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へっぽこ鬼日記 幕間七(二)

幕間七 (二)
「――……長話がすぎましたね」

 改めて先程の行動について問質そうとすれば、周囲に目配せするように横を向く従者。
 持っていた文を懐に戻し、詰めていた私との距離を一歩分だけ離れる。
 再び開いた距離は三尺ほどに戻っていた。

 何事かと耳を澄ましてみれば、真っすぐ近づいてくる足音が耳に入った。
 目の前の藤見家の従者が丁寧に頭を下げる姿から、足音の主が誰なのかは容易に理解できた。


「お帰りなさいませ、恭様。顔色が良くなったようにお見受け致しますが、ご気分は?」
「あぁ、良い気分転換になった。ところで陽太、随分と話し込んでいたようだが……こちらの方は?」

 足音の主は、私が本来の目的を果たすために訪ねる予定だった『藤見恭』。
 たった一日にして東鬼の鬼姫である花姫様を虜にしてしまった得体の知れない鬼。
 背を向けたままでは無礼なので正面を向いて頭を下げた。
 これが名家の出身で婿候補などではなければ絶対に取らない行動なのだが、今は仕方なしに行う。

「恭様から花姫様への文を、わざわざ預かりに来て下さった親切な女中殿です」
「っ……花姫様の傍仕えをしております、千代でございます」
「それは申し訳ありません。陽太、花姫様への文は部屋の中にあるのか?」
「いいえ、花姫様への文はここに。丁度、女中殿にお渡しするところでした」

『わざわざ』という部分を他の語彙(ごい)より強調して告げる従者に憎悪が増した。
 文を渡す気など全く無かったくせに、と舌打ちしたい気持ちを抑える。
 そんな従者の対応に注意どころか疑問すら抱かない無能な主である藤見様にも。

 従者から藤見様へ渡った文は何度見ても敬意の欠片もないモノだ。
 文のやり取りは大抵の場合、文箱に入れるのが礼儀。
 藤見様が持つ文のような文の形式は無礼ではないが、対等でもない。

 名家の出身である彼がその事を知らないとは思わないが、特別な意味も感じる事ができない。
 やはり名だけの鬼なのだと、鼻で笑いそうになるのを抑えていると不意に藤見様が文に花を添え始めたではないか。
 文に花を添える風習は古いモノだが今でも珍しくはない。
 ただ、移り変わる流行りによって今はどちらかと言えば疎遠になりがちだ。
 花を添えるより文箱を美しく飾ったり、文と共に贈物をする事が目立つはずなのに。

 藤見様は敢(あ)えて添花を選択した。
 質素な文と同じくらい質素な花が、目立つ事なく風に揺れている。
 そんな様子を満足気に見ている藤見様に、根本的な疑問が沸き上がってくる。
 ……藤見様は、この花の意味を理解して添えているのだろうか、という疑問が。

 白く小さな花を多く咲かせた多年草の名は、霞草(かすみそう)。
 文に添えられているのは花が三つほどしか付いていないモノだが、確かに霞草だ。
 単体では控えめな印象しか抱かせないが、花束の中で他を美しく魅せる重要な役者。
 相手のどんな花をも惹きたててしまう姿から、『愛らしく清い』という意味を持つ。
 清楚なモノを愛(いつく)しみたいという風にも受け取れる。

 また、情景を霞掛けて見せる姿から夢の中で咲く花を連想させる。
 つまり、姫様との逢瀬を夢での逢瀬のように切に願っているようにも受け取れるのだ。
 反対に夢で逢う事が容易でないように、現実でも簡単には逢う気がない事を示すようにも。

 たった一輪にして、多様な意味を持つ添花に嫌な予感がした。
 この花を手にして一喜一憂しながら翻弄される姫様が容易に想像できる。
 添花の意味を前向きに解釈しては、胸をくすぐる恋慕の情に頬を緩める美しい姫様。
 逆に意味を後向きに解釈すれば、逢えない彼に更なる恋心を募らせ憂いを帯びる愁眉。


 罠だ。
 これは姫様に仕掛けられた明らかな罠だ。

 文箱を使っていない事も計算の内だというのか。
 この文が姫様に届き、再び姫様が返事の文を出す時を試すつもりだ。
 藤見家というより、『藤見恭』に姫様がどのような対応を行ってくるかを。
 恐らく、同じ形式の文を返してしまえば姫様の想いは闇に容赦なく投じられてしまう。

 本来ならば差出側の文箱を使って返事するはずなのに、藤見家はこんな状況でも優位に立とうとしているのか。
 その策略にさえ気付く事無く、姫様は心血を注いで文を書き、想いを馳せて桜が描かれた文箱を使うのだ。
 例え策略に気付いたとしても、自ら踊らされようと歩みを進めるであろう。
 足が縺れても踊り続け、足が引き摺ってでも近づこうとする姫様を見る気だ。

 そしてボロボロになって崩れ落ちそうな姫様に、ここぞという場面で救いの手を差し出す。
 きっとそれは、桜の文箱ではなく『藤』が描かれた文箱。
 藤の文箱を使う事を許された姫様は、また踊らされるのだ。それは半永久的な繰り返し。


 もしかすると、私の推測は間違っているかもしれない。
 無能に見えて皆が評価するように有能なのかもしれない。
 有能に見えて皆が過大評価しているだけで無能なのかもしれない。
 有能だと決めるのは早いと判断し、無能だと解したがそれも即決なモノだ。
 つまり判断を下すには決定的な決め手が足りていないという事だ。

 それならば、私は決め手を見極める必要がある。
 何が決め手になるのかと問われれば明確な回答はできないが、言動を見極める事に変わりはない。
 特に言質(げんち)は重要。虚言だけの法螺吹(ほらふ)きであれば愚の骨頂だ。

 そして心を知りたければ行いを見極めれば良い。
 行いと心は得てして違うモノだと偉人は言うが、私はそうだとは思わない。
 この考えは何度も何度も正すように言われてきたが、未だ偉人の言葉に真実味を見出せない。
 心の汚い部分は上手く隠しても、おのずと引き寄せられてしまうものだ。
 だから私は逆の行いを信じる。曝け出される負の部分を。

「――……藤見様。一つ、お聞きしても宜しいでしょうか」
「質問によりますが、私でお答えできる事なら。何でしょう?」
「藤見様は、花姫様の事をどう思われていらっしゃるのでしょうか」
「何故、貴女がそのような質問を?」
「貴方の言動には貴方の本意が、心が見えません。戯れならば花姫様のお心を弄ぶような真似はお控え願います」

 ここから先は賭けだ。賭けるのは私の命。
 無礼な言動で煽り、感情的になる藤見様の本音を見極める事ができれば勝利。
 反対に、無感情で底が計れない結果に終わってしまえば私の負けになる。
 最悪の場合は、無礼を働いた事により物言わぬ骸(むくろ)にされてしまう事も避けられない。
 それはそれで『藤見恭』という鬼の底の浅さが見えるので良いとも言えるが。

 軽蔑の念を込めた眼で睨み上げれば、小首を傾げた藤見様が私を見返していた。


「女中殿、お言葉が過ぎるのではありませんか?」

 足元から這い上がるような低い声は、傍に付いている藤見家の従者のもの。
 私の態度に苛立ちを隠そうともせず今にも首を狩り落としそうな空気を発している。
 チリッ……、と身を刺すような殺気に戦闘態勢を取ろうとするが、藤見様の制止により解かれてしまった。
 しかし藤見様の視線は私に注がれたままだ。
 まるで心の底を探るような目に、全てを見透かされてしまいそうな気持になった。
 でもここで屈するわけにはいかない。

「心のままに行動しない私が花姫様を軽んじているように見える、という事ですか」
「私はそのように受け取らせて頂きました……!」
「本意というものは、他人に読み取らせるものでは無いと思いますが」
「っ、では、やはり花姫様の事を……」
「それを貴女に答える必要がありますか?」

 素直に返事をもらえるとは思っていなかったが、質問に質問で返す事は卑怯だ。
 質問の意図を理解しているのか、口調も表情も変えないままの藤見様がわからない。
 従者のように、殺気立ってしまえば楽に意を知る事ができるというのに。

「花姫様が私の事をどのように思われていらっしゃるのか、それを千代殿が包み隠さず話して下されば私もお答えしますよ」
「っ……!」
「もしくは、花姫様とお話する機会を頂きたいですね。他の婿候補の方々との逢瀬で、ご多忙な花姫様とお話する機会を」

 私が望まない方向に事を進めようとする藤見様が憎く思えた。
 決して自分の手で物事を動かさない。ただ誘導しているだけ。
 知りたければ等価に値するモノを提示しろと私に告げている。
 それは藤見様にとって対等に見えて、私には何より引き合いに出したくないモノ。
 そう言ってしまえば私が取引に応じない事を知っているのだ。
 姫様の意志ではなく私が個人で暗躍している事を知っているのだ。

 簡単に先手を打たれてしまった自分に怒りが込み上げてきた。
 そして感情を読み取る事ができない藤見様の微笑みに、悪寒が走った。
 ただ普通に微笑んでいるだけなのに、従者の冷笑など比ではなかった。



 姫様、このお方は蜘蛛でございます。
 ひらひらと空を舞う蝶のような姫様を巧妙な罠で捕まえる蜘蛛。
 この行動は計算し尽くされたもの。
 相手の受け取り方次第で道が分かれるも、結果は全てたった一つに向かう。
 姫様の心を更に虜にしてしまうという結果に。
 さもそれが自然の理であるかのように、簡単に導かれてしまう。

 赤毛の従者が言った、『一を得れば百を導く』という言葉の意味が見えた気がした。






「陽太、千代殿はお帰りになるそうだ」
「――はい、お送り致します」

 拳を袖に隠して強く握っていた事さえ、見通されていたのだろう。
 流れるように文を渡してきた藤見様に逆らえるはずもなく、ごく自然に受け取ってしまう。
 藤見様の指示で私の傍に寄った従者に促され、踏み出した一歩が小さすぎて自分に笑いたくもなった。

「あぁ、そうだ。余計な事かもしれませんが、貴女は少し口の利き方に気を付けた方が良い」

 背を伸ばしていない私の姿は惨めだろう。
 追い打ちを掛けるような言葉が柔らかく心に浸透していく。
 そしてその声は静かに波紋のように広がった。

「頭の良い貴女ならば、この言葉の意味がわかりますね……?」

 次は無いと思え――。
 音にしなくても伝わってくる命の終わりを告げる言葉。

 許され、生かされた。
 不敬罪で消されても不思議ではなかった命を、敢えて免罪された。
 無音の圧力でそれを私に理解させ、念を押している。
 今回だけが特別で、次は容赦なく鉄槌を下す事を先に布告しているのだ。
 私の主である姫様にも今回の件は伏せておいて下さる事も、慈悲として…。

「花姫様に宜しくお伝え下さい」
「……賜りました」

 宜しくなど、言うものか。
 交わした言葉の内容など、誰が話せようものか。
 姫様の想い人である藤見様に取り返しのつかない無礼を働いたなど、言えるものか。

 一刻も早く姫様の元へ戻りたい。
 この、蜘蛛のように巧妙な罠を仕掛ける鬼に対しての策を練りたい。
 最初に踏み出した一歩とは明らかに足取りが違っていたのは、藤見様の気迫に屈したのではないとだけ心の中で呟いて、その場を後にした――。






 藤見様の指示で私の隣を歩く藤見家の従者は何故か足音がしない。
 主である藤見様と共に居る時は音がするので、使い分けているようだ。
 忍ではないのに、忍と同じような技量を持つ従者が気になる。
 何度か発した殺気や動きから、只者でない事は予測できるが計るまでに至らない。

 そんな私の探るような視線を受けて、前を見たまま従者は口を開いた。
 視線を合わさないのは、私と会話をする気が無いからだろう。
 その証拠に、紡がれる言葉は会話ではなく忠告だ。

「我が主は貴女の無礼を見逃された。しかしそれは貴女に情けを掛けたのではありません。『花姫様の女忍』という肩書きに慈悲を下さったのですよ」
「肩書き?」
「少なくとも、それだけの想いを我が主はお持ちです」

 想い、という言葉が何を意味するのかは分からない。
 そして意味を知りたいとも思わない。知るのが恐ろしいのだ。
 姫様への想いが本物である事を従者が告げているのか、他の意味なのか。

 今はまだ曖昧なままで事が進んで欲しい。
 一方通行だと思っている姫様のまま、目立った進展が無い方が良い。
 この気持ちは、姫様の忍としても友人としても裏切りに値する行為だけれども。

「これ以降は、よく考えてから行動なさって下さい。傀儡(かいらい)にするつもりでしたが、主が生かしたので諦める事にします」
「か、傀儡ですって!?」
「えぇ、慣れぬ地では手駒が不足して面倒だったのですよ。それに東条側が藤見家の事を嗅ぎ回っているようなので、小さな抵抗を……」

 姫様への罪悪感に押し潰されそうになっていると、従者から信じられない言葉が聞こえた。
 悪意など全く無い、という顔をしているが言っている事は外道だ。
 私を傀儡にしようなど、よくも平然とした顔で言えるものだ。
 傀儡など、生きているだけの人形ではないか。
 意志も持たず、命令されるがまま働くだけの存在。
 催眠に似た鬼道術で支配する事が可能だが、継続に負荷が大きいので使用する者は少ない術なのに。
 では、客室の前で甘く誘われた感覚は傀儡への導きだったというのか。
 一瞬だけ闇に沈んだ感覚を思い出し、全身に鳥肌が立った。


 何だ何だ、この主従は。
 少しは罪悪感というモノを持ち合わせていないのか。
 自分の事を棚に上げているのは理解しているが、こんな主従を野放しにして良いはずがない!

 やはり姫様を渡す事はできない。
 この主従が東条の地を踏んでいる事も対処しなくてはならない。
 むしろ、私がこの主従と東条の地で同じ空気を吸いたくないのだ。


 気が付いたら逃げるように足を動かしていた。
 早足だった速度は、次第に駆けだす程度まで上がっていた。

「千代殿、部屋までお送り致しますが……」
「二つ先の角を曲がれば姫様付きの侍女が居りますので結構です!」

 少し離れた位置から聞こえた従者の言葉に、叫ぶように返事して一つ目の角を曲がる。
 そのあとは全力で走る事に徹した。
 押し殺すような笑いが耳に入ったが、聞かなかった事にした。

 頭の中で警戒音が煩い程に鳴り響く。
 姫様に対しての音なのか、私の身に対しての音なのかは不明だが。
 とにかく今は、姫様の元へ戻る事だけを最優先にして足を動かし続けたのだった――。



◆◇◆



 奥御殿にある花姫様のお部屋に戻る道中で再び忍装束へ着替えた。
 先を歩いていた姫様付きの侍女は軽く挨拶を交わしただけで追い抜く。

 長い廊下を抜け、幾つかの角を曲がれば目的の場所へ辿り着いた。
 相変わらず開け放たれたままの入口付近には、心配そうな顔をした侍女が立っている。
 恐らく、未だ来ぬ四通目の文を待っているのだろう。
 舌打ちをしたい気持ちを抑えて、侍女の隣をすり抜けた。もちろん、四通目の文を自分が持ってきた事を小声で告げて。

 文を渡すべく室内を見渡せば、姫様は硯箱を広げたままの机の前に座って傍らに控えた小萩様と話をされていた。
 私に気付かれた姫様は、話を中断して困ったような笑顔を向けて下さった。

「もう、どこに行っていたの?」
「……周囲を巡回しておりました」

 催促も含めて、という言葉は胸の中で小さく呟いた。
 無礼を働いた事は見逃して貰えたが、結果的に良い印象を与えなかった事も事実だ。
 それを姫様に報告するべきか迷ったが、言えずに口を噤んでしまう。

 そんな私に対して、優しい笑顔を見せて下さる姫様に心から癒される自分が居た。
 しかし、今日の笑顔はいつもより少しだけ元気が無いように見える。
 ふと視線を硯箱に向ければ、乾いてしまっている墨と筆が確認できた。

「姫様は何を……?」
「文を下さった方々にお返事を、ね。全て明日のお誘いだったから時間を分けて逢う事にしたの」
「……道具を片付けないのは何故ですか」
「えっと、も、もう少しだけ待ちたいと思って」

 ――何を、とは聞かない。
 聞かなくても答えは分かり切っている事だから。
 私の懐にある、四通目の文を諦める事無く待っている。

 三通の文が届いてから随分な時間が経過しているのに、まだお待ちになると仰る。
 墨に濡れて湿っていた筆が固まり、容易に解れぬようになるまでの時間を待っているはずなのに。
 本当に文が届くという保証もないのに、一縷(いちる)の望みに賭けて待つ姿が切なかった。


 早々に諦めてくれていれば良かったのに。
 そうであれば、自分はこれほど懐に忍ばせた文を出す事を躊躇わなかったのに。

 あんな得体の知れない鬼に姫様を渡したくない。
 あんな得体の知れない鬼に東条の地で大きな顔をされたくない。
 預かった文を渡す事を避けてしまおうか。
 そんな考えが浮かび上がるが、出来ない事なので溜息を吐いて懐を漁った。
 入口付近で文を待っていた侍女に、自分が文を持って来た事を告げてしまっている。

「藤見恭様より、文を預かって参りました」

 沸々としか怒りの感情を何とか押し殺して告げた言葉と共に姫様の傍らに寄り、文を差し出せば白い頬が瞬く間に薄い桃色に染まる。
 文箱ではなく厚紙に包まれただけの質素な文だが、姫様は幸せを噛み締めるように手を伸ばされた。
 掛けられる弾んだお声さえも、今の私には悲しみを増す意味しかない。

「千代が藤見様にお願いしてくれたの?」
「いえ、私が伺った時には既に従者の方が姫様に文をお出しになる所でございました」
「そ、それじゃぁ藤見様は文を書いていて下さったという事?」

 嬉しそうに文を開く姫様の姿に、また胸が痛んだ。
 そわそわとしている侍女達と同じような気持ちは抱く事ができない。
 私は今まさに、後ろめたい事を姫様に隠しているのだから。

 姫様の手に渡ったのは文箱に入っていない、質素な文のみ。
 藤見家の従者が懐から取り出した時の状態のままだ。
 私の手に渡るまでの間に、姫様の想い人により添えられた花は無い。

 彼の意図通りに姫様を翻弄させてなるものか。
 多年草の意味を解した姫様がより想いを募らせる事だけは妨害させてもらう。
 これは咎められるべき行為だけれども、知られるまで隠し通したい罪。
 そう、それは、共に授かったはずの多年草を懐に残したままという大罪――……。



「――っ……」
「姫様?」

 しかし、文を開いて内容を噛み締めるように読まれていた姫様が、息を呑むようにして硬直した。

「な、何か問題でも……」

 ドクン、ドクン、と心臓が嫌な音を立てている。
 先程とは一転して、今にも泣き出してしまいそうな姫様に小萩様が声を掛けて文を手に取った。
 小萩様の隣に移動して文を一緒に拝読させてもらえば、冷や汗が全身から沸きだした。
 驚きで心臓が止まりそうになった。息は確実に数回分は止まったはずだ。

 文で述べられているのは定形化された簡単な挨拶。
 そして姫様のお呼びが掛かれば参じるという一文のみだった。
 質素な文の見た目と同じく、文の内容も質素すぎたもの。
 思いやりも敬意もなく、赤の他人に要件を伝えるだけの文。


 姫様の心に釘を打ち込むような所業に、怒りよりも己の罪を激しく悔やんだ。
 添花を隠すなど、何と馬鹿な事をしてしまったのか、と。

 文には姫様を喜ばす甘い言葉が綴られているものだとばかり思っていた。
 しかしそれは間違いだった。
 文には甘い言葉を綴らず、敢えて突き放すような文面が選出されていたのだ。
 姫様の想い人である彼にとっては、添花が示す意味の方が重要だった。

 添花の持つ多様な意味を姫様に考えさせる事が、本来の目的だったという事。
 そういう視点で考えれば、文が渡る事を妨害できたとも言える。


 ……否。
 恐らく、これも彼の思惑通りに違いない。
 添花が渡らぬ事で、絶望と不安に圧し掛かられながらも想いを募らせる花姫様を想定している。

 そうでなければ、添花が他者によって失われ易くしているはずがない。
 文箱を使い、その中に花を入れれば良いだけではないか。
 妨害の相手が私でなくとも、先を読んでいたというのか。
 これだけ突き放しても、縋ってくるであろう絶対的な自信があったというのか。

 そんな馬鹿な、と声に出して叫びたい。
 もはや驚きを通り越して不愉快だ。



 唇が切れてしまいそうなほど噛み締めて文から顔を上げると同時に、小萩様の手にあった文が再び姫様の元へと戻される。
 私が余程酷い顔をしていた為か、姫様は首を横に振って笑って下さった。
 サラサラと長く黒い髪が揺れ、姫様の美しさを引き立たせる。


「これだけで、良いの」

 私や小萩様、心配そうにしている侍女達を安心させるための言葉は小さく震えていた。
 ご自分に言い聞かせているようにも聞こえる言葉が、事更に切ない響きをはらむ。


「嫌われても仕方ない事をしたのだから、今はこれだけで良いの」
「姫様、でもこの文は……」
「わたしね、これだけの言葉でもすごく幸せなの。ほんの少しの繋がりが持てただけで安心しているのよ」

 私の言葉に被せるようにした、少しだけ早口な姫様の声は完全に涙声だった。
 確かに、文が届かなかった結末より幸せなのかもしれない。
 確かに、想い人から約束する気がないと面と向かって告げられるより幸せなのかもしれない。

 でも、これは違うと大声で言える。
 こんなのは姫様の幸せではないと、大声で叫ぶ事ができる。
 本当なら白い多年草から多くの意志を汲んで幸せに浸るはずなのに。

 私は知っている。
 白い多年草によって多様に広がる幸せを秘めている事を。
 姫様はもっと幸せになれる。
 姫様の友人だと恐れ多くも名乗らせて頂いている私が、妨害しているだけなのだ。
 切なくて悲しくて、惨めで情けない。
 全部私のせいだ。私が姫様を渡したくないから、仕組んだ。

 だから、だからそんな……――。


「そんなっ、そんな泣きそうなお顔で仰らないで下さい!」
「千代?」
「姫様は、姫様は心で泣いていらっしゃる!」
「……泣きそうに見えるのは、文が嬉しいからだわ。大丈夫、これは嬉し泣きよ。千代こそ泣きそうな顔をしないで?」


 言いたくない、隠した添花を渡したくない。
 でも本音を隠してまで、小さすぎる幸せで微笑まないで欲しい。

 早々に暴かれてしまう私の罪を、姫様の想い人は笑っているのだろうか。
 仕掛けた罠に姫様を誘う手足となった私を、藤の地から参じた鬼達は馬鹿にしているのだろうか。

 それでも、それでも私は姫様が大切なのです。
 姫様が大切で、ずっとお傍に置いて欲しくて、誰にも渡したくないのです。

 姫様には幸せで居て欲しい。
 それが私の一番の願いのはずなのに、その幸せを妨害してしまう。
 浅はかで薄暗い私の欲で、姫様という光を覆い隠そうとしてしまう。

 でも、それでは姫様が闇から這い出せない。
 私は姫様が幸せになるための支えになる必要があるのだから。



 力の抜けてしまっている自分を叱責し、丸くなっていた背をピンと伸ばす。
 深呼吸を何度か繰り返しても、震える手を止める事はできなかった。
 それでも腕に力を入れ、時間を掛けて懐から白い多年草を取りだした。
 姫様に差し出せば、困惑したような濡れた瞳に説明を求められる。


「藤見様から、っ…姫様に、こちらもお渡しするようにと……」
「これは……、――霞草?」
「この花の意味を、姫様はご存じですか?」

 受け取る姫様の手は小さく震えていた。
 多年草を渡す私の手は、もっと大きく震えていただろう。
 それに気付いた姫様は、両手で包み込むように私の手を握って下さり、花を受け取られた。

 もう一度、手元の文を読み返して多年草を見る姫様。
 繰り返して文を読み、小さな白い花を指先で揺らして少しずつ笑顔を取り戻す。
 その姿により哀愁漂っていた空気は消え、薄桃色に染まっているような錯覚を引き起こさせた。

 姫様は多年草の意味をどのように受け取ったのだろうか。
 霞み掛かる夢の中で、逢瀬を望まれていると解釈しているのだろうか。
 多年草のように清く美しい姫様を、想い人が少なからず気に掛けてくれていると解釈したのだろうか。

 たった一輪の花で、こんなに世界を変える事ができるなんて知らなかった。
 他の花と比べて質素な小さな花でも、こんなに想い溢れる気持ちを表現できるなんて知らなかった。

 落ち着いていく姫様の気持ちと同じように、私の後悔も少しずつ静まっていく。
 小萩様がホッと息を吐いた瞬間、周りの侍女達も姫様を見て笑みを零し始めた。
 彼女達の視線を追えば、多年草を見て幸せそうに笑う姫様の姿。

 ポロッ……と、一滴(ひとしずく)だけ涙を零された姫様は、多年草に触れるだけの口付けを落とされた。


「ねぇ、千代。さっきのわたしはね、嬉しくて少しだけ泣きたくなっただけなのよ」
「存じ上げております、姫様――」

 多年草を大切に握るその姿から、今は本心で嬉し涙を流している事が伝わる。
 白い花の姿を見る前までは、心の奥底で切なさに押し潰されそうになって泣いていた事も。

 姫様を知れば知るほど近くでお守りしたいと願うようになった。
 それと同じように、姫様も彼を知れば知るほどもっと好きになっていくのだろう。
 文を待つ時間も文の酷薄な内容も、そのもどかしさも全て幸せだと感じていられたのだから。


 でも未だに私は素直に応援する事はできない。
 自分の全身全霊をかけて守ってきた大切な姫様を、任せるだけの決め手をあの男鬼に見出せない。

 そう思うと、胸に暗く重いものが溜まっていく。
 後悔しないか、という問いを自分に投げかける。
 後悔などしない、と即答する自分が居た。

 申し訳ありません、姫様。
 私は姫様の想い人を許し切れてはいないのです。
 だからどうか、これから先に起こす私の行動に気付かないで下さい。

 貴女が大切なのです、主にして唯一無二の親友が。
 病気めいた想いだとは自分でも理解しております。
 でも、それでも私は疑いの目を向ける事を止められないのです。

 唯一無二の親友にして、守るべき我が主。
 命を賭けてでもお守りすべき我が主にて、最愛の親友。

 私は姫様の影。
 影は光は無くては生きて行けないのです。
 影は光に群がる事でしか、己の存在意義を伝える術を持たないのです。

 それでもきっと、私の光である姫様は更なる光を求めるのでしょう。
 闇として覆う私を、その光が姫様に絶え間なく降り注ぐようになるその日まで。

 私を姫様のお傍に置いて下さい。
 私に姫様をお守りする任を与えて下さい。

 願わくば、影ではなく姫様の親友である事を望めるようになるまで――。

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