎじゃない?
まさか、この後に『花姫様クイズ』とか出題されちゃうのかな。
答えられなければ花姫様に会う事が出来ないとか。
ヤベ、あんまり真剣に聞いてなかった。
聞き逃した分は後でもう一度話してくれる事を期待して、今から真剣に聞く事にしよう。
メモを取る事が出来ないので、俺の記憶力が試される事になる。
暗記は苦手だ……と心の中で愚痴をこぼしながら、茶菓子を頬張りながら熱中する女中さんへ耳を傾けたのだった。
◆◇◆
そして、何度か同じ話を繰り返しながら話す女中さんに付き合っていた事で約束の時間を過ぎている事に気付いた。
夢中で話をしているのかと思っていたが、時折チラチラと部屋の外を気にしていたので俺と同じ境遇なのだと理解する。
恐らく、この女中さんも花姫様が現れるのを待っているのだ。
途中で何度か席を立っていたので、他の仕事を行いながら俺の相手をしてくれていると容易に推測できた。
更に言えば、俺は少しだけ『他の仕事』が羨ましい。
何故なら、さすがの俺も約三時間の待ちぼうけはキツイからだ。
そう、あれから三時間だ。
もちろん、その三時間の間に俺も様々な事を考えた。
花姫様は忙しいのかと女中さんに遠回しに聞けば『もう暫くお待ち下さい』と言われるだけ。
何か良くない事でもあったのかと、心配にもなって同じように尋ねても『問題ありません』との応答で会話は終わってしまう。
そんなやり取りが何度か繰り返されての三時間だ。
待たされる理由も分からず、下手に動く事も出来ず。ただ時間が過ぎていく事は苦痛だった。
それに加えて、長時間の正座で足が限界を迎えていた。
痺れては感触が無くなり、また痺れて……の繰り返し。
辛い、辛すぎる。足を崩せば良いのだが俺にはその余裕すら無い。
「は、花姫様のお好きな……」
「好きな花、色、食べ物、季節、着物の柄、動物など昔の話まで。貴女には様々な事を教えて頂きましたが、まだ何か話されるのですか?」
「いっ、いえ、その……おっ、お茶をもう一杯いかがですか!?」
「……そうですね、いただきます」
繰り返された話のおかげで、暗記もほぼ完璧だ。
それでも尚、花姫様の話を繰り返そうとする女中さんに低めの声で嫌味半分な質問をしてしまった。
女中さんは悪くないのに少し八つ当たりをしてしまった事が申し訳なくて、茶を断る事は止めた。
だが、出された茶を飲む事はできないだろう。
何故なら、茶を飲み過ぎて俺の腹はタプタプだからだ。
朝から緊張して四杯も飲んでいた上に、この部屋に来てから五杯は飲んだ。
ついでに言えば、満腹感を得られるという茶菓子も勧められるがまま二十個以上食べた記憶がある。
空腹でない事が唯一の救いであるが、水分の過剰摂取は危険だ。
合計すれば、もうすぐ二桁に届くのだ。それがどんな事態を招くか、簡単に予測できる。
ぬおおお、トイレに行きたいんですけど……!
十杯近い茶による水分摂取により、俺の体が悲鳴を上げている!
や、でも限界まで我慢しよう。まだ我慢できる。体に悪いけどもう少しだけ……。
席を外している間に花姫様が来るかもしれない、という考えが俺の判断を鈍らせている。
歯を食いしばるようにして力を入れる事で、何とか冷静さを保つ事ができるが長くは持たないと思った。
そんな俺の様子を見ながら、おずおずと女中さんが十杯目の茶を注いでくれたが、トイレ我慢中の俺には手をつける事など出来るはずがなかった――。
結論から言おう。
俺のトイレ我慢記録は一時間半だった。頑張った俺、超頑張った。
ついに限界値を越えてしまった俺は、女中さんには悪いが断りもなく部屋を飛び出した。
奇跡的に正座による足の痺れ等は無い。しかし正座を侮ってはいけないので、時間差で起こるかもしれないので早足を決め込む事にしたのだ。
目指す先はトイレだ。この世界では『厠(かわや)』というらしい。
「ど、どうかお待ち下さい、藤見様――っ……!」
遥か後方から、女中さんの焦った声が聞こえるが足が止まる事はない。
ゴメンね、今それどころじゃないから。本当にヤバイから。後で謝りに来るから今は見逃して下さい。
女中さんには後で謝ると決めて、待合室に案内される時に通った道順を思い出しながら急ぐ。
が、途中から焦るあまり適当になってトイレが在りそうな方向を目指していた。
当然、トイレが在りそうな方向なんか分からない。つまり適当だ。
その道中、中庭に面した廊下を通ったので外の様子を確認する事ができた。
すっかり日が落ち藍色の空が漆黒に変わりつつある景色を見て、嫌でも悟らされる。
結局、空回った俺の意気込みは無駄に終わったのだと。
今日はもう、花姫様に会う事は叶わないのだとも――……。
◆◇◆
無事にトイレを見つけ、目的を果たした俺は廊下のど真ん中で佇んでいた。
理由は簡単。帰り道が分からないのだ。
一心不乱にトイレを目指して来たから途中からの道順が不明だ。今となってはトイレに辿りつけた事が奇跡に思えてくる。
ちなみに、先程の待合室に戻る気はない。
意気消沈したままの状態で花姫様に会っても、上手く話ができないと思う。
だから今の俺は、一度自分の部屋に戻って気持ちの整理をする必要があるのだ。
こんな場所で悶々と悩んでいても仕方がないので、とりあえず歩き出す事にした。
誰かに部屋までの道を聞けば良いだろう、と考えていると後ろから聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
「恭様?」
「……陽太か?」
「はい。こんな所で何をなさっているのですか?」
振り返れば、俺を送りだしてくれた時と同じキョトンとした表情の陽太が立っていた。
城下町に買物に行くと言っていたが、手ぶらなので少し前に帰ってきていたのだと分かる。
「部屋に帰る途中だ。そういうお前は?」
「オレは城下町への買付(かいつけ)が済んだので城内探索をしていました。あの、確か恭様は花姫様とお会いになる予定だったと記憶しているのですが……」
「あぁ、今の今まで待ったが我慢できなくなってな」
「は? 約束の時間は未の刻だったはずですが……って、今は酉(とり)三(み)つ時(どき)ですよ!?」
声がデカイよ陽太。
酉三つ時という事は、えーっとえーっと……午後六時半くらいか。確かに四時間半は待ち過ぎだな。陽太が驚くのも当然かもしれない。
それにしても、随分待たされたな俺。怒って帰っても変じゃないぞ。
考えてみれば、昨日の見合いで失礼な態度を取った俺への仕返しだと思えなくも無い。
俺を控室まで案内してくれた女中さんも妙に落ち着きが無かった。
いつ俺が花姫様の事を聞くか、いつ俺が怒りの矛先を向けるか……気を抜けなかったのだろう。
「俺と花姫様は、縁が無いのかもしれないな」
「そ、そんな事は……」
溜息を吐きながら言った俺の言葉が深刻そうに聞こえたのか、俺より陽太の方が落ち込んでいる。
俺を元気付ける言葉を選ぼうとする陽太だが、口をパクパクと開閉させるだけなので赤毛と相俟(あいま)って金魚を連想させた。
その姿が面白くて、苦笑が零れてしまう。
「言っただろ? 厄介な感情だ、と」
「で、では花姫様の事は……」
「今回の展開は予想外だったから、部屋で少し考えるよ」
自分の前髪を掻き上げて精一杯明るく言うと、陽太は渋々だが小さく頷いてくれた。
流れてしまった挽回の機会を、どうやって取り戻すかを考える。
俺が花姫様に取った失礼な態度と、今回の待ちぼうけで関係は振り出しに戻ったのだと解釈する事もできる。
そう思えばポジティブ思考に切り替える事が出来る気がした。
そんな俺が、足掻いても良いのではないかと自分自身に言い聞かせている。
間接的に拒絶されている気もするが、決定的な言葉がない限り全力を尽くしたいと。
「少し遅くなりましたが、夕餉を用意しますね」
「悪いが今は食欲が無いんだ」
俺を部屋へ案内する為に、少し前を歩く陽太に返事を返す。
待合室で茶請けの菓子を大量に食べたから、全く空腹でないからだ。
しかし、俺の腹事情を知らない陽太は心配して必死に夕餉を勧めてくる。
「恭様、気が滅入っていても食事を抜くのは良くありません。人参は控えてもらうよう伝えますので、少しだけでも召し上がって下さい」
待て待て陽太、子供か俺は。
ニンジンが嫌で駄々捏ねてるように受け取られるじゃねーか!
それに落ち込んでるから食べないわけじゃない。お腹が空いて無いだけだから。
俺は食べない理由を説明しようと口を開くが、陽太の真剣な眼差しに気遅れしてしまう。
陽太の目は、問答無用で俺に夕餉を食べさせる目だ。俺が何を言っても、夕餉を俺の口に放り込むつもりの目だ。
「……わかった、食べるよ。ニンジンの事も伝えなくて良いから」
結局、根気負けしたのは俺だった。
陽太への説明も面倒臭く思えてきたので、夕餉を食べる事にしたのだ。
大量の間食に加え、夕餉となると少々食べ過ぎな気もするが偶には良いだろう。
こうなれば自棄(ヤケ)食いだ。自棄酒だ。食べて飲んで、今日の事を忘れよう。
「今夜は酒も用意してくれよ?」
「わかりました。昼間お話した通り、東条の地酒を買って来ましたのでお出ししますね」
おー、おとしみず? って名前の酒だよな。
新発売の菓子を試すタイプの俺には待ち遠しい事だ。
昨日は月が綺麗だったから、月見酒と洒落込むのも悪くない。
あまり酒に呑まれた事は無いけど、愚痴が言いたくなったら陽太に聞いてもらう事にしよう。
一人で部屋に戻るより明らかに軽くなった足取り。
それが陽太のおかげだと再度思いながら、花姫様への挽回計画を考えつつ足を進めたのだった。
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