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へっぽこ鬼日記 第十二話

第十二話 桜と小花と露芝の先
――ポチャン……。

 聞き覚えのある音が以前と同じように俺の意識を浮上させる。
 重い瞼をゆっくり持ち上げれば、夢に見た事のある白の空間が再び俺を迎え入れていた。

 ボーッとする意識が次第にハッキリしてくると、俺は自分が前と同じ場所に立っている事を理解した。
 確か以前は、左右に分かれた飛石の一方を適当に選らんで夢が終わったはずだ。

 相変わらず振り返っても何も見えない世界には、俺の行く先を示す飛石があるだけ。
 しかし今回は、左右に分かれていた飛石の他に真正面の方向に飛石が出現している。
 そして俺を促すように、正面側の飛石が薄い水面に波紋を描いていた。


 以前は波紋が描かれ ていないにも関わらず進んだので、夢から覚めてしまったのだろう。
 誘われるまま波紋を描く飛石に足を進めると、先ほどまで存在していた左右の飛石は泡となって消え失せてしまった。
 波紋に従った通りに進んだ道は正しかったようだ。

「……このまま真っ直ぐ進め、って事だろうなぁ」

 どこまでも続く飛石は果てが見えず、早く進めとばかりに水音と波紋が激しくなる。
 暫く夢は覚めないと判断して、俺は深く考えず暇潰しの為に飛石の上を進み始めた。

 その足並みと同時に、次々と描かれていく波紋が妙に嬉しそうだと感じたのは何故だろう。
 白の空間は寂しい印象を抱かせるのに、心根ではそれを全く感じていない俺自身 が少し不思議だった。


 小一時間ほど飛石を渡った頃だろうか。
 一方向に並んだ飛石の他に情景を変化させる物が現れたのは。

 波紋を描く飛石の先を視線で辿ると、これまた先が見えず気の遠くなるような石の階段。
 天国にでも続いているのでは? という錯覚さえ感じさせるそれは俺の心に迷いを生じさせる。

「えぇー……、確実に筋肉痛になると思うんですけど」

 目覚めたら全身筋肉痛という悲しい事にならないよね?

 夢だとは理解しているが、そんな不安が先立って俺の口からはやる気のない言葉が出た。
 石段に足を掛けた所で夢が覚める、という予測を立てて一段登ってみたが、上手く 事は運んでくれないらしい。
 例に倣えの如く、背後を振り返ってみると綺麗サッパリ消え去っている飛石達。
 後戻りは許されず、ただ遥か上空へ続く階段を登ることだけが俺に与えられた使命だった。



 そして、ようやく石段の終わりが見えたのは更に小一時間後だった。
 角度のキツイ階段を肩で息をしながら登り切った先に広がった景色に、汗を拭うのも忘れる。

 まず赤い鳥居が視界に入り、見上げれば抜けるような青空が広がっていた。
 無風だった白の空間にはさやさやと葉が鳴る音がする。
 音を追って視線を移すと、鳥居をくぐった先の道に沿って並ぶ見事な藤棚。
 揺れる藤と葉の隙間から 陽が差し込んでおり、思いがけない柔らかさに俺は目を細めた。

 通り抜ける風が藤の上品なにおいを含んでいる。
 白以外に何も存在しなかった空間に訪れた季節の色を感じ、俺は小さく息を吐いた。

「一気に現実味が出てきたな」

 今度は大きく息を吸い込み、伸びをする。
 肺に思いっきり吸い込んだ清涼な空気が気持ち良くて、俺の顔も綻んだ。
 このまま木陰で一眠りといきたいところだが、藤棚を抜けた先に神社のような建物がある事に気付いて、緩んだ気持ちを少しだけ引き締めた。

 どうやらココは神聖な場所のようだ。
 そんな所で、いくらなんでも寝るわけにはいかない。

 鳥居に近づいて遠方 に見える神社の様子を窺ってみるが、人の居る気配はしなかった。
 果たして、この神社に足を踏み入れて良いものか。
 飛石のように波紋が行く先を示してくれているわけでもないが、石段と同じように進むしかない状態だ。

「うーん……、もう少し様子を」

 見ようかな、と続くはずだった言葉は俺の口から出る事は無かった。
 何故なら言葉途中で赤い鳥居に触れた瞬間に、現実味を帯びていた世界が一気に白の空間へ逆戻りし、その空間に留まる事さえも出来ずに意識が途切れたからだ。

 二度目の不思議な夢は、どうやら赤い鳥居に触れるという禁止事項タブーにより終わりを告げられたのだった――。






「――……またブツ切りかよ」

 むくっ、と身体を起こして呟いた言葉を耳にする者は誰も居ない。
 未練がましいことに、俺の手には鳥居に触れた感覚が残っていた。
 今日は白の空間以外の景色を見る事が出来たのだから、せめて溜息をつくのは我慢するべきなのだろうか。

 しかし何故あんな夢を見たのか。
 連日に渡って同じ夢を見る事は珍しいが全く無いとは言えない。
 たかが二日の夢なので気にする必要もないと思うが、何となく胸がモヤモヤしていた。

 この遣り切れない気持ちをどうするべきか、と寝具の上 で考えていると襖一枚挟んだ向こうの部屋から聞き慣れた声がした。
 声の主は、確認するまでもなく陽太だ。

「恭様、もうお目覚めでございますか?」
「今起きたところだ」

 寝起きだが、特に掠れていない声で陽太に返事をする。
 すると襖がスッと静かに開き、普段の装いと変わらない姿の陽太が部屋に入って来た。

 何故陽太がその部屋から入って来るのかという疑問に答えを出すなら、『従者用の部屋だから』という一言になる。
 もともと、東条の城内に設けられた部屋には、主に付くために従者や使用人が寝泊まりできる部屋が隣接しているらしい。
 全てがそうという訳ではないが、大抵は隣接した部屋が幾つか ある。
 ……と、城内の事を昨日陽太に色々教えてもらった。 

 そんな理由から、俺の部屋は陽太が寝泊まりする部屋に繋がっているのだ。

「普段の起床時間より少し早いですが、何か問題でも?」

 陽太の問い掛けに、奇妙な夢を見たと口に出して言うのは子供じみている気がして、俺は僅かに眉間に皺を寄せた。
 だが結局は、誤魔化しても陽太には簡単に見抜かれてしまうと思い直したので、正直に夢の話をする事にした。

「少し気になる夢を見たんだ」

「夢、でございますか?」

「あぁ。長い石段を上った先に、赤い鳥居と藤棚に囲まれた神社があった」

「石段の先にある赤鳥居に藤棚の神社…… 、藤見にある鏡社かがみやしろの事でしょうか」

「かがみやしろ?」

「藤見城の裏山にある、藤見の男鬼だけが入る事のできる神聖な場所です。
 本宮の内部に、巨大な鏡が祀られた社部屋があると聞いた事がありますが……。
 恭様が旅に出られて以降は参拝していないので、心残り故に夢見となったのかもしれませんね」

「鏡のある社部屋、か」

 夢の中には神社の外観だけで、そこまで詳しく見る事はできなかった。
 ただひたすら長い階段を上り見事な藤棚に囲まれた美しい場所。
 白の空間と比較して現実味があると思ったが、今思えば現実から切り離されたような感覚さえ漂っていたように感じる。

「この 件が片付いたら参拝に訪れては如何でしょうか。
 どの道、結果を報告する為に藤見の地へ一度帰省する必要があると思います。
 まぁ、暫くは東条ここに滞在する事になると思いますので、少し先になりそうですが」

 その言葉を最後に、忙しなく室内を動き始めた陽太により『鏡社』の話は終了してしまった。

 陽太によって開放された出入口から、朝の清々しい空気が室内に巡る。
 寝具に身を投じたままだった俺は名残惜しさを感じながら這い出て、ペタペタと畳の上を裸足で歩きつつ箪笥の前に移動した。

 のっそりと動く俺とは逆に、テキパキと動く陽太は僅かの時間で寝具を片付けて俺の前に構えた。
 用意された着物に相変わらず な速度で袖を通す俺を急かす事もなく、陽太は時々横から手を出しながら俺の衣装を調えてくれた。

 着替えが終われば、次は井戸に用がある。
 顔を洗う時に使用する水桶と手拭や身嗜みを整える道具の一式を持った陽太に連れられ、目的の場所に向かった。
 井戸の水を汲む事も、顔を洗ってサッパリした俺に手拭を差し出す行動も、全て陽太一人で俺の世話をする。
 それを何食わぬ顔で受け入れている俺だが、『お前どんだけ良妻なんだ』と内心で激しいツッコミを入れていた。
 昨日も同じような扱いをされたが、何故か今日はそれ以上に世話を焼かれている気がしたからだ。

 そして、花姫様と約束した辰の刻近くになるまで俺のツッコミ は止まる事がなかった。
 中でも、女中さんが用意してくれた朝餉を食べる俺の隣に居座り、しゃもじ片手にオカワリ待ちするのは勘弁して欲しかった。
 朝餉の世話をする為に控えている女中さんの目が痛くて痛くて……。

 コレ絶対、俺も同類だと思われてるよね。
 藤見主従の仲良し度が半端無い事は一目瞭然だけど、すごく恥ずかしいよねコレ。
 あと、『女中さんの仕事盗ってんじゃねーよ!』と陽太に向かって叫びたい気持ちを何とか我慢した俺を誰か褒めて下さい。

 綺麗に食べ終わった膳を見て、満足げな顔をしている陽太に『愛が重い』と呟きたくなった朝の一コマでした……。



 という風に締めくくって みたが、陽太の執拗さは朝の一コマで簡単に終わるモノではなかった。
 朝餉の後も、必要以上に俺の世話を焼きたがる陽太に我慢が出来なくなり、俺は単刀直入に質問してみた。

「陽太、今日は朝から落ちつきが無いな」
「っ、やはり恭様にはお見通しでしたか……」

 お見通しも何も、テンション高すぎてバレバレなんだよお前!
 頬を指でポリポリと掻く様子は悪戯を見破られた子供のようだ。
 しかしそんな空気はすぐに消え、次の瞬間には俺に期待の眼差しを向ける陽太が居た。
 どうやら開き直ったらしく、興奮気味に座っている位置から少し身を乗り出す陽太の目は爛々と輝いていた。

「この先は如何な る策をお考えなのですか?」
「策?」
「実はオレっ、恭様がどのようにして他の婿候補達の生き肝を抜くのか、楽しみで仕方ないのです!」

 えーっと……生き肝を抜く、ってアレだよね。
 凄い事をして人を驚かせるって意味で使われる言葉の方だよね。
 あはは。昨日、陽太の拷問好きが発覚したからエグイ方向を想像しちゃったよ。
 うん、信じてる。俺は陽太が素直で裏表のない子だと信じてるからね。

 大丈夫、子供のような笑顔に曇りはないはずだ! と自分に言い聞かせ、俺は陽太の質問の意味を考えた。
 陽太の言葉が何を示すのか、分らないほど俺は鈍感ではない。

 麻呂様……えー、名前何だっけ 。
 ま、ま、まー、そうそう、松倉殿! でも麻呂様の方が呼びやすいから麻呂様でいいや。
 昨晩の麻呂様の話で、俺以外の婿候補が結束して俺に嫌がらせを仕掛けた事を俺と陽太は知った。
 陽太は主人である俺の邪魔をした婿候補達に、俺が何らかの作戦で彼等をギャフンと言わせると思っているのだ。

 しかし残念ながら、俺は陽太の期待する策とやらを持っていない。
 そもそも、俺は策と呼べる程の作戦を考えられるほど頭が良くないし、考える気もない。
 それが相手を陥れようとするモノであるなら、尚更。

 もし俺が策を考えるとすれば、それは俺の希望を叶えるために必死になって練り出すのであって、名が付くなら『苦肉の策』と 呼ばれるモノだ。
 その苦肉の策も土壇場で生まれる最終手段であって、今の俺の手札には存在しない。

「陽太、お前の期待にそえる策など俺には無いからな。とりあえず今は、辰の刻に逢う花姫様に集中したいんだ」
「ふふっ、そちらの策も抜かり無いのですね!」

 お前、俺の話聞いてた? その耳聞こえてる? ちゃんと耳掃除してる?
 策が無いという俺の言葉を流してるけど、本当に俺の頭に策なんてモノは存在しないからね。

 もう駄目だコイツ。人の話を聞かないタイプの馬鹿は放置するに限る。
 性懲りもなく、俺が考えている策の手掛かりだけでも教えて欲しい等とほざいている陽太は完全無視の方向だ。
 楽しみだなぁと笑う陽太が少しウザ……騒がしいと思いながら、俺は陽太に答えた通り花姫様の事に集中し始めた。

 策とは呼べないが、花姫様と逢う前に少しくらい心の準備をしていても良いだろう。
 もうすぐ辰の刻だから、花姫様と逢うまでの時間は少ない。
 とにかく、失礼が無いように気を付けて話をしようと思っている。
 昨晩の月見酒の席では花姫様と仲良く話が出来たので、あのイメージを大切にしよう。
 えー……、まずは朝の挨拶をして、次に体調の事を聞いて――。

「やはり精神的に追い詰める方向で責められるのでしょうか?
 しかし最初から壊してしまうのは面白くないので保留が良いと思います。
 オレとしては人目に付き難い場所に体罰を加える事が一番お勧めですね。
 同じ男なら、自尊心が傷つけられそうな発言は控えると思いますし。
 わざわざ己が負傷した事を言いふらしたりはしませんよ。沽券に関わります。
 あ、でも豚――じゃなくて、小柄で腹部の目立つ戸館様なら分りませんね。
 話を必要以上に大きくして最終的に自滅しそうですが、警戒は必要かもしれません」

「…………」

「その点を考慮しますと、残りの婿候補である郷田様には有効ですね。
 彼は武家の出身ですので、自尊心が強く誇り高い部分もあるでしょう。
 逆に松倉様は精神的苦痛が良いと思います。体力も無さそうですし。
 まぁ、敵では無いと 公言しましたので手加減を――……恭様、どうかされましたか?」

 どうもこうも、キミの太陽のような笑顔で吐かれる毒がキツくて全然集中できないんですけど。
 お前ちょっと藤見の地に帰って、名前を毒太郎とか闇三郎とかに改名してきてくれないかな。
 確かにキラキラとした笑顔は『陽太』の名に相応しいけど、思考回路とお腹の中が真っ黒な黒助さんだよね。ススワタリ様だよね。

 だが、その心の声を正直に暴露できるほど俺は強い男ではない。
 なので俺は、首を傾げている陽太に『何でもない』という意味を込めて首を横に振った。
 それをまた都合の良い方向へ解釈した陽太は、今度こそノンストップで俺の策に対する期待を話 し始める。
 本来ならば一日の始まりとも言える今の時間には、もっと晴々した気持ちでいるものだ。
 だから、その状況に身を拘束されていた俺が、辰の刻になって俺を迎えに来てくれた女中さんに笑顔を向けてしまった事は仕方がないだろう。

 もちろん、陽太は女中さんが部屋に近づいてくる足音を耳にした頃に話を止めたが、その顔は少し不満気だった。
 まだ少し話し足りなさそうな顔をしているので、後で花姫様との逢瀬の話を聞かせてやると言えばその機嫌は瞬く間に急上昇した。
 まぁ、報告ぐらいなら俺にとっても酷な話にならないからな。
 そんな風に喜怒哀楽の激しい陽太に見送られながら、俺は大して考えをまとめる事ができない状態 のまま、花姫様の元へ向かう事になったのだった――。







 俺が寝泊まりしている本殿と呼ばれる建物と、花姫様の部屋のある奥御殿と呼ばれる建物は渡り廊下続きになっているそうだ。
 これは昨晩、月見酒の後に花姫様を運んでいる時に陽太から聞いた話だった。
 確かに、花姫様の部屋から戻る道中にそんな感じの場所を通った記憶もある。

 何故若干記憶が曖昧かと言うと、今通っている道順は昨日の帰りに通ったモノと同じだが、朝という事で全く違う景色に見えているからだ。
 辰の刻は使用人が働き出す時間でもあるのか、道中 は忙しなく動き回っている人も多く目にした。
 その効果もあってか、花姫様の部屋への道程は俺の心を軽快に弾ませていた。


 暫くして辿り着いた花姫様の部屋の前で、俺は女中さんに言われてその場で少し待つ事になった。
 どうやら俺が来た事を伝えてくれるらしく、女中さんは俺に一度頭を下げて室内へと消えた。
 そして、一分も経過しない内に中から薄小豆色の着物姿の小萩さんが出てくる。

 とりあえず、朝の挨拶だけは済ましておこうと思って俺は自分から小萩さんに声を掛けた。
 穴が開くと言ってもいいくらいに逸らせない視線が圧力をかけてくるが、それに嫌悪感はない。
 小萩さんという人を『礼儀 云々には小言が多そうだがマナーさえ守れば話が通じる人』だと勝手に分類しているからだ。


「おはようございます、小萩殿」
「おはようございます、藤見様。私などにまでご丁寧な御言葉をありがとうございます」

 小萩さんは袖で口元を一度隠し、控えめに笑って挨拶を返してくれた。
 その笑顔に俺も笑い返して、小萩さんと順調に仲良くなれている気がして嬉しくなった。

 花姫様とより親しい関係になる為には、小萩さんと千代さんの二名と親しくなる事は必須だと思う。
 欲を言えば俺に協力してくれる関係まで親しくなりたいが、それが並大抵の努力で得られるモノではないのは確かだ。

 だから最初の目標 は警戒心を解いてもらう事。
 沸点が低い千代さんは扱い方がイマイチよく分らないので行動には移さないが、小萩さんに関しては地道な努力をコツコツ続けて行こうと思っている。

 そんな風に礼儀を大切にしようと気持ちを改めている俺を、小萩さんが何か思案するような目で見ている事に気付いた。
 心を見透かされているようにも取れる眼に、焦りを覚えた俺は慌てて本来の目的を口にして小萩さんの意識を逸らす。

「花姫様のお加減はいかがでしょうか」
「姫様は未だお支度中なのですが――……藤見様、実は折入ってご相談があります」
「相談? 私にできる事なら構いませんが」
「ご安心下さいませ。藤見様でなくてはな りませんので」

 そう言った小萩さんは俺に背を向けない程度に部屋の方向へ向き直り、よく通る声で部屋の主に告げた。
 相談が何かは分らないが、どうやら部屋に入る必要があるらしい。

「姫様、藤見様がお越しですのでお通し致します」
「えっ、ま、待って小萩――……!」

 花姫様の制止の声が聞こえるが、声を掛けた本人の耳には入っていないようだった。
 部屋の出入口への道を身体で塞いでいた小萩さんは脇に逸れ、俺に部屋の中へ進むよう促してくれている。
 昨日も思ったが、年頃の女の子の部屋へ簡単に足を踏み入れて良いのだろうか。

 とは言っても、わざわざ俺に道を開いてくれた小萩さんの 意向を無視する事はできない。
 花姫様の声の件もあるので少し躊躇いながら足を進めると、室内に多くの女中さんが居る事が確認できた。

 しかし、何故か部屋の主である花姫様の姿がない。
 失礼だとは思ったが、不審を抱かれない範囲で室内に目を配らせてもらう。
 花姫様の部屋は、俺が通された部屋の他に寝室となる部屋が続く造りになっている。
 それとは別に、昨日は閉め切られていた襖が開いている事が確認できたので、そこが使用人に設けられた部屋だと推測した。

 この女中さん達は、そこから花姫様の部屋へ出入りしていたのだろう。
 部屋の中に居る女中さん達は、入って来た俺と小萩さんの姿を見るなり素早く列を成して 待機状態になった。

 女中さん達が並んだのは使用人部屋に近い一角で、仕切り塀具が置かれた場所の前だった。
 昨日は目に入らなかった塀具に疑問を抱いた俺だが、その向こうに誰か居る気配を感じた。
 恐らく、塀具の向こうに居るのは花姫様だ。

 部屋の前で小萩さんは俺に、花姫様は未だ支度途中だと言った。
 という事は、あの塀具の向こうは花姫様が身嗜みを整えるスペースだと思われる。
 支度中の女性を訪ねてしまったのは良くなかったかもしれない。
 まぁ、俺を招き入れるくらいだから、既に支度はほぼ整っていると踏んで構わないだろうが……。

 特に問題にならない範疇での状況にビクつく事はない。
 花姫 様の部屋に居るという事実にはドキドキするが、無言のままで居る方が失礼に当たると思って花姫様に声を掛ける事にした。


「おはようございます、花姫様。お身体の方は大事ございませんか?」
「おっ、おはようございます、藤見様。身体は至って健康でございますが、あの、あの……」

 仕切り塀具の向こうから花姫様の困ったような声が聞こえ、思わず笑いそうになってしまう。
 昨晩飲んだ音沁水の影響が出ていないか心配だったが、杞憂に終わったようだ。
 しかし、安心したのも束つかの間。
 何かを言い渋る花姫様に痺れを切らした小萩さんが、俺の後ろから花姫様の居る塀具へ言葉を発した。


「姫様 、時を無為に費やすよりご本人に選んで頂く方が宜しいかと」

「で、でも心の準備が……!」

「藤見様、ご迷惑でなければ花姫様の打掛を選んで頂けますでしょうか」


 うちかけ? 何ですかそれ。
 完全に置いてけぼりな俺に、専門用語を理解するのは難しいのですが。
 まぁ、会話を聞いていて『身につける物』だと推測できたけど、物体が何かは不明のままだ。

 そして花姫様の訴えは無視ですか小萩さん。
 塀具が花姫様の拒絶によってカタカタと揺れているが、敢えて無視ですか。
 並んだ女中さん達が必死に笑いを堪えているから問題ないと思うけどさ。

 そんな俺の心のツッコミが小萩さんに届く はずもなく。
 パンッ、と小萩さんが手を打ち鳴らした音が室内に響き、それを合図に並んでいた女中さん達が動き始めた。
 訓練されたような反応に感心していた俺だが、道案内をしてくれた女中さんに声を掛けられて塀具と距離を取った場所に、向かい合った形で座るように言われた。


 暫く傍観していた俺だが、自分の前に女中さん達が並び始めた事で緊張せざるを得なくなってしまう。
 使用人部屋に姿を消した女中さん達は、一人一着ずつ着物を持っている。
 一度姿を消していた小萩さんが再び現れたと思ったら、その後を追うようにして着物を掛けるハンガーのような物が使用人部屋から出て来た。

「お気に召した打掛がございました ら仰って下さい。衣紋掛けに一度通して、再度ご確認頂きたいと思います」

 あー、打掛って裾の長い着物の事か。
 なるほど、それを俺に選んで欲しいって事なんだ。
 昨日の花姫様も着てたもんね。現在進行形で小萩さんも着てるし女中さんの中にも何人か……。

 女中さんの手によって試しに着物ハンガー……衣紋掛けに通された打掛を見て、ようやく小萩さんの言っていた『相談』が理解できた。
 ウンウンと頷く俺を見て、小萩さんは並んだ女中さんを順番に俺の前に出させて打掛を見せてくれる。


 最初は沢山の着物を目にする機会に恵まれてノリ気だった俺だが、心境の変化はすぐにやって 来た。
 派手な刺繍が施されたものからシンプルな物まで種類は多くあるが、急に選べと言われても良い判断をする事ができなかったからだ。
 入れ変わり立ち変わりの女中さん達は、俺の顔色を窺っては落胆の息を漏らし元の位置へ戻っていく状態だ。

 更に申し訳ない事に、女中さんには悪いが出てくる打掛の色は花姫様のイメージとは少し違っていた。
 数が多いわりには、何故か薄い紫や落ちついた青系統のモノがよく出てくるのだ。
 花姫様ならどんな色でも似合うと思うが、選ぶ立場の俺はもっと可愛らしい色が見たい。

 そこで、昨日、花姫様を待っている間に聞いた話を思い出した。
 確か花姫様は桜色が好きだったはずだ。思い返して みると花姫様にピッタリな色だと感じる。

 美しさの中に幼さを残す花姫様は、無理に背伸びをするより今一番輝く姿でいてほしい。
 そう思うや否や、俺は次の打掛を見せようとした女中さんに、片手を上げる事で制止をかけた。

 困った風に眉を下げる女中さんと、周りの視線が俺に突き刺さる。
 それに応える権利を持つ俺の視線が向かうのは、女中さん達が出入りしていた使用人部屋だ。
 開け放たれた先には、紫や青の着物とは別の色合いをした着物も置かれていた。

 中でも、比較的奥にある衣紋掛けに通された桜色の可愛らしい打掛が俺の目を惹く。
 遠目で見ているだけなのに、あの打掛以外は選びたくないと思った。

「――……あちらの、桜色のモノが宜しいかと」

 掌を上に向けて、使用人部屋の奥にある打掛を指す。
 俺の制止を受けて困惑していた女中さんだが、希望通り桜色の打掛を持って来てくれた。
 元から衣紋掛けに通された状態なので、わざわざ俺の前にあるそれに通さなくても見る事ができる。

 間近で目にした打掛は、片方の肩袖と裾に散らされた小花と露芝が可愛らしいモノだった。
 遠目で模様までは見えなかったが、思った以上の品物に満足して俺は何度も頷いた。
 そんな俺の反応によって、小萩さんの『相談』は桜色の打掛が選択された事で終了したのだった――。


 打掛 選びには随分と時間が掛かってしまったが、選び終わってからは早かった。
 落ちついた色の打掛を手にしていた女中さん達は使用人部屋に戻り、俺が選んだ打掛を持った女中さんと他の数人だけが、花姫様の居る塀具の向こうへ姿を隠した。

 襖が閉められた使用人部屋からも、塀具の向こうからも、布の擦れる音が聞こえる。
 前者は片付けの最中に生じた音で、後者は花姫様が打掛を召されている音だろう。
 しかし、どちらの方向からも弾んだような声での会話が交わされていた。

 その会話をできるだけ耳に入れないよう気を付けながら、俺は花姫様の支度が終わるのを待った。
 手持無沙汰だった俺に気を遣ってくれたのか、小萩さんは俺に暖かい 茶を煎れてくれた。
 恐れ多くも、小萩さんが近くに座って話し相手になってくれるという特典付きで、だ。

「何故、あの色を選ばれたのですか?」
「単純に、あの打掛を召された花姫様にお逢いしたかったから、でしょうか」

 小萩さんの質問に、俺は正直に答えた。
 あの打掛が花姫様に似合うと思ったのは事実だし、別にそう思った事を隠す必要もない。
 確かに他の打掛も綺麗だったが、あの打掛に敵わないと思ったのも本心からだった。

「他の打掛は、藤見様のお気に召されなかったのでしょうか」
「いいえ。ただ、然るべき時期に召して頂いた方が良いと思いましたので」
「――……」

 まだまだ若者らしい色が似合う花姫様に、落ちついた色は少し大人の領域な気がした。
 実際に袖を通してみれば印象が変わるかもしれないが、今の俺は花姫様が好きな色を纏い、一番綺麗に見えると思った姿を目にしてみたいのだ。


「選ばなかった物が似合わないとは思っていません。ですが、あの桜色の打掛ほど今の花姫様を引き立てる事はできないと思います」
「……藤見様は、誠に花姫様を良く見て下さってますね」

 好きな人には自然と目が向いてしまうものですよ、小萩さん。
 思わず零れそうになった言葉を俺は喉の奥に留めた。
 ホホホ、と上品に小萩さんが笑ったのと同じタイミングで、花姫様との隔た りだった塀具が片され始めたからだ。

 俺の視界に入ったのは、先ほど俺が選んだ打掛を着て、髪の一部を左へ流れるようにして結い上げた花姫様。
 隠れていた耳と首筋が露わになり、何とも言えない色気が漂って見えた。
 昨日見せてくれたような笑顔は浮かんでいないが、初対面時の冷たい感情も感じられない。
 むしろ、頬を微かに染めている姿は、俺の反応を待ってくれているのだと誤解してしまいそうになった。

「――可愛い」
「えっ?」

 こういう時、絶世の美女だ何だと称賛する言葉を口にするべきなのだろう。
 しかし、咄嗟に賛辞の言葉が思い付かない俺には『可愛い』以外 の言葉が出てこない。

 溢れる感情に押され、思わず立ち上がってしまった俺は花姫様との間にあった数歩分の距離を埋めながら足を進めた。
 手を伸ばせば触れられる位置まで近づいて足を止めると、昨日も感じた花姫様の甘い香りが鼻を擽った。

「桜色の打掛も、結い上げた髪も、よくお似合いです。本当に可愛らしい……」

 綺麗だと思うし、美しいとも思う。
 だけどそれ以上に、花姫様は俺にとって愛らしくて可愛いのだ。
 だから簡単な言葉しか頭に浮かばないくせに、幸せいっぱいの気持ちを伝えたいと必死になってしまう。

「朝からとても幸せな気分になりました。今日は良い一日になりそうです」

 そして、そんな幸せな思いの裏に歪んだ気持ちがあるのも事実だった。
 花姫様の何もかもを独り占めしたいと、胸が軋む。
 こんな姿を他の誰かが目にするかもしれないと思うと、あからさまな嫉妬心が俺を支配した。

 幸いにも花姫様は気付いてはいないけれど。
 その小柄だがしなやかな身体を腕の中に閉じ込め、甘い香りのする髪に顔を埋めたいと思う。
 現状では決して実現する事のない願いを想像しただけで、ささくれ立った気持ちが少しずつだが確実に癒されていく。


「藤見様、ありがとうございます……。この打掛の色はとても好きなので、選んで頂けて嬉しく思います」

 俺の言葉を受けて感謝を述べ ながら笑う花姫様に、知っていました、なんて野暮な事は言わない。
 その気はなくとも選ぶのに手を抜いたという事へ繋がるかもしれないし、花姫様の好きな物を思って選んだ自分自身が今更になって気恥ずかしく思えてきた。

 だけど、その前知識がなくても俺は桜色の打掛を選ぶ自信がある。
 そして胸を張って言える。その打掛は、あの中で花姫様に一番似合う物だと。 

 幸せは人に伝わると言う。
 俺が感じている幸せが花姫様に伝わって、花姫様も幸せを感じてくれたら良いと思った。
 そんな風に互いの幸せを共有できる時間が実現され、長く続いて欲しいと思う。

 ――が残念な事に、俺の希望も虚しくその空気は長続きせず 、花姫様が俺に対して申し訳なさそうに眉を下げた事で、話が別の方向へ逸れ始めた。

「ですが、お待たせして申し訳ありません……」
「大丈夫ですよ。待つというほど時間が経ったわけではありません」
「ほ、本当にお気を悪くされていませんか?」
「何故そう思われるのですか?」
「――昨日の事もありますのに、今もこうしてお待ち頂きましたので……」

 わ、まだ気にしてたんだ、花姫様。
 昨日の件は謝ってもらったし、麻呂様の話から花姫様に非がない事も聞いた。
 だから今更その話題を出されても、気にしていないと言う以外は簡単に思い浮かばないんだよねぇ。

 よもや、今になってその 話題をぶり返されるとは思っていなくて、俺は時間差攻撃に慌てた。
 肩を落として落ち込み始める花姫様に何と声を掛ければ良いのかと、俺は必死に思考を巡らせる。
 考えるのは、花姫様を待っていた昨日の自分の事だ。

 待ち時間や約束が実現できなかった時は酷く落ち込んだけど、それでも花姫様を好きだという自分を改めて確認できた。
 それ故に、昨日の夜に花姫様と逢えた時の喜びは格別な物になったのだ。
 今は、その待ち時間があったから前以上に花姫様を想えるのだとさえ感じていた。

 その気持ちを正直に話すのは恥ずかしいが、今後も花姫様がこの件を気にするよりマシだ。
 だから俺は、しょぼんと肩を落としている花姫様の 名をハッキリと呼んで意識を俺に集中してもらった。

「花姫様、待っている間の時間も己の気持ちを知る良い機会なのですよ」

「機会ですか?」

「待つという事は、相手が現れる瞬間が嬉しくて心に希望が溢れるものです。
 例えそれが待ちぼうけだとしても、感じた切なさが逆に自分の気持ちを語ってくれます」

 照れていたかと思えば、次には笑い、その次には怯えて瞳を濡らし、そして今はあどけない表情で警戒心の全くない目を向けてくる。
 その先には必ず俺が居るという共通した事実が、俺の心を軽快に弾ませた。

「それがどれほど相手を待っているか知らしめてくれるでしょう。
 悲しく思っている自分が 居るなら、それだけ執着や愛情を持っている……と言えば分り易いでしょうか」

 泣かせたいわけではないけれど、可愛いから泣かせたくなる。
 ずっと笑っていて欲しいと思うけれど、愛しいから独り占めしたい。
 笑った顔も。泣いた顔も。本当は誰にも見せたくない。
 大切にしたい。でも俺の我侭で花姫様を縛ってしまいたい。

 こんな風に、愛らしい花姫様が俺をちっぽけな男に変えてしまうのだ。
 責任転嫁でゴメン、花姫様。こんな言い方はズルイと俺自身がそう思う。
 それでも俺はこの先何度同じ事を考えたとしても、きっと反省なんてしないだろう。

「私にとって花姫様をお待ちしていた時間は、そんな意味が あったのです」

 俺は俺で、花姫様には言えない想いを抱えて酷く残忍になる事もある。
 そんな考えを、俺は自分自身で嘲笑ってしまうけど……反省や後悔はしない。
 その先で俺に見えているモノは、花姫様の手を握っている俺の姿なのだから。

 だから気にしないで欲しい。
 悔やむより、俺と同じように俺との未来を考えて欲しいのだ。


 これで納得してくれたかな? と思い、俺は花姫様の反応を待った。
 しかし、花姫様から告げられた意外にも大胆な言葉に、俺の思考回路が一瞬停止してしまった。

「も、もう少し、お傍に行っても宜しいですか……?」

 俺達の間には、手を伸ばすだけ で触れ合える距離しかない。
 それを更に縮めたいという花姫様の言葉は、俺の理性にダメージを与えるには十分なモノだ。
 訪ねておいて、俺の返事を待たずに距離を縮めてくる花姫様に効果も倍増。

 今の俺達は、傍から見れば互いに寄り添っているように見えるはずだ。
 小萩さんと花姫様の支度を手伝っていた女中さん数人の視線が、俺に注がれている事も分かっている。

 俺は自分の取るべき最善の行動を選択すべく、脳内で必死にライフカードを広げた。
 五枚ある手札の内容は『突き離す』『肩を抱く』『腰に手を回す』『抱きしめる』『逃げ出す』の五択だ。

 何この選び放題! と一瞬喜んだが、かなり偏った選択である事に俺は 気付いた。
 極論を言ってしまえば、このライフカードは拒絶するかボディタッチ含で受け入れるか、だ。
 抱きしめる、のカードなんて俺にとっては最高だが、この視線の中でそれを実行する勇気を俺は持ち合わせていない。

 拒絶関係のカードなど、以ての外だ。
 そのカードを選んだ瞬間に、俺と花姫様の関係に終止符が打たれて般若と化した小萩さんに追い出されるに決まっている。
 そうやって散々悩んだ結果、俺が選択したのは『腰に手を回す』のカードだった。

 そのカードに行き着いた理由は簡単だ。
 まず、花姫様と進展した関係を望む俺に拒絶関係のカードは選択対象外になる。
 次に除外されるのは『抱きしめる』だ。これは俺 のチキンな心臓に掛かる負荷を考慮しての結果。
 そして残る二択で『さり気なく触りつつ他の行動に切り返し可能』な事を考えて最終的に『腰に手を回す』となったわけだ。

 その体勢なら花姫様の表情を窺いながら周りの反応に気を配る事もできる。
 肩を抱く体勢では横目で花姫様を見る事になり、他の行動に移り難い。
 つまり、ライフカードでの選択と言いつつも、答えは最初から決まっていたようなものだ。

 悩んだ時間は数秒かもしれないし、数分かもしれない。
 だが、結論を出した俺はついに意を決して、寄り添っている花姫様の細い腰に自分の手を回した。
 更に近くなる距離感が花姫様に対する愛しさを募らせて、先ほどまで躊躇 っていた俺を少しだけ勇敢にする。

 そっと抱え込むように体勢を傾ける事で、胸に花姫様を抱いているような感覚になった。
 実際には俺達の間に僅かな隙間があり、密着しているとは言い難い状態だが見目は同じようなものだ。
 そして、回された腕に応じるように花姫様も身体を預け、少し首を傾げて俺を見上げてくる。
 その表情は戸惑いや恐れではなく、何かを俺に熱望しているそれだ。
 そんな花姫様を見て、睫毛の先が僅かに震えているとか、髪がやけに柔らかそうだとか、初心な振る舞いに俺の心が掻き乱されるのは当然だと言える。

 ……ぬわあぁぁっ、ヤバイ! 何がヤバイって俺の理性がヤバイ!
 今俺の中で、狼になりそ うな俺を支援している本能軍と、人目や恋愛の段階を重視する理性軍が壮絶な戦いを繰り広げている。
 ぶっちゃけ優勢なのは本能軍だ。頑張れ、俺の理性軍! ログアウトしそうな俺の意識を引き止めてくれ!

 もし本能軍が勝利したら、狼な俺が花姫様の同意を得ずにブチュっと一発ヤッてしまいそうです。
 でも同意が得られれば理性軍は存在しなかった物として扱って、ディープなのヤッちゃいそうです。
 結局何が言いたいのかを暴露してしまえば、好きな人と至近距離でいたらキスしたくなっちゃうという事ですよ!

 と に か く !
 決死のライフカード選択もハードルが高かったという事にして、俺は花姫様から少し離れる為に再び思 考を巡らせ始めた。
 でないと、未だ劣勢のまま交戦中の理性軍が大敗してしまいそうなのだ。


「藤見様」

 そんな俺を腕の中の花姫様は察してくれたのだろうか。
 俺があれこれと考えている最中に、天の助けとも思える提案を持ちかけてくれた。

「もし宜しければ、奥御殿の中庭にご一緒して下さいませんか?」

 その言葉は、散歩の誘いだと受け取れた。
 昨晩花姫様と月見酒をしたのは本殿の中庭だった。
 散歩の場所として、花姫様の部屋がある奥御殿の中庭に行くのは自然かもしれない。

 何はともあれ、この近すぎる距離を脱する事が出来るので、俺は花姫様に二つ 返事で頷いた。
 次いで、悟られないように息を吐く。
 そうした事で熱に浮かされていた頭が冷え、中庭に向かうという行動を昨晩の風景と重ねて考えれる程に落ちついた。

 確か昨晩は中庭までの道程を花姫様の手を引いて歩いたはずだ。
 前例があるので簡単に手を繋ぐ事が出来ると考えた俺は、手を繋いだ後に自然な流れを装って花姫様の腰から手を放そうと目論んだ。

 それでいて、あわよくば繋いだ手は恋人繋ぎにしようと考えながら――。


 だが、またしてもここで予想外な事が俺と花姫様の間に起こった。
 差し出した俺の手を、昨晩は少し照れながらも取ってくれた花姫様が、今日は何 故かひどく躊躇っているようだ。
 チラチラと俺の顔を何度も上目遣いで見て、細くて綺麗な手を宙に彷徨わす。
 周りの目が気になるのかもしれない、と思って手を下げようとした所に……ゆっくりと花姫様が手を伸ばしてきた。

 軽く指先が触れ、そのまま待つ事暫し。
 ふわりと花姫様の甘い香りが鼻をくすぐった直後、遠慮がちに薬指と小指だけが握られた。
 重ねるのでもなく、指同士を絡めて繋ぐのでもなく、俺の薬指と小指だけを、握ったのだ。

 ヤバイ、キュン死しそうだ。
 きゅっ、と微かに込められた小さな手に尋常じゃないくらい心臓が煩く反応している。
 ヘタに手を繋ぐよりコッチの方が何倍も恥ずかしいし、と きめき度が半端ない。
 先ほどとは打って変わって、俺の心の純真な部分がキュンキュン言ってる。

 今日は恋人繋ぎできるかなー、とか考えていた数分前の自分をぶん殴りたい気分だ。
 もうホント滅べよ数分前の俺。調子乗ってんじゃねーよ馬鹿。花姫様の行動に胸キュンしてる今の俺に土下座しろ。

 一瞬、これは花姫様の作戦なのでは? とも考えた俺だが、即座にその考えを否定した。
 この状況の全てが恐らく初めての体験であろう花姫様が、そこまで打算的な行動を取るはずがない。
 その証拠に、花姫様から伝わる反応という反応の何もかもが初々しくて可愛らしい。
 少しでも気を緩めれば、俺の理性が呆気なく崩壊してしまい そうな程に強力だ。

 無意識というのは罪だ。
 それはもう、打算からの言動よりも遥かに重い大罪。
 想像を絶する破壊力に屈しそうになり、俺は何とか残り少ない理性を総動員させて気丈さを顔に表した。

 が、それは花姫様の発言により、呆気なく散らされてしまう事になった。

「あ、改めて、自分から藤見様に触れるのは、とても恥ずかしいものですね……」
「っ……!」

 ――藤見恭の理性軍は本能軍に壊滅させられました。
 そんなナレーションが俺の頭の中に響いた気がした。
 要約すると、俺の残り少なかった理性で行った抵抗なんて一瞬で吹き飛んでしまったという事ですよ。
 先ほ どは自ら俺の傍に来たいと言っておいて、この場面でまさかの純真ピュアモード突入だ。
 好きな人のこんな姿を見て、こんな言葉を聞いて、ここで心臓を射抜かれない男が居るだろうか。

 花姫様には悪いが、もう我慢できそうにない。
 さすがに口にヤッちゃうのはマズイから、とりあえず力いっぱい抱きしめても良いかな。

 幸いにも俺の手は花姫様の腰に回ったままなので、このまま掻き抱く事が可能。
 ついでに言えば残りの手も花姫様と繋いでいる状態だから、正面から抱きあう事も思いのままだ。


 もはや踏み止まるには理性が足りない。
 そう思いながら本能に従って俺が行動しようとした、――その瞬間。< br>


 バキィッ! ドサドサドサッ……!

「きゃぁっ!」
「い、痛たたた……」
「ちょっと、だから押さないでって言ったじゃないのっ」
「だって後ろからでは見えなかったのですもの!」
「見えないなら聞き耳を立てるだけで良いでしょう!? 無理に花姫様と藤見様を覗こうとするからこんな事に――……あ」

 何と驚いた事に、使用人部屋の襖が大音を立てて壊れ、中から折り重なるようにして数人の女中さん達が転がり出てきたではないか。

 襖が壊れた事で言い争いをする女中さん達だが、花姫様の部屋に居た面々の注目を浴びている事に気付いて、皆顔を青くしていた。
 ち なみに、折り重なっている女中さん達の一番下は千代さんで、一番上は俺を部屋に案内してくれた人だ。

 まぁ、アレだ。
 使用人部屋からゴシップ好きの女中さん達が覗いてたって事だ。
 襖に張り付いて覗き見や聞き耳を立てていたので、重さに耐えきれなくなった襖が壊れたという状況だろう。
 良く見れば、部屋から飛び出してはいないものの壊れた襖付近には他の女中さん達も居る。

「こ、こんなに大勢で……!?」
「姫様、確かにこの者達の行動は決して褒められた事ではありません。ですが、人目を気にされるならば姫様も今後は逢瀬の場はもう少し選んで下さいませ」
「え? 皆が部屋を覗いている事を、小萩は 知っていたの?」
「女中部屋からの話し声が筒抜けでございましたので。気付いていらっしゃらなかったのは、花姫様だけでございますよ」
「わたしだけ……? ――も、もうっ!」

 ぷりぷりと怒る花姫様と、花姫様に注意をしながらも冷やかな目をして女中さん達を見る小萩さん。
 女中部屋から襖を倒して重なり合っている女中さん達は、まさに四面楚歌だ。
 花姫様の怒りは小萩さんにも向いているようだが、小萩さんに気にした素振りはない。

 それよりも花姫様、『もうっ!』とか超可愛いんですけど。
 怒られている女中さん達には悪いけど、俺も言われてみたい。

 一日の内に何度も可愛らしい姿 を見せてくれる花姫様だが、実は襖が壊れた拍子に驚いて俺から少し距離を取ってしまったので、俺の腕の中にはいなかった。

 腰に回していた手や、繋がっていた手に感じていた温もりは既にない。
 軽くなってしまった腕が、なんだか酷く虚しいと感じる。
 その想いを隠す為に、俺は花姫様と繋いでいた手を開閉した。

 何度かその動作を繰り返した後、常の癖で腕を組む。
 次いで無意識に顎に手をあて、俺は花姫様に視線を投げた。

 特段、向けた視線に意味を含ませたつもりは無かったのだが、ちょうど落ちついて俺に視線を戻した花姫様の黒い瞳とかち合った。

 そして、あっと声を上げ自分の手を見 る花姫様。
 先ほどまで握っていた俺の手の存在を思い出したのか、視線は物言いたげに俺の手へ注がれた。
 頬を紅潮させた状態で、残念そうに肩を落とす様さえもが愛おしい。
 俺と同じで、手が離れてしまった事を寂しいと感じてくれたのかもしれない。
 それがまた酷く心地好いもので、掻き立てられる想いに俺は堪らず喉を鳴らした。

 空いていた距離を縮める事で口を開こうとしていた花姫様を遮れば、俺に不安そうな視線を投げかけてくる。
 手を放してしまったので俺が気を悪くしたのではないか、と思っているのだろう。
 だから俺はその不安を拭い去る為に、今度は簡単に放れてしまわないよう花姫様の手へ自らのそれを伸ばした。
 強引な行動は、動作の中に優しさを含ませる事でフォローする事を心がけた。

 花姫様の手を取り、小さな拳を作っている手を緩ませ、指の腹を撫でながら己のそれと優しく重ね合わせる。
 一回り小さい花姫様の掌は、まるで壊れ物のような脆く繊細な印象を俺に抱かせた。
 一本一本の指をしっかりと絡めてから改めて顔を覗き込むと、お互いの視線が交わった。

 瞬間、花姫様から慌てて逸らされる目線。
 羞恥を堪えるようにして、ぎゅっと強まった手の力に少しだけ反応してしまう。
 それが起こった原因が自分だと気付いた花姫様は、また慌てて握りしめていた手の力を抜いた。
 それでも先ほどの二の舞になるのは拒んで くれるらしく、抜けた力が徐々に丁度良い強さに調整し直された。

 まったく、行動が一々可愛らしくて仕方が無い。

 動揺してあたふたとする花姫様に、俺の心は穏やかなものだった。
 色付く唇を小さく震わせて頬を染めていく様子が愛しくて、思わずギュッと握り返してしまう。
 感じる温もりは求めていたモノで、心も躯も支配するような香りに、確実に近づけているのだと安心した。

「中庭に参りましょう、花姫様。貴女と過ごす時間を僅かでも逃したくはありません」

 俺の言葉に目を張り、次の瞬間に誰もを魅了する美しい笑みを浮かべた花姫様。
 その笑顔を誰にも見せたくないと、何度も何度も思ったけれ ど。
 それを作り出せるのが俺であるならば、ずっとずっと笑っていて欲しい。

 そんな事を思いながら、俺は花姫様の手を引き、逢瀬の時間を延ばすために部屋の出入口へ足を向けた。
 どうやら、俺と花姫様の逢瀬は互いが許しあえる時間の分だけ続くようだった――。
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