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へっぽこ鬼日記 幕間十(二)

幕間十 (二)
 そう覚悟して臨んだ松倉様との逢瀬の席は、顔合わせの場で感じたような印象を消し去るほど落ち着いたものだった。
 金色の衣装を纏っていた松倉様達に、昨日は何とも言えない気分を味わった。
 しかし、今日は一変して落ち着いた深緑の装いの松倉様。昨日の今日なので警戒心は易々と溶けないけれど、印象が変わるのは確かだった。

 それに加えて、贈物と称して差し出されたモノにわたしの気が引かれた事も原因の一つ。
 衣装や装飾品とは違い、異性への贈物としては風変わりなそれは小萩や侍女達の興味も誘っている。

「これは恋物語の一種で、男女の色恋沙汰が深い面まで描かれておりましてのぉ。好き嫌いが分かれる書ではおじゃりますが、麻呂はこの泥臭さも恋情の一つと思いますのじゃ」
「この書は市井(しせい)で流行っているのですか?」
「流行ると言うより、出始めたと申した方が正しいでおじゃ。姫には関係のない話かもしれませぬが、知識を持っておいて損にはなりますまい」

 松倉様の手によりパラパラと書物の頁が捲られ、パタンと閉じた表紙には聞き覚えのない題。
 馴染みのない書物に、うずうずと好奇心が刺激された。恋愛系の書物となれば尚更。

 こう言っては何だけど、松倉様は意外にも説明がお上手な方だった。
 わたしに下さった書物の前に読まれたという物も若い世代向きだと話の幅を広げて下さる。
 物語の感想よりも、登場人物を客観的に捉えている言葉から考察の一種として恋愛系の書物に手を出しているのだと推測した。
 きっと、松倉様の頭の中には恋情の話も色々理論立てて解釈され、結論づけられているのだろう。
 そう思うと、零れ出る簡潔で的を射た説明にも納得できた。

 そうして半刻ほどの時間を松倉様と過ごし、会話が一度切れ、息をついた頃。
 ドタドタと大きな音を立て次第に近づいてきた足音が、わたし達の居る茶室の前で止まった。
 誰だろうという気持ちで首を傾けると、訪問者に名を尋ねようとして口を開きかけた小萩が目に入った。
 しかし、そんな小萩より早く茶室への出入り口である襖が開き、大きく胸を張った戸館様が断りも無く足を踏み入れて来られた。

 室内に居るわたしと松倉様を見て、豪快に笑う戸館様。
 そして、その戸館様を見て特に驚いた様子もなく、乱入された形になった松倉様は何食わぬ顔でお茶を啜っている。
 てっきり、戸館様の突然の訪問で気を悪くされるとばかり思っていたのに。
 困惑するわたしを余所に、席を進めてもいないのに松倉様の隣に座ってしまった戸館様が声を上げた。
 まるで、誰かに疑惑や咎める言葉を言われるのを防ぐかのように。

「はっはっは、突然の訪問で驚かせてしまいましたかな? 実は逢瀬の時間まで待ち切れず、気付けば足を運んでおりまして。いやぁ、感情に突き動かされるなど私らしく無いのですが、こればかりは仕方ありません」
「戸館殿、麻呂は気にしておじゃりませぬのでご一緒してはどうかのぉ? その変わりと言っては何じゃが、麻呂ももう少し長居をさせて欲しいのじゃが」
「おお、おお、構いませんぞ!」

 婿候補の方々に設けた時間をどのように費やすか。それは当人同士が納得していれば特に問題が起こらない事なので、わたしは口を出さなかった。
 部屋に訪れた戸館様の態度は失礼なものだったけれど、追い返すのも気が引ける。心の中で松倉様と過ごす時間と、戸館様と過ごす時間を天秤にかけてみると傾くのは前者。
 でも、戸館様と過ごす時間と、松倉様と戸館様が同席して過ごす時間を比べると後者に傾く。
 つまりわたしは戸館様と二人きりで過ごす時間を少し警戒しているようだった。

 話をしていれば、松倉様のように印象を変えることが可能なのかもしれない。
 しかし、先ほどの戸館様の茶室への訪ね方を考えると印象が覆るとは思えなかった。
 だから、少しの不安を抱えながらも、当初の予定とは違った逢瀬の場に意見しない選択をしたのだった――。


 けれども、結局その選択は間違いだったと気付かされる事になってしまった。
 戸館様が来てから松倉様は相槌を打つ程度の言葉しか口にしなくなり、絶えず戸館様の声が室内に響く。
 言葉巧みに東条の地を繁栄に導く方法を話す戸館様は、他者が口を挟む隙を与えない。
 何とか相槌だけを返しながら話をわたしなりに解釈してみたけど、それは商業が主だから可能な事であって国を統べる方法とは違っているように思えた。
 こういった話は同席している松倉様の方が得意のはず。
 何かしら口を挟んで欲しいと思いながら視線を送っても、松倉様の視線と交差することはなかった。
 随分と前に空になっている茶器を掌の上で遊ばせるだけで、戸館様の話を聞いているのかも怪しく思えてきた。
 次から次へと話題を変える戸館様の言葉を、巳三つ時で小萩が一度遮り、休憩を取る事になった。
 郷田様と約束している午の刻まで間が無いから、松倉様も戸館様も良い顔をしないと思っていたけれど、意外なことに簡単に頷いたお二方。
 小萩に連れられ、身なりを整える為に別室へ移る時、小萩の口から小さな溜息が洩れた。
 その時は溜息の意味が分からなかったけれど、茶室に戻ってすぐに現れた郷田様と戸館様達の会話を聞いて理解できた。

 ――そう。小萩は既に気付いていたのだと思う。
 松倉様が戸館様との同席を許した時と同じように、郷田様が現れても同じになる事を。
 戸館様が現れた時とほぼ変わらぬやり取りが行われたのを目の当たりにして、近づいているはずの至福の時が何故か遠退いていくような気がした――。



◆◇◆



 松倉様と戸館様だけの場合、松倉様は口を閉ざしていたので戸館様が一方的に話をしている状態だった。
 それが郷田様が加わる事で、戸館様と競うかのように話題を次から次へと変えてくる状態になってしまい、楽しいとは言い難い時間が過ぎていく。
 戸館様がわたしへの贈物の茶器を出して珍しさを語れば、郷田様は煌びやかな装飾が施された小太刀を出して鍛冶技術について誇らしげに語った。
 確かにこの茶器や小太刀を含む、頂いた品はどれも高級なものだと思う。誰かがそれを求めても簡単には手に入らないだろう。
 だからと言って、必ずしもわたしの興味を引くとは言えない。疑うわけではないけど、彼らが発する言葉と同じでそこに気持ちが見えなかった。

(そういえば……)

 藤見様から何か献上品があったとは聞かなかったと記憶している。
 藤見の一族はもともと贈物を滅多にしないと後から小萩から聞いたけれど、贈物の趣向から藤見様の好むものへ繋がる情報すら得られないのは残念だと思った。

「やはり姫君は何度お逢いしても大変美しゅうございますなぁ」
「噂には聞いておりましたが、実際にお目通り致すと感極まるモノがありまする!」
「今日のお召し物もよくお似合いでいらっしゃいます。見事に着こなされた衣も、衣を手掛けた職人も本望でございましょう」
「……そう、ですか」

 容姿や装いを褒めて下さる戸館様と郷田様に相槌を打ちながら、わたしは自分の打掛に視線を落とす。
 選んだ打掛は薄緑色と白ぼかしの生地に、雲取り菊と藤の花が施されたもの。
 普段と違う装いは自分を必死に大人に見せようとする足掻きに近く、苦い息を漏らした。

(藤見様も同じように思って下さるかしら……?)

 あの熱のこもった瞳で見つめられることを想像しただけで身体が熱くなる。
 藤の花の模様に手を伸ばして触れるだけで、藤見様との心の距離が縮まったような気がした。
 あと少し。もう少しで藤見様にお逢いすることができる。
 その名のつく花が描かれた衣を身にまとったわたしを見て、どんな言葉を下さるのか。
 あれだけ長いと感じていた時間は思いのほか、あっという間に過ぎているように感じる。
 それが、いかに逢瀬の時を心待ちにしているのかを証明していた。




 ――けれども、まもなく未の刻という時に問題は起こった。
 
「戸館様、郷田様、松倉様。恐れ入りますが本日は以上でお開きとさせて頂きとうございます。皆様、大変有意義な時間を過ごされたご様子。私共も名残惜しゅうございますが――」
「お前達、女中を楽しませる為に来たのではないわ。それに姫への贈物はまだ残っている。逢瀬の最中に口を挟むでない」
「戸館様のお気持ちは大変嬉しく思っております。ですが、姫様にも予定がございます。これ以上の逢瀬はお控え頂き、日を改めて――」
「女中頭と言えどもお前は使用人のはずだ。東条の客であり、婿候補という地位にある私を愚弄し意見する気か!」

 逢瀬の終わりを告げた小萩に声を荒げたのは戸館様。
 どちらが正しいかなんて火を見るより明らかなのに、よくわからない自論を並べて捲し立てて小萩の口から出る正論に対抗していた。
 一方的に騒がしい会話が交わされる度に増していく小萩の怒気に、わたしや控えている侍女達の方がハラハラする。
 尤もな言い分を鋭く指摘する小萩に比べて、大声で駄々を捏ねているだけの戸館様は次第に反論できない状態になった。
 しかし、言葉の節々で感じた『身分の違い』という戸館様の考えは非常に危険だと感じた。
 帯刀(たいとう)こそしていないものの、その手に持つ黄金色の扇で今にも小萩を殴る可能性がないと否定し切れず、心配だった。

 これでは埒が明かない。
 身分が低いと認識している小萩に告げられているのが癪ならば、わたしが直に同じ言葉を紡ぐ事で終焉へ向かわせよう。
 いつも小萩に頼ってばかりでは、いざという時に困るだろう。
 その『いざという時』が今なのかもしれないが、今後のためにもと意気込んだ。
 けれどそれは足早に茶室に現れて小萩へ用件を伝えに来た女中により、虚しく消沈させられてしまった。
 気を引かれるままに耳をすませば、少しだけ聞こえてくる会話の内容。

「裡念様が――、……ので、小萩様に……へお越し下さるようにと」
「何故、裡念様が……になど? それは――、まさか……に出たという意味で?」
「はい、でなければ――直接……になると仰っております」

 女中の言葉にあった、裡念という名に思わず反応してしまった。
 裡念は曾祖父様の傍付きで、東条に必要な婿を選ぶべきだと主張している老臣の一人。
 東西南北の鬼で三本の指に入るほどの鬼道術の使い手で、裡念以外には操れないと言われるほど強力な結界を城に施している。
 彼個人では幾年も前から後継者を探しているが、認められるほどの東条への忠誠心を持った術者が現れないらしい。

 そんな裡念に呼び出された小萩はわたしの祖母の代から仕える侍女で、老臣達に対抗できる貴重な者。
 裡念が何か――、恐らく今回の婿選びについて行動を起こそうとしていて、小萩を呼んでいるとすれば選ぶ選択肢は一つしか存在しなかった。
 女中との会話を終えて、眉根を寄せた表情で近づいてくる小萩にわたしは首を縦に振った。

「小萩、わたしは構わないから行きなさい」
「しかし姫様……」
「戸館様も十分ご理解下さったはずだわ。そうでございましょう?」
「――……えぇ、女中頭の言葉はよく理解できました」
「ね? わたしより、裡念を待たせた後の方が心配だわ」
「畏まりました……。では行って参ります、姫様。すぐに戻りますが、何か問題が御座いましたら必ずこの小萩をお呼び下さいませ」

 小萩が退室した後、わたしは作り出されていた緊迫した空気を引き継いで戸館様に向き直る。
 細めた眼で戸館様を見てあからさまな笑顔を貼り付けると、彼はわたしより先に口を開いた。

「はっ、花姫様。本日は共に過ごす事ができ、至極幸せにございました」
「わたしも楽しませて頂きました」
「名残惜しいと心から感じているのも、事実でございます」
「そう言って下さって、とても嬉しく思います」

 淡々と対応するわたしに遠慮しているのか、戸館様は先ほどまでの横暴な言動とは打って変わった様子だった。
 小萩に対してはあんな態度だったけど、相応な身分のわたしには強く出れないのだろう。

「差し出がましい願いなのですが……。どうか、どうか最後に一杯だけ我々と茶を飲んで頂けませぬか」
「お茶を、ですか?」
「先ほど私がお贈りした茶器で飲むと一層美味となる、珍しい茶葉があるのです。次にお逢いする為の口実にしようと考えておりましたが、本日の思い出と致したく……」

 恰幅の良い戸館様の姿は少し肩を落としただけで随分と小さく見え、意外な面もあるのだと感じた。
 それがそもそもの間違いだったのだと気付いた時には、己の判断を呪いたくなったのだけれども。

「……わかりました、ではお願いします」
「ありがとうございます、最高の茶を煎れさせましょうぞ!」




 ――その後の事は、正直に言うと記憶が曖昧だった。
 戸館様が呼んだ年老いた従者が、贈られた茶器を使用して茶を煎れる。珍しいと豪語するだけあって、室内に漂う香りは慣れないながらも不快を与えるものではなかった。

 しかし問題はここからで……。
 わたしに煎れた茶を運ぼうとした戸館様の従者が自分の袴の裾を踏み、転倒した拍子に宙を舞った茶器がわたしへと向かって来た。
 天上裏に潜んでいた千代が現れて防いでくれたけど、畳に打ち付けられた茶器が転がった弾みで打掛の裾が少し濡れてしまった。

「馬鹿者めがっ、花姫様に何たる無礼を! ええい、貴様の首を私が自らの手で跳ねてくれるわぁぁ!!」
「おっ、お許し下さいませ、兼成様!」
「黙れ役立たずめ! 老い先短いお主の命など、取るに足りぬわ!」
「ひいいぃぃっ、どうかお命だけは…っ。花姫様、どうかこの老いぼれめを御助け下さいませ……! 逆上された兼成様をお止めできるのは、花姫様しか居りませぬ!!」
「と、戸館様、わたしは大事ないのでご老人を許して差し上げて下さい」
「しかし姫、それでは私の気が……」
「幸い、打掛が少し汚れただけです。替えれば事足りるものです」
「では、せめて新しい召物だけでも私に贈らせて頂きたい。実は本日、戸館家と縁のある店の者を呼び付けておりました。姫に似合う衣や小間物を選ばねば、私の痛んだ心は元に戻りません!」
「……え?」

 起こったことに驚いたせいで少し気が動転していたからかもしれない。
 間にあった距離を詰めながら伸ばされた戸館様の手を、どこか非現実的なものとして捉えていた。
 身体を張ってそれ以上の接近を拒んでくれた千代の肩越しから見えた戸館様の表情は、世辞にも好感が持てるとは言えないものだった。
 わたしの耳にも届く大きさで舌打ちをした戸館様が室外に向かって声をかけると、多くの品物を手にした商人風の者達が現れた。
 運びこまれる品や挨拶も満足にせず室内に入る者達。その全ての視線は必ず此方に向けられ、値踏みするかのような不気味な笑みを浮かべていた。

 男鬼に会うことが無かったとは言わない。
 でもそれは最低限の礼儀や立場を理解した役職に就いた者達で、こんな気味の悪い扱いを受けたことはなかった。
 こんな風に無作法な視線を一身に受けるのは苦痛だけど、部屋の端に追いやられてしまった侍女二人は品物に囲まれているだけで、行商の男鬼の関心が向いていないことは幸いだと思った。

「姫様、天上番の忍に小萩様を呼びに行かせましたので暫しの御辛抱です……!」

 戸館様達の視線からわたしを守るようにしている千代が小声でそう告げてくれる。
 裡念に呼ばれた小萩がそう簡単に戻ってこれるとは思えないけど、宥めるような口調の千代に素直に頷いておく。
 無意識の内に握っていた千代の手が、今のわたしに残った最後の拠り所だった――。



◆◇◆



 一体、どれほどの時間が経ってしまったのだろう。
 次から次へと薦められる品に微妙な相槌を返すだけで、ねっとりとした視線と口先だけの賛辞にうんざりとする。
 時間が過ぎれば過ぎるほど藤見様との距離が遠退いていくのに、簡単には動けないのは戸館様の行動に原因あった。
 着物や小物にわたしの関心が向かなければ、ついでではあるけれど部屋の端へ追いやった侍女達に奨めるために男鬼達が近づく素振りをみせる。
 表面上では気丈に振舞っている侍女も、互いの身体を寄り沿いあって屈辱に耐え忍んでいるように見えた。
 質を取ったつもりでいるのか、という千代の憎々しげな呟きに同じことを思った。

 それと同時に考えるのは、未だ待たせたままの藤見様のこと。
 千代に頼み込んで天上番の忍に連絡を頼んだけれど、忍からの報告によると今現在も奥御殿の茶室近くの部屋で待って下さっているらしい。
 藤見様の相手に選んだ侍女は話上手だから多少の遅れを気にしていない様子だと言われたけれど、引き延ばせる時間にも限界がある。

「どうしよう千代……。こんなの、逢うことができても、きっと怒っていらっしゃるわ……」
「姫様、お気持ちはよく分かりますが今は動揺した姿を他の者に見せないで下さい」
「動揺を? なぜ……?」
「戸館様は姫様の様子を都合の良い方向へ勘違いしております。確実に目的は藤見様との逢瀬の妨害です。姫様が動揺すればするほど更に調子づいた行動を取るでしょう。極力私が壁になりますが、あまりにも目に余る行動に出た場合は……。小萩様が仰った事を覚えていらっしゃいますか?」

 真剣な千代の目を見ながら、この茶室への道中で小萩に言われた言葉を思いだす。
 護身の三術の件を指しているようだけど、使用した経験のないわたしが咄嗟に行動に移せるかは怪しい。
 三術は自然と使えるようになるものだと習った。しかしその自然と言う意味が日常生活の事なのか、それとも今のような危機的状況なのかは不明。
 ――でも、何となく予感はあった。恐らく自然と言う言葉の意味は後者だ。
 体中にまとわりつくような男鬼達の視線を受けるたび、何かが身体の底から沸き上がってくる。
 行商の男鬼達の、だらしなく緩み切った頬が目について鳥肌が立って背筋が冷えた。
 我関せずといった様子で、無表情のまま傍観を決め込んでいる松倉様に胃がムカムカとする。
 品物を見ながら大袈裟な賛辞を送り続ける郷田様に、頭が痛くなった。
 最後に、ペロリと下唇を舐め上げながらニヤリと笑った戸館様と視線が交差した瞬間――。


 一瞬の内に頭が真っ白になって、身体の中を熱が駆け巡った。
 自分の中で何かがバチバチと音をたてて解放される合図を待っている。
 たぶんコレは一ノ術ではなく、二ノ術。
 触れることにより発動する一ノ術を通り越して、この場に居る全ての男鬼に影響する二ノ術だ。

 しかし何故かそれを必死に抑えている自分もいる。
 理由は恐らく、解放した後がどうなるか分からない事が不安だからだ。
 どうすれば良いのか、分からない。何が最良で何が最悪なのかも考えられなくなってきた。
 ただただ、藤の名を持ったあの方に逢いたいと願っただけなのに。
 どうしてこんなにも道程が遠くて、気持ちばかりが溢れて空回りしてしまうのかが分からない。
 誰かを好きになるという気持ちを初めて知ったのに、この想いが周りに掻き消されてしまいそうで酷く辛い。

「千代っ、どうしよう……」
「姫様?」
「わたし、術の使い方が分からなくて、怖い……! でも、このまま使わずにいるのも怖くて、気持ち悪くてっ、……――とても悲しい」
「っ、最悪の場合は私が術を使いますので落ち着いて下さい。小萩様がお戻りになるまで私が壁になります。姫様は後ろに隠れているだけで結構です」
「そんなことをしたら千代がっ」
「お叱りを受ける覚悟は既にできております。そんな事よりも、姫様が大事です」

 ぎゅっと握り返してくれた千代の手は、いつもより温かい。
 それは自然な温かさではなく千代の言葉通り、最悪の場合に備えたものだと少しして気が付いた。
 わたしと違って自由に護身の三術を操れる千代は、迫りくる最悪の瞬間に向かい立つ準備が出来ているのだ。

 わたしはこんなにも弱かったのだろうか。
 政略という名のついた婚姻を結び、東条の長に相応しい男鬼を選ぶと決めた昔のわたしは弱くなどなかった。
 今のように、守られるだけで肝心な時にオロオロするだけの情けない女鬼ではなかったはずなのに。
 昔は決して呼ばなかった存在の名を、確かに呼んでいた。
 幸せな時や悲しい時に、次々と思い浮かぶ誰かの存在を知ってしまったわたしは、確実に弱くなった。
 今もこうして千代の背に庇われながら、ずっと名を呼んでいる。

「やはり花姫様には、私の好きな黄金色の打掛を召して頂きたい! 一度合わせてみては貰えませぬか? 今召されておる打掛はお預かりしますので」
「っ、結構です、召し替えは自分で出来ます……!」

 そう言って、わたしに手を伸ばしてきた戸館様。
 思い浮かんでいた藤見様の姿が霞んで、厭らしい笑みを浮かべた戸館様が目の前に迫る。


 イヤダ

 チカヅカナイデ

 ソンナメデミナイデ

 サワラナイデ

 コワイ

 キモチワルイ

 タスケテ、ダレカ タスケテ……

(アナタ以外に触れられたくない、――助けて、助けて下さい藤見様っ……!)

 一気に高まった身体の熱に耐えきれなくなって、わたしはきつく己の目をつぶった。
 戸館様を睨みつける千代の顔や無表情を崩して口を開こうとしていた松倉様が目に入ったけれど、これ以上は色のついた世界を見ていることが出来なかった。
 咄嗟に瞑った目の先にある暗闇は、わたしが自ら選べる逃げ道の一つ――。




「それ以上の無礼はお止め下さい、戸館様。姫様の同意なく触れようものならば、首と胴は繋がっておらぬとご覚悟なさいませ」

 そんな暗闇の中。
 わたしの耳に飛び込んできたのは、いつもわたしを支えてくれる小萩の凛とした声だった。

「貴方様は婿候補という立場があるからこそ、生き長らえているのですよ。本来ならば不敬罪で打ち首にされても不思議ではありませぬ。花姫様のご意向に逆らい、勝手極まりない行動を取り続けたのですから……」

 そっと開いた目に見えたのは、客人の前で珍しく怒りを露わにした小萩の顔と東条の武士達。
 どよめく商人達を片手で制しながら相変わらず小萩を見下している戸館様と、何故か今回は完全に口を噤んでしまっている他の婿候補のお二人。

「この商人達は誰の許可を得て入城しているのでしょうか?」
「許可したのは私だ。姫の為に、婿候補である私が呼び付けたのだ。東条の城下で商売する者なのだから、害は無いと判断できるだろう?」
「そんな事を理由に、害が無いと言い切るのでございますか? 戸館様はこの者達の素性を私共が納得できるだけ説明できると仰るのですか?」
「……全員とは言い切れぬが、ある程度は――」
「そんな危機感に欠ける心構えで、部外者を入城させたのですね。仮にも東条の長を目指そうとする婿候補の貴方様が、その程度の認識で」
「……それは、」
「お前達も、許可なく商人を城内に入れて良いと思っているのですか。婿候補である事を盾に取られたとしても、許されぬ事は逆らってでも拒みなさい! 東条の武士を名乗るならば、間違った者を切り捨ててでも東条を守る事を心得なさい!!」

 雷が落ちた時と似た感覚を与える小萩の声に、周りの者は肩を竦めて縮み上がった。
 早く追い出せ、と身振りで武士に支持した小萩によって商人達は瞬く間に部屋から連れ出された。
 次に、ビクビクと身体を小さく揺らしている戸館様に小萩が一歩近づき、開け放たれたままの入口を指差して一等低い声で言い放つ。

「その首を切り落とされたくなければ早々に退室なさることをお勧めします。つまらぬ妨害だけではなく、東条を愚弄した身に婿の資格が残されているなど思いませぬよう。これほどの事をしておいて摘み出されないのは、貴方様が汚した戸館の名のおかげだとご理解なさいませ」

 城門から放り出しても良いが、体面だけは守ってやる。
 という、小萩の言葉の裏に隠された意味を瞬時に理解した戸館様は、さっと顔色を青く変えて無言で出て行った。
 そして、やや間があいた後に何故か楽しそうに笑う郷田様が頭を下げて退室した。
 室内には未だ松倉様が鎮座したままだったけれど、構うことなくわたしは肩の力を抜いた。
 ふーっと息を吐くだけで体中の力が抜け、そのまま倒れそうになってしまう。
 慌てた千代が隣で寄り添う形で支えてくれたので、そのまま甘えることにした。

 そんなわたしを見て、珍しく焦った様子で近寄ってくる小萩の安否を確認する言葉に軽く頷きながら、空の色が青や朱をとうの前に過ぎた深い藍色である事に、とても泣きたくなった。
 あぁ、きっと藤見様は呆れてしまったに違いない。
 約束の一つも守れないわたしに失望して、次の機会どころか謝ることさえも拒まれてしまうかもしれない。
 絶望という言葉しか浮かばないわたしは、この後口を開いた松倉様の提案に乗る以外の選択肢を選ぶ事はできなかった――。

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