へっぽこ鬼日記 幕間十
幕間十 花姫視点
部屋から出た廊下から見える景色は、植栽の緑と空の青。
ひらり、ひらりと空の青に一枚の葉が揺れる。
流れるように右へ、操られては左へ。風に遊ばれては再び舞い上がり前後に動く。
それが自然だと思って見ていれば、今度は思わぬ方向に翻り、思わず瞠目する。
近づくそれをひたすら見つめ掴むべく自分の手を伸ばすけれど、触れる事を許さないとでも告げるように。それは揺れる方向を変えて逃げ、わたしの足元に落ちた。
その光景は今日一日の行く末を示しているのではないかと思って、慌てて葉を拾い上げた。
気に入られたい、好きになってもらいたい。
誰にと問われれば、それはもちろん藤見様に……。
しかし、いくらそう願っても逢瀬まで時間のある今ですら緊張している自分に、それを叶えられるとは思えなかった。
自覚したばかりの恋心で、何をどうすれば藤見様の心を射止められるのか全くわからない。
惹かれ合う男女の心が育つ様に焦がれながら、何度も何度も読み返した恋物語。だけど、憧れるだけで物語を客観的に見ていたわたしは、その感情を理解する事はできなくて。
年頃の侍女の話で、恋仲となった後には片恋だった時とは違う世界が広がっていると聞いても、胸の内にストンと降りてくるものは無かった。
それを今になって、もっと深く考え質問しておけば良かったと酷く後悔している。
せめて満足してくれるよう、できる精一杯の事をしたいと思うのに……それすらも思い付かない。
顔合わせの席で飾り立てしない言葉で本音を語った藤見様の姿に胸が高鳴った。
その時の事を思い返すだけで、同じように左の胸の奥がトクンと暖かな音を立てる。
次第にそこが恥ずかしいくらいに早鐘を打ち始めたのは、止めどなく溢れてくる想いのせい。
想う心が膨れ上がって必死になるばかり。
一握の希望もなければ、心がこれほどの迷いを生み出さず期待することも無いのに。
顔合わせの席での真剣な言葉や眼差し、そして文の返事に添えられた『かすみ草』。
それらを意識せずにはいられなくて、誤魔化しようのない事実に軽く落ち込んだ。
泣きたくなるほど切なく、時折痛みも伴わせるけれど。何故か感じる喜びで心が満たされた。
この胸の痛みも喜びも初めて与えられたもので、彼が東条の地にいるから継続されている。
「姫様、そろそろお時間です」
わたしの名を呼びながら近寄ってくる小萩に、視線を手に入れた緑から移す。
小萩の後ろには逢瀬の場に同席する侍女二名と、送り出すために並び立った他の侍女達。
その中に千代の姿が見えないのは、きっと天上番をしてくれているから。
千代が侍女の姿でわたしの傍で控えるのと、天上番として潜む割合は五分と五分。
幼い頃は常にわたしの身を護ると意気込んでいたけど、歳を重ねるに連れて忍の技術を磨く事に打ち込み、口調も畏まった物に変わってしまった。
それを少しだけ寂しいと思った事もある。でも、千代がわたしの護衛を担いながらも傍にいてくれる事が嬉しくて、千代には大切な友人として接した。
そんな千代だからこそ、共に想い人の話をしてみたいと思う。
今まで話が出来なかったのは、わたしに想い人を作る余裕が無かったのが主な要因だけど、思い返せば千代はそういう話に消極的だった気がする。
侍女達との話が色恋の方向へ進むと、必ずと言っていいほど話題をすり替えるか席を外していた。
千代ってば照れ屋さんなのね、と毎回見送っていたけれど、藤見様のことは一番の友人である千代に相談に乗って欲しい。
こうして移動している間でも、わたしが取るべき行動の助言を求める事が出来たかもしれないのに。
唸りたいのを我慢して辰の刻に松倉様と逢う予定の茶室へ向かう。
松倉様、戸館様、郷田様の順で一刻ずつ逢う予定のお三方は本殿の茶室を侍女に頼んで用意してもらった。
続けて同じ場所で逢う方が時間を短縮できる上に、次の逢瀬の待ち人が居ると分かれば交わす言葉も要点をついた物になるから。
でも藤見様だけは別の場所で長い時間を共に過ごして頂けるよう、奥御殿のわたしの茶室への案内を侍女にお願いした。
贔屓してしまったのは、わたしが藤見様に想いを寄せているという単純な理由。
本来ならば、公平に『東鬼の長』を判断しなくてはならない。
婿を取るために候補者を招集すると聞かされた時も、東鬼の未来を預ける事ができる男鬼を選ぶつもりだった。
それに、何の運命なのか。婿候補に残った者は東鬼の中でも名家中の名家出身の者ばかりだった。
妻や婚約者のいない名家の男鬼を対象としたと聞いていたけれど、候補者として絞られたのは次世代を担う事を有望視された男鬼達。
松倉様は、学べる物は何でも吸収し、興味のある事は納得できるまで研究するという風変わりな面を持つけれど、ここ数年で薬草学や農業に著しい進歩を及ぼした方。
執務を行えば速度も完成度も右に出る物は存在せず、誰もが認める松倉家次期当主。
戸館様は次男であるが故に少し横暴な面がある方だけど、商才は既に家督を継いでいる長子よりも優れていると噂される方。
難になる部分が見受けられるけれど、成長過程として受け取って周りは有望視している。
郷田様は分家の生まれにも関わらず、本家を凌ぐほど武術に秀でた方。
郷田家の名を聞けば、誰もが彼の事を開口一番に訪ねるほど名が広まっている。
そして――……東条より南の地一帯を治める藤見家。
戦鬼として歴史に名を残し、物語としても子供が親に聞かされる時に耳にする憧れの存在。
しかし家督に感心なく育った事と、旅による五年間の空白が藤見様に対する不審を抱かせていた。
たったそれだけの情報で、心を凍らせて望んだ顔合わせの席。
お父様に紹介された後、我先にと口を開く婿候補の方々の言葉や贈り物を目にして、『東鬼の姫』と言う肩書きに醜い思惑が絡んでくるのだと改めて理解した。
そんな中まったく口を開かない藤見様を、卑屈になっていたわたしは他の婿候補の方々と同じだと思っていた。
もちろん、その感情は藤見様の『藤見の鬼』らしい態度で覆されて今に至るのだけれども。
でも、藤見様を選んだからといって簡単に全てが問題なく運ぶわけではないのが『東鬼の姫』の宿命。
東条の血を持たない婿は、東条の名をわたしと共に背負う資格があるのかを多くの者に問われる事となる。
東条の当主として、東鬼の長を務めるのに足りた者か。
外に流れる噂も当然ながら、直に接した時の内面や知識、思考、経験、そして覚悟。
すべてにおいて、東条の臣下――特に老臣が認める者でなければ婿を名乗る事を許されない。
既に東条の臣下が婿候補達を見定めているけれど、それは始まりに過ぎず時間が経つ度に名の重さを知るだろう。
一筋縄ではいかない『婿選び』に生じている負の部分を想像して、ドクンと心臓が反応した。
婿を選んだとしても周りの容赦ない審査がその者への重荷となる。
そんな苦い思いをさせたくない、と婿を選ばなければ……恐らく、老臣達が筆頭になって世帯持ちの男鬼を婿に『引き抜く』だろう。
既に愛すべき家族と各々の幸せ築き上げている者達を侵略でも『東鬼の長』を求めなくてはならない。
それは夫に愛されない事を覚悟しているわたしにとっても辛く、わたしの比ではないくらい家族には申し訳ない話だった。
だから、余計に未婚の男鬼を対象とした席をお父様は設けて下さった。
たった一度の機会で、運命を共にしてくれる男鬼を得るには限り無く低い可能性の場だけれど、それを活かすも殺すもわたし次第。
正直なことを言えば、既に誰を婿に選ぶか……答えは既に決まっている。
けれど、わたしが抱える問題を藤見様が背負って下さるかどうかは確認できていない。
それに、わたしが一方的に想っているだけの状態で、藤見様の気持ちを確認しないまま結論を出す事を彼は好まないだろう。
考えても考えても、迷いが生じて自分の最良の行動が分からない。
わたしと共に東鬼の地を守って欲しいと言えば良いのか。己の役割を二の次にして心のまま想いを伝えれば良いのか。
強制的に決断を下す権限を持っているけれど、それではきっと彼に良く思われない。
迷えど迷えど『東鬼の姫』という宿命を呪いたくなるばかり。
出口の見えない思考の先に浮かぶのは、告げるべき言葉の選択を誤ったわたしに眉根を寄せて見限る言葉を発する藤見様だった。
「……ま? ……様、――……か? 姫様!!」
「――っ、なに?」
小萩の強い呼び声に驚いて、ハッとしたように顔を上げる。
よほど考え込んでしまっていたらしく、苦い顔をした小萩を見て肝を冷やした。
「――私の話を聞いていらっしゃいましたか?」
「えっ、えぇ、もちろん聞いて、」
「この小萩に嘘が通じるとお思いでございますか?」
「ご、ごめんなさい、考え事をしていたから……」
咄嗟についた嘘を簡単に見破られて、謝りながら肩を竦める。
小萩の怒りに触れて立つ瀬がないわたしだけど、何故か後ろの侍女二名はクスクスと笑っている。
助け手を求めるて目配せをすると、いっそう笑みを深めて口を開いてくれた。
「姫様ったら、小萩様は何度も姫様をお呼びでしたわ」
「心ここに在らずといったご様子でしたが、一体何をお考えでしたのですか?」
「……もしや藤見様の事を?」
「なるほど、恋仲になるかもしれない殿方の事をお考えになるのは、当然でございますもの!」
「こ、恋仲?」
「はい! あっ、でも姫様の場合は将来が約束されますので婚約者に――……」
侍女の話は的外れだったけど、負の方向に向かっていた思考を変えるには最適な話題だった。
『東条の長』という問題ばかりに気を取られていたけれど、恋仲になった時も苦労するのでは、という考えがわたしの中に浮かぶ。
それに加え、そもそも恋仲になった男女はどんな感じなのかしら……とも。
茶室へ向かう足取りを少し遅くして、脳裏にわたしが思い描く恋仲の姿を浮かべてみる。
まず、名前で呼び合うのは当然よね?
わたしは藤見様のことを、きょ、『恭様』とお呼びして、藤見様はわたしの事を『花』と呼び捨てに……やだ恥ずかしい!
でも周りの目もあるから、藤見様がわたしの名を呼び捨てにする事は難しいかもしれないわ。
小萩に早く藤見様の名前を呼べるようになりなさいと言われたから、わたしが呼ぶ分には別に恋仲でなくても可能よね?
わ、わたしが少し変わるだけで親しく見えるはずよね。上手くいけば恋仲に見えるかも……!
それと、ひ、膝枕は絶対に外せないわね。
これも恋仲になっていなくても出来る事だから、想像の中で練習をしておこうかしら。
縁側で静かにお茶を楽しんでいると、ぽかぽかとした陽気に欠伸をした藤見様にわたしが自分の膝を奨めて……。
眠ってしまった藤見様の髪を撫でるのも良いし、膝の上からわたしの頬に手を伸ばした藤見様が少し強引に顔を引き寄せて……きゃぁ!
ふ、藤見様ったら凄く積極的……そんなっ、わたし達はまだ恋仲になっておりませんのに!
あっ、稽古場で鍛錬された後、滴る汗を道着の袖で拭おうとする藤見様に、わたしが手拭いを渡すのも良いかもしれないわ。
確か藤見様は腰に刀を差していらっしゃったから、いつか稽古場を使われるはずよね?
そこにわたしが偶然を装って顔を出して――……、でも突然わたしが現れたら不審に思われるかしら。
それは困るから、やっぱり稽古を遠くからこっそり覗くだけにしましょう。
こ、恋仲になったら不自然じゃないわよね。そう、手拭いの部分は恋仲になってから。
と、次から次へと浮かんでくる恋仲の男女の姿に、自分と藤見様を当て嵌めて心を躍らせる。
藤見様に喜んで貰いたいのに、わたしが嬉しい事ばかり思い浮かんでしまう。
それを実行に移したいとは思うけれど焦りは禁物だわ、と逸る気持ちを抑えるために祈るように強く手を組んだ。
――のだけれども。
恋仲という言葉に浮かれたわたしとは違い、周囲……正確には左隣から感じる冷たい空気に気付いて足を止めた。
隣から突き刺さるような視線を向けられているので、先ほどとは違い今度は恐る恐る顔を上げて視線の元を辿る。
もちろん、視線の正体は目を細めてわたしに目を据える小萩。
後ろでは変わらず侍女達が笑っているので、頭ごなしに怒られるような失態はしていない、はず。
何も言わない小萩と、侍女達の控えめな笑い声の意図が分からず首を傾げるわたし。
すると、小萩が何かを諦めたように長い溜息を吐いたあと、意図を十分汲み取れる言葉を続けてくれた。
「姫様、そういった事は姫様が望むまま思う存分なさいませ」
「え?」
「名を呼び合う事も、縁側での膝枕も、鍛錬の覗き見も、手拭いの差し入れも、姫様が望まれるのであれば小萩は反対致しませぬ」
「わ、わたしが何を考えていたか分かるの?」
「口からダダ漏れでございました」
「……!?」
口からって……。
も、もしかして、わたしったら考えていた事を全部口に出していたの?
カーッ、と体中の熱が急上昇して二の句が告げなくなる。
染め上がった頬を隠すため、組んでいた手を外して自分の両頬にあてた。
冷えていた手には頬の暖かさがよく伝わり、じんわりとした温もりが心を癒そうとする。
逆に熱が上がる一方だった頬は、手の冷たさで火照った思考を急激に冷やしてくれた。
そんな矛盾した状況が周りに伝わるはずはない。
落ち着きなく慌てているわたしを見て、本日何度目かの溜息を吐いた小萩。
お説教が始まるのかしら、と覚悟を決めて小萩の言葉を待つ。
「最初は藤見様の好きな物からお聞きなさいませ。簡単に答えが出せる質問ほど次に繋がり易いのですよ。一つ尋ねる事ができれば、その後の質問は自然と口から零れ出すでしょう」
でも、耳に飛び込んで来たのは欲しいと思っていた助言だった。
意表を衝いた言葉は受け入れるのに時間を必要としたけど、噛み砕かれた説明によりすんなりと胸の内に落ちてくる。
「藤見様も対話の心得はお持ちですので、言葉を続けて下さるはずです。姫様に必要なのは、藤見様と言葉を交わし合うという経験でございます。悩んでいては何も始まりません。時には自ら願いを叶える為に動いても良いのですよ」
言葉を言い切ると同時に浮かべた、滅多に見られない小萩の優しい笑顔に、息を呑む。
ふわりと笑ったそれは、幼い頃に何度か目にした懐かしいもの。
わたしが成長するに連れて消えてしまったはずのものが、今この瞬間に蘇った事が嬉しくて少し泣きたくなった。
まずは他の婿候補の方々からですが、という言葉は特に気にしていない薄情なわたし。
すぐそこに迫っている松倉様達の約束より、大好きな小萩が笑ってくれた事の方がわたしには重要で。
小萩も千代も、仕えてくれる侍女達も。
わたしの大切な物の一つだと胸の中で小さく呟いて、一歩先を歩き出した小萩に続いた――
そして、本殿の茶室への道程である最後の角を曲がった頃。
先を歩いていた小萩がピタリと足を止め、少し前の笑顔が錯覚ではないかと疑わせるような厳しい表情で振り返った。
ほわほわと暖かな気持ちで足を進めていたわたしに、小萩の醸し出す空気は現実の厳しさを教えてくれる。
現に、口にしようとしている言葉は女鬼の立場の弱さを再認識させるもの。
「小萩……、どうしたの?」
「婿候補と言っても所詮年若い男鬼でございます。藤見様との約束までの間は簡単に気を許さぬよう心得て下さい。私や他の者達も注意は怠りませんが、もしもの場合が無いとは言えませんので……」
途中で言葉を切った小萩に、わたしは小さく頷いた。
これは小萩からの忠告。『東鬼の長』という地位の欲に任せて、思わぬ行動を取るかもしれない彼等への注意を怠るな、という類の。
その言葉に続くのは『自分でも身を守る準備をしておけ』だろう。
男鬼に比べて、どうしても力の劣る女鬼は身を守る為に拒絶の手段を幾つか持っている。
著しく体力を消耗するものが多いので滅多に使う事はないけれど、絶大の効果を誇る護身の三術。
まず、悲しみや怒りを感じた時に痺れるような痛みを相手の全身に一瞬で走らせ、抵抗と警告を示す一ノ術。
次に、不快や嫌悪を感じた時に相手を拒絶する二ノ術。
気持ちの強さや使う者によって拒絶の方法は様々で、愚か者を痛めつけるには十分な効果を持っていると聞いた。
そして、婚姻を結んだ女鬼だけが使用できる操立ての意味を持つ三ノ術。
婚姻による契りを交わした相手以外に心も身体も許さない、誓い立てにより半永久的に継続される保身の術。
これら三つの術が力で劣る女鬼が男鬼に抗うためのもの。
多くの女鬼は生活している内に自然と使用する方法を開花させると聞くけど、幼い頃から男鬼との接触を制限されていたわたしは、頭で理解しているだけで術の使い方を実は知らなかった。
男鬼からすれば、大袈裟だと感じるかもしれない。
だけど、女鬼は力に屈するべきだと思われている事に常に物申したい気持ちを抱えているのだ。
千代のように幼い頃から修行を積んでいれば、対等もしくは少し劣る程度の力を付ける事が出来ると聞いた事がある。
千代の中忍という地位ですら女鬼では滅多に就けないもの。
それでもやはり、男鬼より劣ってしまう千代は今でも苦労が絶えない様子だった。決して、その事を口にしたりしないけど。
体力や腕力はもちろん、術を使用する素質さえもが男鬼に劣る女鬼では限界が知れていた。
女鬼が男鬼に劣らないと証明できた者が、全く居ないとは言えない。
女鬼の過去を遡ってみると、裡念と同じく鬼一族の三大鬼道術使いの一人として上り詰めた女鬼がいると聞いた事がある。
……けれど、彼女以降は名を上げた女鬼が現れていないことは、劣るという部分を覆すには不十分。
だから女鬼は小萩のように、強い意志や威厳溢れる態度で自らの地位を勝ち取る必要があった。
力関係でどうしても男鬼に頼ってしまう女鬼は、男鬼ではできない面で価値を示す。
東条の血が流れるわたしには、この血が齎す因果が渦巻いているけど……わたしも例外ではない。
この男鬼なら東条を任せられる、と思えた相手を夫とするつもりだった。
それが東鬼の未来に繋がり、わたしの身体に流れる血を継続させる唯一の方法だと信じて疑わなかった。
藤見様にも、同じ意志を持ち、同じ目を向ける覚悟があるのかと問われれば、それに答える事はできないけれど。
少なくとも、今から逢う『東鬼の長』に魅力を感じている婿候補達に対峙する覚悟を、わたしは抱く必要がある。
護身の三術を使うのは酷く不安で怖いけど、ぐっと、握った拳に精一杯の力をこめて小萩に目を向ける。
大丈夫、逢瀬が終わる頃には何も問題なく時間が過ぎているだけのはず。
同室してくれる小萩や侍女達、そして天上番を担った千代や他の忍が居る事を心の支えにして。
わたしは止めていた足を前に進めた。
ひらり、ひらりと空の青に一枚の葉が揺れる。
流れるように右へ、操られては左へ。風に遊ばれては再び舞い上がり前後に動く。
それが自然だと思って見ていれば、今度は思わぬ方向に翻り、思わず瞠目する。
近づくそれをひたすら見つめ掴むべく自分の手を伸ばすけれど、触れる事を許さないとでも告げるように。それは揺れる方向を変えて逃げ、わたしの足元に落ちた。
その光景は今日一日の行く末を示しているのではないかと思って、慌てて葉を拾い上げた。
気に入られたい、好きになってもらいたい。
誰にと問われれば、それはもちろん藤見様に……。
しかし、いくらそう願っても逢瀬まで時間のある今ですら緊張している自分に、それを叶えられるとは思えなかった。
自覚したばかりの恋心で、何をどうすれば藤見様の心を射止められるのか全くわからない。
惹かれ合う男女の心が育つ様に焦がれながら、何度も何度も読み返した恋物語。だけど、憧れるだけで物語を客観的に見ていたわたしは、その感情を理解する事はできなくて。
年頃の侍女の話で、恋仲となった後には片恋だった時とは違う世界が広がっていると聞いても、胸の内にストンと降りてくるものは無かった。
それを今になって、もっと深く考え質問しておけば良かったと酷く後悔している。
せめて満足してくれるよう、できる精一杯の事をしたいと思うのに……それすらも思い付かない。
顔合わせの席で飾り立てしない言葉で本音を語った藤見様の姿に胸が高鳴った。
その時の事を思い返すだけで、同じように左の胸の奥がトクンと暖かな音を立てる。
次第にそこが恥ずかしいくらいに早鐘を打ち始めたのは、止めどなく溢れてくる想いのせい。
想う心が膨れ上がって必死になるばかり。
一握の希望もなければ、心がこれほどの迷いを生み出さず期待することも無いのに。
顔合わせの席での真剣な言葉や眼差し、そして文の返事に添えられた『かすみ草』。
それらを意識せずにはいられなくて、誤魔化しようのない事実に軽く落ち込んだ。
泣きたくなるほど切なく、時折痛みも伴わせるけれど。何故か感じる喜びで心が満たされた。
この胸の痛みも喜びも初めて与えられたもので、彼が東条の地にいるから継続されている。
「姫様、そろそろお時間です」
わたしの名を呼びながら近寄ってくる小萩に、視線を手に入れた緑から移す。
小萩の後ろには逢瀬の場に同席する侍女二名と、送り出すために並び立った他の侍女達。
その中に千代の姿が見えないのは、きっと天上番をしてくれているから。
千代が侍女の姿でわたしの傍で控えるのと、天上番として潜む割合は五分と五分。
幼い頃は常にわたしの身を護ると意気込んでいたけど、歳を重ねるに連れて忍の技術を磨く事に打ち込み、口調も畏まった物に変わってしまった。
それを少しだけ寂しいと思った事もある。でも、千代がわたしの護衛を担いながらも傍にいてくれる事が嬉しくて、千代には大切な友人として接した。
そんな千代だからこそ、共に想い人の話をしてみたいと思う。
今まで話が出来なかったのは、わたしに想い人を作る余裕が無かったのが主な要因だけど、思い返せば千代はそういう話に消極的だった気がする。
侍女達との話が色恋の方向へ進むと、必ずと言っていいほど話題をすり替えるか席を外していた。
千代ってば照れ屋さんなのね、と毎回見送っていたけれど、藤見様のことは一番の友人である千代に相談に乗って欲しい。
こうして移動している間でも、わたしが取るべき行動の助言を求める事が出来たかもしれないのに。
唸りたいのを我慢して辰の刻に松倉様と逢う予定の茶室へ向かう。
松倉様、戸館様、郷田様の順で一刻ずつ逢う予定のお三方は本殿の茶室を侍女に頼んで用意してもらった。
続けて同じ場所で逢う方が時間を短縮できる上に、次の逢瀬の待ち人が居ると分かれば交わす言葉も要点をついた物になるから。
でも藤見様だけは別の場所で長い時間を共に過ごして頂けるよう、奥御殿のわたしの茶室への案内を侍女にお願いした。
贔屓してしまったのは、わたしが藤見様に想いを寄せているという単純な理由。
本来ならば、公平に『東鬼の長』を判断しなくてはならない。
婿を取るために候補者を招集すると聞かされた時も、東鬼の未来を預ける事ができる男鬼を選ぶつもりだった。
それに、何の運命なのか。婿候補に残った者は東鬼の中でも名家中の名家出身の者ばかりだった。
妻や婚約者のいない名家の男鬼を対象としたと聞いていたけれど、候補者として絞られたのは次世代を担う事を有望視された男鬼達。
松倉様は、学べる物は何でも吸収し、興味のある事は納得できるまで研究するという風変わりな面を持つけれど、ここ数年で薬草学や農業に著しい進歩を及ぼした方。
執務を行えば速度も完成度も右に出る物は存在せず、誰もが認める松倉家次期当主。
戸館様は次男であるが故に少し横暴な面がある方だけど、商才は既に家督を継いでいる長子よりも優れていると噂される方。
難になる部分が見受けられるけれど、成長過程として受け取って周りは有望視している。
郷田様は分家の生まれにも関わらず、本家を凌ぐほど武術に秀でた方。
郷田家の名を聞けば、誰もが彼の事を開口一番に訪ねるほど名が広まっている。
そして――……東条より南の地一帯を治める藤見家。
戦鬼として歴史に名を残し、物語としても子供が親に聞かされる時に耳にする憧れの存在。
しかし家督に感心なく育った事と、旅による五年間の空白が藤見様に対する不審を抱かせていた。
たったそれだけの情報で、心を凍らせて望んだ顔合わせの席。
お父様に紹介された後、我先にと口を開く婿候補の方々の言葉や贈り物を目にして、『東鬼の姫』と言う肩書きに醜い思惑が絡んでくるのだと改めて理解した。
そんな中まったく口を開かない藤見様を、卑屈になっていたわたしは他の婿候補の方々と同じだと思っていた。
もちろん、その感情は藤見様の『藤見の鬼』らしい態度で覆されて今に至るのだけれども。
でも、藤見様を選んだからといって簡単に全てが問題なく運ぶわけではないのが『東鬼の姫』の宿命。
東条の血を持たない婿は、東条の名をわたしと共に背負う資格があるのかを多くの者に問われる事となる。
東条の当主として、東鬼の長を務めるのに足りた者か。
外に流れる噂も当然ながら、直に接した時の内面や知識、思考、経験、そして覚悟。
すべてにおいて、東条の臣下――特に老臣が認める者でなければ婿を名乗る事を許されない。
既に東条の臣下が婿候補達を見定めているけれど、それは始まりに過ぎず時間が経つ度に名の重さを知るだろう。
一筋縄ではいかない『婿選び』に生じている負の部分を想像して、ドクンと心臓が反応した。
婿を選んだとしても周りの容赦ない審査がその者への重荷となる。
そんな苦い思いをさせたくない、と婿を選ばなければ……恐らく、老臣達が筆頭になって世帯持ちの男鬼を婿に『引き抜く』だろう。
既に愛すべき家族と各々の幸せ築き上げている者達を侵略でも『東鬼の長』を求めなくてはならない。
それは夫に愛されない事を覚悟しているわたしにとっても辛く、わたしの比ではないくらい家族には申し訳ない話だった。
だから、余計に未婚の男鬼を対象とした席をお父様は設けて下さった。
たった一度の機会で、運命を共にしてくれる男鬼を得るには限り無く低い可能性の場だけれど、それを活かすも殺すもわたし次第。
正直なことを言えば、既に誰を婿に選ぶか……答えは既に決まっている。
けれど、わたしが抱える問題を藤見様が背負って下さるかどうかは確認できていない。
それに、わたしが一方的に想っているだけの状態で、藤見様の気持ちを確認しないまま結論を出す事を彼は好まないだろう。
考えても考えても、迷いが生じて自分の最良の行動が分からない。
わたしと共に東鬼の地を守って欲しいと言えば良いのか。己の役割を二の次にして心のまま想いを伝えれば良いのか。
強制的に決断を下す権限を持っているけれど、それではきっと彼に良く思われない。
迷えど迷えど『東鬼の姫』という宿命を呪いたくなるばかり。
出口の見えない思考の先に浮かぶのは、告げるべき言葉の選択を誤ったわたしに眉根を寄せて見限る言葉を発する藤見様だった。
「……ま? ……様、――……か? 姫様!!」
「――っ、なに?」
小萩の強い呼び声に驚いて、ハッとしたように顔を上げる。
よほど考え込んでしまっていたらしく、苦い顔をした小萩を見て肝を冷やした。
「――私の話を聞いていらっしゃいましたか?」
「えっ、えぇ、もちろん聞いて、」
「この小萩に嘘が通じるとお思いでございますか?」
「ご、ごめんなさい、考え事をしていたから……」
咄嗟についた嘘を簡単に見破られて、謝りながら肩を竦める。
小萩の怒りに触れて立つ瀬がないわたしだけど、何故か後ろの侍女二名はクスクスと笑っている。
助け手を求めるて目配せをすると、いっそう笑みを深めて口を開いてくれた。
「姫様ったら、小萩様は何度も姫様をお呼びでしたわ」
「心ここに在らずといったご様子でしたが、一体何をお考えでしたのですか?」
「……もしや藤見様の事を?」
「なるほど、恋仲になるかもしれない殿方の事をお考えになるのは、当然でございますもの!」
「こ、恋仲?」
「はい! あっ、でも姫様の場合は将来が約束されますので婚約者に――……」
侍女の話は的外れだったけど、負の方向に向かっていた思考を変えるには最適な話題だった。
『東条の長』という問題ばかりに気を取られていたけれど、恋仲になった時も苦労するのでは、という考えがわたしの中に浮かぶ。
それに加え、そもそも恋仲になった男女はどんな感じなのかしら……とも。
茶室へ向かう足取りを少し遅くして、脳裏にわたしが思い描く恋仲の姿を浮かべてみる。
まず、名前で呼び合うのは当然よね?
わたしは藤見様のことを、きょ、『恭様』とお呼びして、藤見様はわたしの事を『花』と呼び捨てに……やだ恥ずかしい!
でも周りの目もあるから、藤見様がわたしの名を呼び捨てにする事は難しいかもしれないわ。
小萩に早く藤見様の名前を呼べるようになりなさいと言われたから、わたしが呼ぶ分には別に恋仲でなくても可能よね?
わ、わたしが少し変わるだけで親しく見えるはずよね。上手くいけば恋仲に見えるかも……!
それと、ひ、膝枕は絶対に外せないわね。
これも恋仲になっていなくても出来る事だから、想像の中で練習をしておこうかしら。
縁側で静かにお茶を楽しんでいると、ぽかぽかとした陽気に欠伸をした藤見様にわたしが自分の膝を奨めて……。
眠ってしまった藤見様の髪を撫でるのも良いし、膝の上からわたしの頬に手を伸ばした藤見様が少し強引に顔を引き寄せて……きゃぁ!
ふ、藤見様ったら凄く積極的……そんなっ、わたし達はまだ恋仲になっておりませんのに!
あっ、稽古場で鍛錬された後、滴る汗を道着の袖で拭おうとする藤見様に、わたしが手拭いを渡すのも良いかもしれないわ。
確か藤見様は腰に刀を差していらっしゃったから、いつか稽古場を使われるはずよね?
そこにわたしが偶然を装って顔を出して――……、でも突然わたしが現れたら不審に思われるかしら。
それは困るから、やっぱり稽古を遠くからこっそり覗くだけにしましょう。
こ、恋仲になったら不自然じゃないわよね。そう、手拭いの部分は恋仲になってから。
と、次から次へと浮かんでくる恋仲の男女の姿に、自分と藤見様を当て嵌めて心を躍らせる。
藤見様に喜んで貰いたいのに、わたしが嬉しい事ばかり思い浮かんでしまう。
それを実行に移したいとは思うけれど焦りは禁物だわ、と逸る気持ちを抑えるために祈るように強く手を組んだ。
――のだけれども。
恋仲という言葉に浮かれたわたしとは違い、周囲……正確には左隣から感じる冷たい空気に気付いて足を止めた。
隣から突き刺さるような視線を向けられているので、先ほどとは違い今度は恐る恐る顔を上げて視線の元を辿る。
もちろん、視線の正体は目を細めてわたしに目を据える小萩。
後ろでは変わらず侍女達が笑っているので、頭ごなしに怒られるような失態はしていない、はず。
何も言わない小萩と、侍女達の控えめな笑い声の意図が分からず首を傾げるわたし。
すると、小萩が何かを諦めたように長い溜息を吐いたあと、意図を十分汲み取れる言葉を続けてくれた。
「姫様、そういった事は姫様が望むまま思う存分なさいませ」
「え?」
「名を呼び合う事も、縁側での膝枕も、鍛錬の覗き見も、手拭いの差し入れも、姫様が望まれるのであれば小萩は反対致しませぬ」
「わ、わたしが何を考えていたか分かるの?」
「口からダダ漏れでございました」
「……!?」
口からって……。
も、もしかして、わたしったら考えていた事を全部口に出していたの?
カーッ、と体中の熱が急上昇して二の句が告げなくなる。
染め上がった頬を隠すため、組んでいた手を外して自分の両頬にあてた。
冷えていた手には頬の暖かさがよく伝わり、じんわりとした温もりが心を癒そうとする。
逆に熱が上がる一方だった頬は、手の冷たさで火照った思考を急激に冷やしてくれた。
そんな矛盾した状況が周りに伝わるはずはない。
落ち着きなく慌てているわたしを見て、本日何度目かの溜息を吐いた小萩。
お説教が始まるのかしら、と覚悟を決めて小萩の言葉を待つ。
「最初は藤見様の好きな物からお聞きなさいませ。簡単に答えが出せる質問ほど次に繋がり易いのですよ。一つ尋ねる事ができれば、その後の質問は自然と口から零れ出すでしょう」
でも、耳に飛び込んで来たのは欲しいと思っていた助言だった。
意表を衝いた言葉は受け入れるのに時間を必要としたけど、噛み砕かれた説明によりすんなりと胸の内に落ちてくる。
「藤見様も対話の心得はお持ちですので、言葉を続けて下さるはずです。姫様に必要なのは、藤見様と言葉を交わし合うという経験でございます。悩んでいては何も始まりません。時には自ら願いを叶える為に動いても良いのですよ」
言葉を言い切ると同時に浮かべた、滅多に見られない小萩の優しい笑顔に、息を呑む。
ふわりと笑ったそれは、幼い頃に何度か目にした懐かしいもの。
わたしが成長するに連れて消えてしまったはずのものが、今この瞬間に蘇った事が嬉しくて少し泣きたくなった。
まずは他の婿候補の方々からですが、という言葉は特に気にしていない薄情なわたし。
すぐそこに迫っている松倉様達の約束より、大好きな小萩が笑ってくれた事の方がわたしには重要で。
小萩も千代も、仕えてくれる侍女達も。
わたしの大切な物の一つだと胸の中で小さく呟いて、一歩先を歩き出した小萩に続いた――
そして、本殿の茶室への道程である最後の角を曲がった頃。
先を歩いていた小萩がピタリと足を止め、少し前の笑顔が錯覚ではないかと疑わせるような厳しい表情で振り返った。
ほわほわと暖かな気持ちで足を進めていたわたしに、小萩の醸し出す空気は現実の厳しさを教えてくれる。
現に、口にしようとしている言葉は女鬼の立場の弱さを再認識させるもの。
「小萩……、どうしたの?」
「婿候補と言っても所詮年若い男鬼でございます。藤見様との約束までの間は簡単に気を許さぬよう心得て下さい。私や他の者達も注意は怠りませんが、もしもの場合が無いとは言えませんので……」
途中で言葉を切った小萩に、わたしは小さく頷いた。
これは小萩からの忠告。『東鬼の長』という地位の欲に任せて、思わぬ行動を取るかもしれない彼等への注意を怠るな、という類の。
その言葉に続くのは『自分でも身を守る準備をしておけ』だろう。
男鬼に比べて、どうしても力の劣る女鬼は身を守る為に拒絶の手段を幾つか持っている。
著しく体力を消耗するものが多いので滅多に使う事はないけれど、絶大の効果を誇る護身の三術。
まず、悲しみや怒りを感じた時に痺れるような痛みを相手の全身に一瞬で走らせ、抵抗と警告を示す一ノ術。
次に、不快や嫌悪を感じた時に相手を拒絶する二ノ術。
気持ちの強さや使う者によって拒絶の方法は様々で、愚か者を痛めつけるには十分な効果を持っていると聞いた。
そして、婚姻を結んだ女鬼だけが使用できる操立ての意味を持つ三ノ術。
婚姻による契りを交わした相手以外に心も身体も許さない、誓い立てにより半永久的に継続される保身の術。
これら三つの術が力で劣る女鬼が男鬼に抗うためのもの。
多くの女鬼は生活している内に自然と使用する方法を開花させると聞くけど、幼い頃から男鬼との接触を制限されていたわたしは、頭で理解しているだけで術の使い方を実は知らなかった。
男鬼からすれば、大袈裟だと感じるかもしれない。
だけど、女鬼は力に屈するべきだと思われている事に常に物申したい気持ちを抱えているのだ。
千代のように幼い頃から修行を積んでいれば、対等もしくは少し劣る程度の力を付ける事が出来ると聞いた事がある。
千代の中忍という地位ですら女鬼では滅多に就けないもの。
それでもやはり、男鬼より劣ってしまう千代は今でも苦労が絶えない様子だった。決して、その事を口にしたりしないけど。
体力や腕力はもちろん、術を使用する素質さえもが男鬼に劣る女鬼では限界が知れていた。
女鬼が男鬼に劣らないと証明できた者が、全く居ないとは言えない。
女鬼の過去を遡ってみると、裡念と同じく鬼一族の三大鬼道術使いの一人として上り詰めた女鬼がいると聞いた事がある。
……けれど、彼女以降は名を上げた女鬼が現れていないことは、劣るという部分を覆すには不十分。
だから女鬼は小萩のように、強い意志や威厳溢れる態度で自らの地位を勝ち取る必要があった。
力関係でどうしても男鬼に頼ってしまう女鬼は、男鬼ではできない面で価値を示す。
東条の血が流れるわたしには、この血が齎す因果が渦巻いているけど……わたしも例外ではない。
この男鬼なら東条を任せられる、と思えた相手を夫とするつもりだった。
それが東鬼の未来に繋がり、わたしの身体に流れる血を継続させる唯一の方法だと信じて疑わなかった。
藤見様にも、同じ意志を持ち、同じ目を向ける覚悟があるのかと問われれば、それに答える事はできないけれど。
少なくとも、今から逢う『東鬼の長』に魅力を感じている婿候補達に対峙する覚悟を、わたしは抱く必要がある。
護身の三術を使うのは酷く不安で怖いけど、ぐっと、握った拳に精一杯の力をこめて小萩に目を向ける。
大丈夫、逢瀬が終わる頃には何も問題なく時間が過ぎているだけのはず。
同室してくれる小萩や侍女達、そして天上番を担った千代や他の忍が居る事を心の支えにして。
わたしは止めていた足を前に進めた。
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