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へっぽこ鬼日記 幕間七

幕間七 千代視点
 東条家忍頭である父の影響で、幼い頃から花姫様付きの女忍として生きてきた。
 姫様のお相手をしながら忍の訓練を受けるのは大変だったけど、苦痛だと感じた事はない。

 本来、忍は身を挺して主人の為に働き命を散らす者。
 自分の将来も同じ道をたどり、場合によっては人知れず命を終える事もあると考えていた。
 しかし、お優しい姫様は私に忍としてではなく友として接して下さった。
 最初は嬉しさよりも戸惑いの方が大きく、恐縮して話など出来なかったけれど。
 気付けば柔らかに微笑みながら名を呼んで下さる姫様の前で自然と笑えるようになっていた。

 姫様が大切で、従者としても友人としても心から仕えた。
 姫様を命を賭けてお守りするのだと、自分の役目を誇らしく思っていた。
 姫様の心の拠り所に自分がなれれば良いのに、と微力ながらも願っていた。
 自分は、悲しい運命に縛られた美しくも儚い姫様の傍に居る事ができるのだと。
 だから『藤見恭』という男鬼が現れたことに、素直に喜べなかった。
 政略結婚に近い婚姻を結ぶであろう姫様を命尽きるまで支えようと誓っていた。
 東鬼一族の為に身を捧げる姫様の供として、我が身も捧げたいと切に願いもした。
 自分が傍に居れば姫様のお心を軽くする事ができ、今まで以上の依存を許されるとさえ考えた。

 それが一体全体どうしたというのだ。
 視界の端で姫様の様子を伺えば、今まで見た事のない笑顔の姫様が確認できた。

 藤色の着物を手に取りながら微笑む、美しい姫様。
 優しく微笑んでいらっしゃる御姿は幾度となく目にしてきた。
 だが今の姫様の笑顔はそれとは違い、瞳が潤い頬も紅潮しているモノだ。
 その笑顔と共に感じる姫様から溢れた『愛しい』という感情に激しく苛立った。

 そう、姫様は婿候補の中の鬼にその感情を抱いてしまったのだ。
 名の一部である『藤』に関する物を見るだけで甘く笑みを零すほどに強く。
 無意識の内に震えていた拳から何とか力を抜き、深い呼吸を繰り返す。
 いつもなら即座に落ち着くはずなのだが、今回ばかりは易々と落ち着いてはくれなかった。
 理由は当人である自分が一番わかっている。

 悔しいのだ。
 支えようと誓いながらも、姫様の心を救えていなかった自分が。
 そして憎らしいのだ。
 長年付き従ってきた自分以上に、姫様の心を支配する鬼が。
 自分では芽生えさせる事のできない感情で姫様を翻弄する男鬼が。


 そもそも何だ、あの『藤見恭』という男鬼は。
 鬼ならば誰もが一度は耳にした事のある名家に生まれ、一流の教育を受けたのは分かる。
 だからと言って、克彦様を筆頭に東条の主な臣下を感心させる程の常識外れな素質を見え隠れさせる鬼に育つのはおかしい。

 胡散臭(うさんくさ)い。胡散臭すぎる。
 当主である克彦様も、父で忍頭の吾妻様も、女中頭の小萩様も、我が主人の花姫様も。
 今まで見た事のない感性を持つ男鬼に過剰すぎる期待を抱いているだけだ。
 その期待が真実を曇らせて見えなくしているのだ。絶対そうに違いない……!!

 でも私は騙されない。
 私だけは騙されてなるものか。
 私以外の誰もが彼を信じ心を許しても、私だけは最後まで疑い続けてやる。

 そして同行している従者も何だ。
 他家の地を踏んだのであれば、もう少し大人しくしているのが普通ではないのか。
 忍を警戒する気持ちは分からなくも無いけれど、必要以上の威圧をかけ過ぎている。

 でも私は屈しない。
 私だけは屈してなるものか。
 私以外の誰もが彼等に恐れ膝を折っても、私は最後まで視線を逸らさずにいてやる。
 主である姫様のご意向に反する事だとは理解していながらも、胸の奥でぷちぷちと細かな泡が弾けるような危険を感じたが気付かない事にした――。



◆◇◆



 近づいてくる小さな足音に気付き、風を通すために開かれたままの襖を見る。
 短い影が見えた直後、本殿で見かけた事のある女中が緊張した様子で顔を出した。

「花姫様、婿候補の方から文を預かって参りました」

 女中の告げた言葉に、ぱぁっとご本人の名の通り花のような笑顔を咲かせる姫様。
 こんなにも素直で幸せそうな姫様を見るのは久しぶりなので、見ているコチラの心まで救われた気持ちになる。
 ……と周りは感じているだろうが、自分は面白くない。少しも面白くない。
 恐れ多くも『友人』を名乗らせて頂いている我が身としては全く面白くないのだ。

 傍付きの侍女が文の入った文箱(ふばこ)を受け取り、姫様の元へ運ぶ。
 侍女も緊張しているのか、その足取りは無駄に慎重だった。
 姫様に渡った文箱は、蒔絵(まきえ)の小箱にしては派手な印象を受けた。
 文箱には持ち主の希望で様々な文様が描かれ、趣向が表わされているとも言える。
 少なくとも嫌いなものを己が日常的に使用する文箱に描く事はしないだろう。
 ちなみに姫様は桜を好んで身に付けたり、意匠を凝らしたりしていらっしゃる。
 姫様の文箱も桜が控えめに描かれた清楚で可憐な仕上がりだ。

 そんな姫様の文箱とは逆に、気品も何も感じ取れない随分と気合の入った文箱に送り主の程度が知れた。
 姫様は派手な箱を特に気にした様子もなく嬉しそうに箱紐を解いていたが、その隣で様子を見ている小萩様の小さな溜息が聞こえた。
 頬を染めている姫様と、その姿を見ている侍女達は気付いていない。
 忍である己であるからこそ耳に拾う事ができた、小さな小さな溜息。

 幻滅ではなく落胆に近い小萩様の表情を不思議に思いながら、姫様に再び視線を戻せば文箱の中にあった文を読んでいる所だった。
 初めは薄い桃色に色付いていた頬も、読みを進めるに連れて色を無くしていく。
 そして最後まで目を通し終えた姫様が、肩を落とした事が窺えた。
 何事かと確認を取ろうとしたが、姫様の手からお気持ちと同じように項垂れた文に押印されている家紋を見て納得する。
 押印されている家紋は『藤』ではない他家のもの。記されている名にも藤の文字は無い。

 そう、文の差出人は姫様が心待ちにしている『藤見恭』ではなかったのだ。
 期待していただけ落胆も大きく、周りの侍女達も如何したものかと顔を見合わせている。
 そんな中、小萩様だけは派手な文箱を目にした時から今を予測していたようで難しい顔をしていた。

「花姫様、すぐに次の文が参りますわ!」
「小萩様がお願いなさったのですもの、ご心配される事はありません!」

 オロオロと周りの侍女達が姫様を励まそうとしているが、その言葉に信憑性はない。
 いくら小萩様が直々に申したとしても、所詮使用人の言葉でしかないのだ。
 しかも相手は名家の出身。花姫様への直接的な無礼は許されないが、使用人の言葉を聞き流しても咎められる確率は無いに等しい。

 過剰な期待をするのは止めて下さい。
 その一言が言えれば、どれだけ自分の気持ちは楽になっただろうか。
 その一言が言えたのならば、何かが変わるかもしれないというのに。
 それでも、その言葉を口にする事はできなかった。

 侍女達の言葉に泣きそうな笑顔を返す姫様が切なかった。
 望んでも虚しくなるだけかもしれないのに、その想いに縋る姫様を見るのが辛かった。
 求めて伸ばした手は宙を切るだけかもしれないのに、手を伸ばし続ける姫様の傍にいる事が苦しい。

 こんな顔をされるくらいなら、癪(しゃく)だが文の一通など小さな攻撃に過ぎない。
 それが姫様の手によって静々と文箱の中へ戻される文と同じように、甘ったるく胸焼けを起こしそうな内容の文なら尚の事良い。
 他の婿候補達と同じような内容の文であれば、抱いていた感情も半減するというモノ。
 同じ内容で競い合う想い人を目にして、姫様の昂った感情が冷静さを取り戻して下さるはずだから。
 聞き慣れた賛辞と自己主張が文章化しただけのモノを目にして目を覚まして下さるはずだから。


 ―――しかしその後、考えが甘かった事を思い知らされる。
 姫様の想いを裏切るかのように、この後も同じ事が二度繰り返される事になった。
 そう、三度の落胆を経験した姫様がいくら待っても四通目の文は届く事はなかった――。



◆◇◆



 結局、あれから半刻以上待っても目的の文が届く事はなかった。
 本殿から近づいてきた足音は、いずれも婿候補達からの使いだったにも関わらず『藤』の文字は一度たりとも目にする事ができなかった。
 文が届くどころか礼儀を弁えぬ婿候補の中の1名が、返事はまだかと催促を寄越すほどの時間が経過したというのに、だ。

 返事を出さない事は失礼になるので、姫様は小萩様に促されて文を書く用意をされ始めた。
 硯箱(すずりばこ)の隣には派手な文箱が三つ並ぶ。
 返事には送り手の文箱を使うので、姫様の桜が描かれた文箱が使われる事はない。
 必然的に花姫様の返事はこの文箱を使って行う事になる。

 本当ならば、今頃は藤が描かれた文箱に幸せいっぱいの表情で触れているはずなのに。
 返事の内容について小萩様と話し合う姫様の声すら弱々しく、聞いていられなかった。
 背を小さく丸めて筆を持った姫様を引き金として、私は怒りに任せて部屋を飛び出してしまった。

 目指すのは本殿に用意されている婿候補達の客間。
 藤の名を持つ男鬼が身を置く一室だ。
 文句の一つでも言わなくては、と決意を固めて無音で廊下を歩いたのだった。



 姫様達、東条直系の血縁者と主立った家臣の寝泊まりする奥御殿からの道中で忍装束から女中の姿になる。
 長い廊下の角を曲がった瞬間に姿を変えたので目撃される可能性は限りなく低いだろう。
 軽装で黒い忍装束とは違って、雪輪に小桜が描かれた淡水色の小袖は裾が長いので歩き難い。
 しかしこの小袖は姫様付きの侍女だけが着る事を許されている物で、限られた数しか用意されていない。

 鍛錬で血や泥で汚れる事が日常茶飯事だった私に、姫様は『年頃の女鬼』の楽しみを教えて下さった。
 美しい衣や柄に感心を寄せ、時に色を重ねて実際に袖を通す事の楽しさを。
 機能性を重視した忍装束姿だった私に、当然のように仕立てられた小袖。
 侍女達の姿を少しだけ羨ましく思っていた時に姫様が下さった物だ。
 決して顔には出していなかったはずなのに、私の些細な変化に気付いて下さった。
 嬉しくて嬉しくて、その日の夜は頂いた小袖を抱いて眠った程だ。その時の事を思うと口元が綻びそうになった。

 と、幸せな気持ちで胸がいっぱいだったが、それも一時のもの。
 婿候補の方々に用意した本殿の客間へ足を進めるだけで胃を突き上げられる感覚を覚えた。
 目的の場所へ近づくだけでドスドスと忍にあるまじき足音が気持ちと比例するように大きくなっていく。

 先に確認できるのは閉め切られた襖。
 今歩みを進めている廊下を直進するだけで辿りつくであろう目的地。

 気配を探って在室かどうかを確認してみるが、それは客間から現れた人物によって遮られた。
 音も無く襖を開閉したのは、藤見家の従者としても知名高い赤毛の鬼。
 本殿仕えの女中姿で対面した昨日は、言葉でバッサリと切り捨てられてしまったが今日は退くものか。

 部屋から出て、私の方を向いたまま微動だにしない従者と五尺ほどの距離をあけて向き合った。
 ギンッ! と睨みを利かせると、大袈裟に目を開いて驚いたような表情を浮かべた。
 私の気配を感じて出てきたくせに、然も今気が付いたと言わんばかりの空気が腹立たしい。


「何か御用ですか?」
「藤見様にお話があります」
「残念ながら我が主は留守でございます、女忍殿」
「……では待たせて頂いても宜しいでしょうか、従者殿」
「天井裏なら既に先客が居りますが、相席で良ければ」
「――っ……!」

 好戦的な印象を抱かせる容姿の彼が浮かべているのは、冷たい笑顔。
 己が普段以上の注意を凝らさねば気付かぬほど小さな忍の気配に、当然のように気付いて嫌味まで言う始末。
 そして、わざわざ女中の姿で声を掛けているにも関わらず天井裏を勧める発言。

 これだから名家の鬼は嫌いなのだ。もちろん東条は例外だが。
 自分の雇い主に卑下されるなら未だしも、何故このような従者にまで馬鹿にされなくてはならないのか。
 忍は四六時中、天井裏で諜報活動を行っているとでも思っているのだろうか。
 確かに護衛として庭先や天井裏で息を殺して潜んでいる事は少なくないが……。

 それでも、わざわざ訪ねてきた者に天井裏を勧めるのは非道だ。
 苛々しながら、高い位置にある氷の様に冷え切った眼を見ると鼻で笑われたような気がした。

「何のご用件か伺っても宜しいでしょうか?」
「従者の貴方に話しても、解決致しません」
「そうですか、それは残念です。実は主に頼まれた用を済ませる必要があるのですが……客人をお一人にする事はできませんので後で済ませる事にします」
「随分と回りくどい言い方をされますね、正直に仰ったらどうですか」
「お気遣いは不要ですよ。ご心配なさらずとも邪魔な時は邪魔だと申し上げます」

 ニッコリと笑う姿は、何も知らない者が見れば騙されてしまうだろう。
 口を閉じてさえいれば、こんな毒を吐いているとは夢にも思わないはずだ。
 バチバチと視線が火花を散らす錯覚を感じながら喰い下がらずにいると、従者は今までの笑顔とは全く違う悪どい微笑を浮かべて懐を漁りだした。

 飛び道具でも取り出すのかと思い、一歩下がって身構える。
 しかし私の行動は予測の範囲内だったようで、従者は一歩前進して距離を詰めてきた。
 私の一歩と彼の一歩は身長差からして違う事は明確。故に最初は五尺ほどあった距離が、三尺ほどに縮められてしまった。
 そんな事は気にした風も無く、取り出されたモノを掲げて一言ずつ区切って声を出す彼。

「これは、一体、何でしょう?」

 顔と同じ位置に掲げられたそれは、白い厚手の紙に包まれた文。
 文箱を使用しない場合に用いられる文の形式だと、頭が瞬時に答えを出した。
 質素すぎる文からは明らかに敬意が感じられないが、確かに藤見の家紋が押印されている。

「っ、それは……!」
「そう、主から花姫様への文でございます」

 引き寄せられるように手を伸ばせば、触れる寸前で遠ざけられる文。
 それとは反して、またもや近づく私と従者の距離。
 一尺強の距離で見る顔は意外に幼いのだと感じさせたが、近すぎる距離に不快を覚えたので引っ叩いてやろうかと思った。

 悔しい、悔しい、悔しい。
 こんな稚拙な嫌がらせに翻弄される自分が情けない。
 相手にも自分にも罵声を浴びせたくなって喉が震える。

「随分と品のない行動をされますね、女忍……いえ、今は女中殿でしょうか」
「くっ、貴方こそ私に構っている間にも主の肩身が狭くなると思わないのですか!」
「冗談にしてはなかなか面白い事をおっしゃいますね」
「私が今こうして文を届ける事を妨害していても、貴方の主は咎めないと?」
「それはそうでしょう。今もご意向に沿って、わざと遅らせているのですから」

 何を言っているのだろう、この赤毛の鬼は――。
 自分が取る行動によって生じる主への影響を考えていないというのか。
 否、そんな風に軽率な行動を取っているようには見えない。むしろ敬っているからこそ、その意志を汲んで手足のように動いているように思える。

 だが意味が分からない。
 そんなにも深く強い、そして誰も踏み込めない程の繋がりを持つ主従関係に。
 雇い主の用事を後回しにして咎められないという思考が理解できない。
 雇い主が怠慢とも取れる従者の行動を罰しないという絶対的な自信が何処から沸くのか。
 それとも、全てを従者任せにしているだけの腑抜けが主だという事か。
 可能性としては皆無ではない。むしろ有力な解かもしれない。
 名家と言っても、優秀な従者に支えられて生き存(ながら)えている者も少なくはないのだから。

「全てを従者に一任するなど、貴方の主は何も考えていないのですね!」

 腑抜けた主、という言葉に流されるようにして零れた言葉。
 私が屈辱を与えられたように、この従者に苦い顔をさせる事ができると思ったら笑いが込み上げてきた。

 あの藤見家の鬼が腑抜けとは、とんだお笑い種だ。
 この藤見家の従者が隠している事実を私が掴んだとあれば、最高じゃないか。
 絶大な評価を下している東条の方々には悪いが、化けの皮は私が剥がしてやる。

 夢見心地になっている姫様も現実を見る事ができる。
 藤見家の鬼が起こす行動で一喜一憂する事がなくなるのだ。
 そうなれば、また姫様は私や侍女達を第一に考えて下さる。
 姫様を守るという任を、得体の知れない男鬼に奪われる事も無く過ごせる。
 今まで通りの生活を思い描いて、未来への光が見えた気がした。
 何ら変わらない暮らしを、ずっと続ける事ができるのだと純粋に喜んだ。

 そんな風に有頂天になってしまったせいだろう。
 場の空気が変わった事に気付いた時には、既に遅かった――。



「貴女は何か思い違いをされていますね、……千代殿」

 何故名前を知っているのか、そんな事を質問する余裕などない。
 私を見据える目は細められ、その光はまるで刃物のようだった。

 彼の指先がそっと私の髪に触れる。
 梳(す)くでもなく、撫でるでもない。ただ髪に触れて、柔らかく握りしめるだけだ。

 どうしよう、と思ったのと強い瞳と目が合ったのはほぼ同時だった。
 そして、皮膚で感じ取れるほどに静かで重たい空気が私の周りに充満するのも同時。


「我が主(あるじ)は一を得れば百を導くほどに聡明なお方。私にこの任を与えた瞬間から無数にある可能性の先を見据えていらっしゃる」

 髪を一房すくい、指で弄んでは落ちる。
 落ちては再び髪を一房すくい、また指で弄んでは落ちる。
 永遠に続くような行為も、空気に相応しくない事で現況を麻痺させる薬となった。

 胸の奥の方で微かな音が聞こえた。
 声は果たして音になっているのだろうか。
 目は果たして彼を見ているのだろうか。

 触れられているのは髪の上だというのに、甘い感覚にぞくりとする。
 そうだ。これは甘い花蜜に誘われる感覚に酷く似ている。
 花の蜜に誘われる蜜蜂のように、食すだけではない目的を持って臨む感覚だ。
 私にとっての蜜は姫様だと思う。
 姫様の事を思い出せば、より一層甘い香りが思考を支配していく。

 気持ち良い、心地好い。
 体の力が抜けるような感覚。
 足元が不安定で揺れているような錯覚。
 一瞬でも気を抜けば、私の世界が滲んでぼやけてしまいそうだ。

 何故こんな気持ちを藤見家の従者は与えてくれるのだろう。
 突っ掛かるような態度を取ってしまったが、私の事を悪く思っていなかったのだろうか。
 売り言葉に買い言葉だったが、彼は彼なりに私の言葉を噛み砕いた解釈をしてくれたのだろうか。

 互いに第一印象が悪かっただけなのか。
 私が藤見家に対して悪態なだけだったのか。
 花姫様を取られると思って躍起になっていただけなのか。

 こんな心地好い空間を味わわせてくれるのだ。
 ほんの少しくらいなら気を許しても良いのかもしれない。
 私が誤解しているだけで藤見家は良い鬼なのかもしれない。

 東条家が藤見家に興味を抱くのは当然、だ……。
 花姫様が藤見家の鬼に心惹かれるもの仕方、な、い……?
 姫様の婿に、藤見家の鬼が推されるのも理解でき――……理解、で……?



 ……違う。違う違う違う、騙されるな。
 そんな馬鹿な事、あるはずがない。
 どのような名家であろうとも、東条家を掌握できるはずがない。
 どのような優れた鬼であっても、姫様を翻弄させたりはしない。
 どのような志を持った鬼であっても、婿は厳選しなくてはならないのだ。

 それに今の状況を考えろ。藤見の従者が善意で私に蜜を寄越すはずがない!
 流されるな、流されるな私。これは私の思考を蹂躙(じゅうりん)し破壊し、切断しているのだ!!


 トプンッ……、と意識が全て無という闇に囚われる前に唇を強く噛んだ。
 一瞬だけ黒く滲んだ世界は、痛みによって鮮明な色を取り戻した。
 目に力を入れて開閉を何度か繰り返せば、目の前に迫る藤見家の従者の顔が視界いっぱいに広がっていた。
 次いで聞こえてくるのは、忌々しそうに鳴った舌打ち。

「……失敗か。意外にも意志が強いな」
「貴方、な、何を……!」
「さぁ、何をされると思いましたか?」

 くくっ、と含み笑いを終えた彼の笑顔は人の良さそうなそれだった。
 髪に触れていた指先が名残惜しそうに離れて行く。
 長い指は暫く私達の間で浮かんでいたけれども、ゆっくりと下ろされた。
 触れられていた部分が微かに熱い。
 じわじわと残る熱を振り払うように、強く頭を振れば意識もハッキリとした。
 もう一度目の前の彼を見れば、耳の奥で笑うような声が聞こえた。
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