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へっぽこ鬼日記 幕間九(二)

幕間九 (二)
 翌日、麻呂は予定通りの刻限に現れた東条の姫の使いだと名乗る女中に連れられ、本殿の茶室へ案内されたでおじゃ。
 麻呂が室内に落ちつき、程なくして東条の姫が女中頭と侍女を二名引き連れて姿を現した為、昨日と同じ口調で挨拶と姫の容姿を褒める言葉を口の端(は)に掛けた。
 じゃが、麻呂の心は一日が終わっておらぬというのに、既に気骨が折れておった。

 主な理由は二つあるのでおじゃる。
 一つは、東条の姫を窺う事で明らかになる事じゃ。
 確かに、東条の姫は美しい。 鬼一族で一、二を争う美女だと言われても仕方ないじゃろう。
 じゃが、他の男鬼を想う者を追うほどの気力を麻呂は持っておらぬし、生木を裂くような事はできぬ。
 ましてや東条の継承権を一身に受ける立場。本人の意思とは関係なくとも、面倒事が共に付いてくる女鬼と関係を持とうなど微塵も思わぬわ。
 現に、東条の姫の召物には存在を主張するように藤を中心とした花々が咲き誇っておじゃる。
 言葉にせずとも伝わる明らかな意思表示に、東条の姫が藤の若者に心寄せている事を確信した。
 既にこの空気で中(あ)てられそうじゃ。
 しかしながら、それでも気付かず引きも切らずに口を開く者がおる。
 聞き慣れた称美は芸がなく無聊(ぶりょう)をかこつ。

「やはり姫君は何度お逢いしても大変美しゅうございますなぁ」
「噂には聞いておりましたが、実際にお目通り致すと感極まるモノがありまする!」

 そう、二つ目の理由は麻呂と東条の姫以外に室内に腰を落ち着けておる愚か者達じゃった。
 戸館殿の愚策はこうでおじゃる。
 まず辰の刻に麻呂が予定通り東条の姫と逢い、半刻ほど共に過ごす。
 それから更に四半刻経った頃に戸館殿が待ちきれぬ様子で現れ、麻呂に同席を求める。
 麻呂はその申し出を快く了承し、戸館殿も己の持ち時間内で麻呂が同席する事を承諾。
 そして郷田殿も同じような配分を狙って現れ、麻呂と戸館殿の承認を経て同席。
 何時の間にやら藤見殿を除く婿候補三名と東条の姫が顔を合わせておる、という状況を作り上げる流れじゃ。
 麻呂達が揃うまで間をもたす為に、各自が用意した贈物を姫に献上し長々と説明を行う。
 麻呂は松倉家を出る際に爺が気を利かせて持参した書物の中から、男女の恋情が記された物を選んだ。
 藤見殿の影響で、そういった感情に敏感になっておる東条の姫は僅かばかり興味を示し、戸館殿が現れるまでの間は麻呂の話に耳を傾けておった。

 次の戸館殿は豪商と称されるだけあって、珍しい茶器を姫に差し出した。
 何でも、茶の蒸らし方で幾数もの味が楽しめる優れ物であるそうじゃ。
 戸館殿の身の回りの世話をしておる使用人が茶器の扱いに優れておるので、機を見て披露すると口にしておった。
 武家の出である郷田殿は、最近目覚ましく成長を遂げる鍛冶技術について熱く語った後、煌びやかな装飾が施された小太刀を献上した。
 従来の小太刀より小ぶりで軽く、護身用に持ち歩くには適しておる事を誇らしげに発言しておったわ。

 じゃが、昨日の顔合わせの席と大差ないように見えて、若干の協調性を持った麻呂達を不審に思わぬ者も少なくはない。
 麻呂達に割り当てられた時間内であれば、如何様な行動も黙認すべく口を閉ざしている女中頭も、本心では疑っておるはずじゃ。
 戸館殿の策では、このまま藤見殿に割り当てられた刻限を越えても居座る事になっておる。
 その為に未の刻に、城下町から呉服屋と小間物屋を二店舗ずつ呼んだと聞いた。
 何故二店舗ずつなのかと尋ねれば、商売人は競う相手が居る場の方が上手い商売ができるのじゃと戸館殿はほくそ笑んでおった。

 もちろん、麻呂はその考えが上手く行くとは微塵も思っておらぬ。
 そのような真似を、この女中頭が許すはずがないじゃろう、と。
 未の刻が来れば、麻呂達は簡単に追い出されてしまう。
 呉服屋や小間物屋を室内に招き入れる事など出来るはずがない。

「今日のお召し物もよくお似合いでいらっしゃいます。見事に着こなされた衣も、衣を手掛けた職人も本望でございましょう」
「……そう、ですか」

 その言葉に僅かばかり頬を染める姫を見て満足げな戸館殿。
 丸い顔に付いている目は確り見えておるのか、と口から零れそうになった言葉を胸内で霧散させて、麻呂は姫を見やる。
 東条の地で過剰なほど大切に育てられた姫の、白魚のような手の先に何があるのか。
 己の衣に触れている指先は、模様として描かれた見事な藤の花を愛おしそうに撫でておる。
 麻呂達が揃って目の前に居るというのに、東条の姫はここには居らぬ、ただ一人の男鬼の事を考えているのでおじゃる。

 そしてついに、未の刻が間近に迫った頃。
 今まで無言であった女中頭が麻呂達に目をくれ、口を開いた。
 女中頭が動いた事で、控えておった侍女二名も退席の準備を整えるために腰を上げようとする。

「戸館様、郷田様、松倉様。恐れ入りますが本日は以上でお開きとさせて頂きとうございます。皆様、大変有意義な時間を過ごされたご様子。私共も名残惜しゅうございますが――」
「お前達、女中を楽しませる為に来たのではないわ。それに姫への贈物はまだ残っている。逢瀬の最中に口を挟むでない」

 言葉を遮って話の腰を折った戸館殿は、女中頭に鼻もちならぬ顔を向けた。
 女中頭が口を挟む事で策が崩れるかもしれぬ状況が、意に満たっておらぬのじゃろう。
 それにしても、室内の空気が悪くなる中で顔色を変えぬまま言い噤んだに留めたのは、流石と称すべきか。
 笑顔こそ見せぬが、変わらぬ丁寧な対応で諌めようとする姿は気品が溢れておった。

「戸館様のお気持ちは大変嬉しく思っております。ですが、姫様にも予定がございます。これ以上の逢瀬はお控え頂き、日を改めて……」
「女中頭と言えどもお前は使用人のはずだ。東条の客であり、婿候補という地位にある私を愚弄し意見する気か!」

 それとは逆に、戸館殿は誠に気の短い方でおじゃりますなぁ。
 どうやら戸館殿は、無謀にも女中頭と対抗するつもりのようじゃった。
 しかし非の打ち所がない正論を述べる女中頭に比べ、戸館殿は明らかに劣勢。
 何のかんのと文句をつけ、やれ滑ったの転んだのと言い訳ばかりしておる。
 やはり麻呂が感じておったように、戸館殿の策は藤見殿に害を及ぼす前に女中頭によって摘み取られてしまうようじゃ。
 思いを晴らすには到底遠いあり様に、麻呂は己の袖で口元を隠して深い息を吐いたのじゃった。



◆◇◆



 じゃが、戸館殿の主張が始まっておよそ四半刻に満たぬ時間が経過した頃に状況は一変した。
 事態は驚くべき事に麻呂が想定しておらぬ方向――、戸館殿の策を第三者が後押しするような方向へ動き出したのじゃ。
 戸館殿の策で目立った欠点を第三者が陰で埋め始めた、とでも言おうか。
 婿候補である戸館殿を叱りつける程の威厳を持った東条の女中頭を、簡単に呼び出せるほどの第三者が知らず知らずの内に手を差し伸べて来たようじゃった。

 騒ぎ立てる戸館殿の言葉に底が見え、そろそろ潮時かと思ぅて退席の体勢を整えた時。
 茶室の外から少し落ち着きのない様子で女中が現れ、短い挨拶を述べて女中頭に体を寄せた。
 何やら急ぎの用件がおじゃるのか、居た堪れぬ風で耳打ちする姿は刻一刻を争うようなモノじゃった。
 そんな二名に比較的近い場所に座っておった麻呂は、必然的に用件の内容を断片的にではあるが耳に入れる事になってしもぉた。

「裡念様が――、……ので、……お越し下さるようにと」
「何故、裡念様が……? それは――、……?」
「はい、でなければ――……」

 『裡念』。麻呂はその名に聞き覚えがおじゃった。
 確か、東条の先々代当主傍付きの片割れで、東鬼が誇る鬼道術士の名じゃ。
 術の腕前だけでなく、一端を聞いただけで物事の全体を理解する聡明さと視野の広さは世に入れられておった。
 ――その存在は、当時の松倉家当主を凌ぐほどに……。

 麻呂の生まれた松倉家は、武力より知力で己の存在価値を証明する傾向がおじゃる。
 膨大な知識は口先だけの愚か者を作り上げ易いが、それを打破できる教育を松倉家は行ってきた。
 歴代の松倉家当主も成果と結果を兼ねており、咄嗟の判断や長期に渡る策まで抜け目ない姿を名実共に見せてきたはずじゃ。
 じゃが、松倉家の本意はそこに存在せなんだ。松倉家の存在意義は知に富んでおると世襲を賑わす事ではない。
 唯一無二の主を定め、己の知を惜しみなく注ぎ仕えてこそ至福を感じるのじゃからのぉ。
 松倉家の真意を頭で理解しておっても、松倉の男鬼にとって主を定める事は容易ではなかった。
 豊富な知識を持つが故、唯一無二の主という存在を定める『感情』が理解できておらぬ。
 自ら頭(こうべ)を垂れ傅(かしず)きたくなるほどの戦慄(せんりつ)を、心で感じる事が叶っておらぬからじゃ。
 長きに渡って主を定めておらぬ事が、それを裏付けておる。

 しかし、松倉家先代当主にあたる麻呂の祖父は違っておった。
 祖父は当時の東鬼一族の長であった、東条の先々代当主に自ら頭を下げ従者になりたいと請うたそうじゃ。
 既に東条の当主を引き継いで幾年の経験をした先々代に、未だ少年じゃった麻呂の祖父は跪いた。
 祖父が松倉家の跡目じゃと決まってはおらぬ状態じゃったが、己の心のままに膝を折ったそうじゃ。

 じゃが現実は非情な物。今朝麻呂が見た夢の示す意味を考える。
 既に傍付きを決めた先々代に、年若かった麻呂の祖父上は仕える事を拒まれた。
 正確には傍仕えは間に合っておると諭され、忠誠心を評されたに留まった。
 孫の麻呂にその時の心境を語る祖父上の心は、当時と同じように震えておったのじゃろう。
 遠くを見るように目を細め、切望に揺れる瞳は仕える事が出来なかった東条の先々代を追っておる。

 そんな祖父上が羨んだ者の名が、『裡念』殿じゃった。
 東条の先々代に心から忠誠を誓い、東鬼が誇る鬼道術士であり松倉家に劣らぬ知の持ち主。
 麻呂の祖父上が願った場所に既に君臨しておった、先々代当主の信頼を得た傍付きの片割れ。

 裡念殿には機会があれば逢ってみたいと常々思ぅておった。
 先々代が既に他界された今は、東条の老臣として現当主に仕えておるはず。
 なにゆえ、その裡念殿が戸館殿の策を支援する形で動いておるのか。
 その理由は考えるまでもなく、この場に居らぬ婿候補に答えがあると推測できた。
 裡念殿が藤見殿に関心を寄せておる。
 藤見殿が気を引いたのではなく、裡念殿の方から行動を起こし始めた。
 つまり近い内に裡念殿は藤見殿に自ら接触し、東条の臣という立場から藤見殿が東鬼の長に相応しいか見極める気なのじゃ。
 裡念殿は、愚策で妨害を仕掛ける他の婿候補達を支援などしておらぬ。
 己が動く為の駒として利用し、動き易い環境を確実に作り上げていっておる。
 麻呂の事も……この、松倉信孝をも駒としか認識しておらぬのじゃ。

 祖父上が自ら仕えたいと志願した先々代当主が、最も信頼した傍仕えの内の一人。
 その裡念殿が藤見殿に視た何かを感じる事ができれば、きっと麻呂も祖父の気持ちを理解できる。
 恐らくそれは、知識として蓄えてはおるが心で理解できぬ事。
 麻呂自身が藤見殿に頭を下げ跪いて誓いを立てる結末に繋がる、松倉家の望んだ未来。
 欲する物が一繋がりとなる状況を、好機と捉えず何とするか。
 唯一無二の主としての素質を持ち、傍仕えの一席を空けたままで居る藤の名を背負う男鬼。
 東鬼が誇る鬼道術士且つ松倉家に引けを取らぬ知を持ち、松倉家の在るべき姿を経験した老臣。
 松倉家が望むべき物に、最も近い場所に居る己自身に、麻呂は言葉にできぬ思いを感じておった。

 あぁ、これが心で感じるという事か、と。
 遠い目をして麻呂に話をした祖父の思いが、少しだけ理解できた。
 これだけの感情で既に限界に近いと思ぅておるのに、まだ先があるという。

 藤の名を背負う鬼に松倉の名を持つ麻呂が傅く時には、感極まって涙を零すかもしれぬ。
 以前の麻呂ならば、そのような己の姿を想像する事さえも拒んでおったはず。
 じゃが、今はその姿が麻呂の行きつく先なのじゃと思えるだけ進歩しておった。

 頭で理解し、心で受け入れられぬ状況に変わりはないが。
 麻呂の心は、また少し期待に震えておる事も確かじゃった――。






 そこまで脳内で処理し終えた麻呂は、今回の件をどのように藤見殿への接触へ向かわせるか考え始めた。
 様子を窺うべく周囲を見回すと、ちょうど女中頭が裡念殿の事を東条の姫に伝えておる姿が目に入った。
 用件を耳打ちされた姫は一瞬困惑したようじゃったが、次いで女中頭に強く指示を出す。



「小萩、わたしは構わないから行きなさい」
「しかし姫様……」
「戸館様も十分ご理解下さったはずだわ。そうでございましょう?」
「――……えぇ、女中頭の言葉はよく理解できました」
「ね? わたしより、裡念を待たせた後の方が心配だわ」
「畏まりました……。では行って参ります、姫様。すぐに戻りますが、何か問題が御座いましたら必ずこの小萩をお呼び下さいませ」

 姫の問い掛けに間を置いて答えた戸館殿の声色は、肯定的に取るには不十分じゃ。
 女中頭も麻呂と同じ事を思ぅたようじゃが、戸館殿と裡念殿を天秤にかければ危険なのは裡念殿に決まっておる。

 渋々といった表情で退室する女中頭を視線だけで見送り、東条の姫は対面しておる麻呂達に再び視線を戻したでおじゃる。
 この場を解散させるべく向き直った姫の目には、昨日の顔合わせの席で感じた意志の強さが表れておった。
 もちろん、それに気付いたのは麻呂だけではなく他の二名も気付かぬ内に姿勢を正す。
 それは、東条の姫が言葉を紡ぎ出す前に声を上げた戸館殿の、焦りを含んだ言葉から感じ取れもした。


「はっ、花姫様。本日は共に過ごす事ができ、至極幸せにございました」
「わたしも楽しませて頂きました」
「名残惜しいと心から感じているのも、事実でございます」
「そう言って下さって、とても嬉しく思います」

 両者の口からは社交辞令のような言葉が交わされ、場の空気は一気に終焉へ向かう。
 裡念殿の支援により退室のまでの時間を延ばす事ができたが、未の刻を過ぎて半刻も経過しておらぬ状態では大した妨害になっておらぬじゃろう。
 切り返しが出来ぬのは、策を考えた戸館殿の力不足に他ならぬ。
 ここで妨害が終わってしまうならば、それだけの人物じゃったという事。

 さて、この状況を如何するのか……と戸館殿を横目で見やると、意外にも堂々としておる姿に麻呂は目を張ってしもぉた。
 どうやら戸館殿は己の策を諦めておらぬようで、事態を収拾に向かわせる手段があるようじゃった。

「差し出がましい願いなのですが……。どうか、どうか最後に一杯だけ我々と茶を飲んで頂けませぬか」
「お茶を、ですか?」
「先ほど私がお贈りした茶器で飲むと一層美味となる、珍しい茶葉があるのです。
 次にお逢いする為の口実にしようと考えておりましたが、本日の思い出と致したく……」

 戸館殿の言葉は、なかなか有効な物言いじゃな、と麻呂は思ぅた。
 最後だという者を冷たく突き放すほど、東条の姫は残忍ではない。
 それに、茶葉を受け取る事で東条の姫側からすれば逢瀬の回が一度減る事に繋がるじゃろう。
 断って次回の繋ぎを承諾するよりは、今の内に余計な芽は摘んでおこうとするはず。
 謙虚な申し出により、東条の姫が醸し出しておった冷淡な眼を逸らす事にも成功した。
 押しの強い印象じゃった戸館殿が一歩引いた言動に出た事で、姫や周りの判断も鈍くなる。
 なるほど、己の性格を手段の一つとして使用するのは良い判断じゃ。

「……わかりました、ではお願いします」
「ありがとうございます、最高の茶を煎れさせましょうぞ!」

 意気揚々と年老いた従者を呼び付けた戸館殿は、いつもの調子を取り戻して茶器と茶葉について語り出した。
 話の最中、先ほどと同じように見た事のない女中が現れて姫と言葉を交わしたが、女中は安堵したような息を吐いて退室した。

 女中が何の用件で姫を訪ねたのか不明じゃったが、急に落ちつきを無くした姫の様子から答えが簡単に導き出せた。
 恐らく、先ほどの女中は藤見殿に関係しておる者じゃ。藤見殿の使いで参ったか、それに類似した使い。
 無駄に時間を掛けて茶器を扱っておる戸館殿の従者を、忙しなく目に移し始めた事で真実味は一層増す。

 蒸らすのに時間を掛け過ぎでは、と何気なく質問した姫にも戸館殿は喰いついて説明を続けたでおじゃ。
 もはや麻呂と郷田殿は完全に蚊帳の外。
 麻呂は一向に構わぬが、そろそろ郷田殿が会話に加わろうと躍起になるかもしれぬと思ぅた時、ようやっと戸館殿の従者が茶を器に注ぎ始めた。
 珍しい、最高じゃと自慢するだけあって室内に広がる香りは素晴らしい。
 花姫様の元へ茶を運ぶべく立ち上がった従者は、茶を煎れる手つきは慣れておるが、足腰は少し怪しかった。
 麻呂の従者より年配である印象を受けた老人は、手にした茶に集中しすぎて己の足元には気を配っておらぬ様子じゃ。
 煎れ終わった茶は女中に任せれば良いのにと考え、……はっ、と麻呂が顔を上げた瞬間、それは起こった。

「わ、ととっ……、ひえぇぇ……っ!」
「きゃぁっ!」
「姫様っ!」

 バシャッ、という水音が聞こえ、空の器が無造作に床で転がる。
 戸館殿の従者が煎れた茶の温度とは正反対に、急激に下がる室内の空気。
 状況を説明すると、姫に茶を運んでおった戸館殿の従者が躓き転んだという所じゃ。
 従者の手を離れ宙を舞った茶は、まるで計算されたように東条の姫へ向かった。 
 それを、東条の姫に茶がかかりそうになった瞬間、室内に居なかったはずの女鬼が姿を現して茶器を払い落したのじゃ。
 黒装束に身を包んだ女鬼は今にも襲いかからんばかりの形相で、床に這いつくばったままの戸館殿の従者を睨んでおった。
 衣装や動作からして、姫を守るべく姿を見せたのは東条の女忍じゃろう。

 ――愚かじゃ。愚か以外の言葉を口にできぬほど、情けない。
 目的に気付くのが遅れた麻呂も愚かじゃが、それを策の一つとして思い付いておった戸館殿は更に愚かじゃと思ぅた。
 元から狙いは姫の召物のようじゃが、一歩間違えば姫に火傷を負わせていた。
 東鬼一族が最も守らなければならぬ存在である姫に、危害を加えようとしておったのだ。
 勢い余って従者の狙いが外れ、姫に直接茶がかかる事を想定しておらぬのか。
 策を練るとは、思い付きを繋げる事ではない。
 あらゆる可能性を考え、何時でも最善の方法を選択できるよう隠れた道を忍ばせてこそ、練るという事に繋がるのじゃ。

「姫様、お怪我はございませんか」
「だ、大丈夫よ。でも千代は……?」
「私も問題ありません。ですが姫様の打掛(うちかけ)の裾に飛沫が飛んでしまったようです」

 安否を気遣う女忍の問いに、驚いた様子で東条の姫は小さく答えた。
 その姿に麻呂も安堵し、次にこの愚策をどのように収拾付ける気なのかと、怒りを覚えながら戸館殿に目を配らせた。
 そんな麻呂の視線に気づいた戸館殿は服の袖から黄金色の扇子を取り出し、麻呂と郷田殿に向けて相好を崩した後、一拍の間を置いて大きく息を吸い込んだ。
 どうやら戸館殿の策はまだ先があるようじゃ。

「馬鹿者めがっ、花姫様に何たる無礼を! ええい、貴様の首を私が自らの手で跳ねてくれるわぁぁ!!」
「おっ、お許し下さいませ、兼成様!」
「黙れ役立たずめ! 老い先短いお主の命など、取るに足りぬわ!」
「ひいいぃぃっ、どうかお命だけは…っ。花姫様、どうかこの老いぼれめを御助け下さいませ……! 逆上された兼成様をお止めできるのは、花姫様しか居りませぬ!!」

 ……何じゃこの猿芝居は。
 床に転がっていた従者を足蹴にし、罵声を浴びせる戸館殿。
 その怒りを一身に受け許しを請う老人の図は、まるで下手な芝居でも見ておるような感覚を麻呂に抱かせた。
 怒り狂った戸館殿は従者に向かって手にしておった扇子を投げつけ、従者は悲鳴を上げて姫に縋ろうとする。
 ぐうの声さえも出ぬ麻呂はその芝居を傍観する事しかできぬ。
 郷田殿に至っては、声は出さぬものの肩を小刻みに震わせて笑いを我慢しておるようじゃった。

 しかし、強制的に舞台に上がっている状態の東条の姫は、そうはいかぬ。
 収拾の一手を丸投げされたとも取れる事態に、傍観を決め込むほど東条の姫は冷淡ではおじゃらぬ。

「と、戸館様、わたしは大事ないのでご老人を許して差し上げて下さい」
「しかし姫、それでは私の気が……」
「幸い、打掛が少し汚れただけです。替えれば事足りるものです」
「では、せめて新しい召物だけでも私に贈らせて頂きたい。実は本日、戸館家と縁のある店の者を呼び付けておりました。姫に似合う衣や小間物を選ばねば、私の痛んだ心は元に戻りません!」
「…………え?」

 その一言を待っていた! とばかりに転がったままの従者を脇にやり、東条の姫に大きく近づく戸館殿。
 警戒した女忍が間に入った事でそれ以上の接近は免れたが、戸館殿は明らかに姫に触れようとしておった。
 女忍の態度に軽く舌打ちをした戸館殿じゃが、事の流れが己の策と変わりない方向へ進んでいく状況に気を良くしておるのか、混乱したままの姫が反対せぬ間に場を仕切り始めた。
 丸々とした肉付きの良い手から鳴った乾いた手打ち音を合図とし、茶室の扉が大きく開かれて品物を両手いっぱいに抱えた者達が遠慮なく足を運んで来る。

 瞬く間に室内は上質な品で溢れかえり、姫の脇に控えておった二名の女中は奥隅に追いやられてしもぉた。
 必然的に、姫の傍に居るのは鋭い眼をした女忍のみ。
 女に飢えた獣のように、隙あらば東条の姫に近づこうとする戸館殿を牽制する唯一の存在じゃった。


「さぁ花姫様。私、戸館兼成の目利きの才をお見せ致しましょうぞ……?」

 ねっとりと耳に残る声を発した戸館殿に、小さく悲鳴を上げた花姫様の反応は当然のもの。
 しかし人格はどうあれ、自他共に認める才を披露できる独壇場を作り上げた戸館殿を止める者はこの場におらぬ。
 頃合いにして、藤見殿が約束しておった刻限から一刻過ぎた申の刻。
 ようやっと整った、愚策が最も力を発揮する機会を発案者である戸館殿が逃すはずもなかった。

 何がどう間違ったのか。
 失策に終わるはずじゃった戸館殿の策は、奇妙な巡り合わせにより成り立ったのじゃった。

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