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へっぽこ鬼日記 幕間八(四)

幕間八 (四)
 夜も少し更けた亥の刻。
 湯殿から戻られた恭様に、昼間買付けた音沁水を出すために酒蔵への道程を進んでいた時だった。
 ぼうっと浮かび上がるように、その男――婿候補の一人、松倉信孝(まつくらのぶたか)が現れたのは。
 細身で長身の容姿からは想定できない公家言葉を話す風貌は、奇妙な印象を与えている。
 他の婿候補達と同じ行動をし、口調以外は目立った所が無いように見えた彼だが……何故か今日、この時は違っているように見えた。

「藤見殿に用があるのじゃが、取り次いで貰えぬかのぉ」
「……お急ぎのご用件でしょうか」
「急ぎじゃ急ぎじゃ。麻呂はとても急いでおじゃる」
「主に確認を取りますので、ご自分の部屋でお待ち頂けますでしょうか」
「急ぎじゃと申しておろう。麻呂はすぐに訪ねる故、熱い茶でも用意して待っておれ」

 コイツ、雑巾の絞り汁でも出してやろうか。
 見下したような物言いにイラついたが、名家出身の彼が一介の従者であるオレに気を遣うはずなどない。
 婿候補に選ばれる程の身分は、確かにオレのような従者より遥かに高い。
 それゆえに、人前ではこんな男達を『様』付けで呼ばなくてはならない事が不本意だった。
 内心では絶対に『様』付けで呼ぶものか、と結論付けてオレは周囲を確認した。
 どうやら共も連れずに部屋から出て来たようで、松倉殿の他には天井裏に潜む東条の忍の気配しか見つける事は出来なかった。
 一応、東条側からすれば客人なので護衛が付いているのは理解できる。
 だが、当の本人に自覚が足りないのでは無いだろうか。

「夜更けに独り歩きは危険です。私が呼びに参りますので部屋でお待ち下さいませ」

 そのまま寝てしまえ、と付け足したいのを我慢してオレは恭様の部屋へ戻った。
 本音を言えば、わざわざ松倉殿を呼びに来る事など面倒で仕方無い。
 しかし立場上どうしても自分より上位の彼を都合も確認せず連れ歩くのも失礼だ。
 この面会が本当に恭様にとって必要な物でなければ働き損だ、と思った。

 ――はずなのだが。
 オレの言葉を無視して、大した間も開けず恭様の前に松倉殿は姿を現した。
 確かに、己と同じ速さで移動していた気配に気付いていたが、こうも見事に無視されては苛立ちも増すというものだ。
 しかし恭様は突然の訪問者にも嫌な顔ひとつせず、松倉殿を快く部屋へ招き入れた。
 複数の行燈が室内を明るくし、恭様に希望されて煎れた茶が湯気を立てる。
 共を連れず現れた松倉殿に付いていた忍も部屋の天井裏に身を潜め、元から居た忍と合わせて数は二名となった。


 そして、互いに茶を一口飲むだけの時間が経過した後。
 恭様の質問を機に、恭様と松倉殿にとっては必要でオレにとってはどちらとも言い難い会話が始まった。

「さて、松倉殿。急ぎの要件だと聞きましたが私に何か……」
「貴殿は本日の逢瀬で待ち惚けになったそうじゃのぅ」
「そうですね、その言葉を否定する事はできません」
「思ったより冷静でおじゃりますなぁ。確かに策にしては幼稚でおじゃった。麻呂も呆れて物も言えませぬ」
「……どういう意味でしょうか」
「東条の姫との逢瀬を邪魔したのは麻呂達、貴殿以外の婿候補でおじゃります」

 松倉殿の言葉に、やはりな、と音に成らぬ声をオレは内心で漏らした。
 恭様も同じ推測を立てていたようで、それに目立った反応をせず淡々とした言葉を続けるだけ。
 その瞳は先を促すように優しく揺れて見るが、奥底は冷え切っている。
 今の恭様にとって、松倉殿は客人ではなく調査対象でしかない。
 自ら花姫様との逢瀬を邪魔したと暴露した事から若干の興味を引いてはいるが、それは微々たるものだ。

「松倉殿は何故私にそれを教えて下さるのでしょうか」
「麻呂がそれを必要と思ったからでおじゃる」
「……必要、ですか」
「今回の件に加担したのには三つの理由がおじゃりましてのぅ」

 そこで一度言葉を切った松倉殿の目が何かを決意したように、ぐっと細められた。
 勿体ぶる物言いは好きではないが、飄々とした公家言葉の鈍い流れが変わった事で緊迫感に輪を掛ける。
 話す速さは定常になり、口調は変わらずとも低くなった声が現実味を帯びさせた。

「まず一つ目。麻呂は東条の姫に嫌われる為に今回の策に加担したのでおじゃります。元より、麻呂は東鬼の長になる気がありませぬ。すぐにでも辞退する気でおじゃった」
「何故、松倉殿は婿候補から外れる必要があるのでしょうか」
「それは二つ目の理由に繋がっておじゃりますのぅ。麻呂達、松倉家の鬼は己の持つ知を最大限活かす事に至福を覚えまする。しかし、あくまでも仕えるべき主を定め補佐という地位を築いて実現に至るもの。東条家が求める、鬼一族を率いる能力も無ければ、率いる考えもおじゃりませぬ」

 ザワリ、と。
 猫が毛を逆立てるような勢いで、己の中で何かが騒いだ。
 主を定め補佐する家系という松倉家の鬼の言葉に、激しく苛立つ自分がいる。
 
 恭様や松倉殿にとっては、説明上の言葉でしかない。
 だが、それを傍で聞いている自分の耳に入る言葉は軽く受け取れない類だった。

 息をひそめ、いつの間にか強く握っていた掌に嫌な汗が沸く。
 嫌な焦りで波打つ心臓を落ちつかせ、言葉に耳を澄ませと自分に言い聞かせた。
 東鬼を統べる気がないのに、見合いに参加している理由。それは聞かずとも簡単に推測できる。
 補佐の立場を望む家系が選ぶ道など、自分も嫌というほど理解しているのだから。
 そう、知識で補佐を望む松倉殿は、唯一無二の主を探しているのだ――。

「加えて申せば、ここ数代の松倉家は忠義を捧げるべき主に出会えておじゃらぬ。婿選びはさて置き、これだけ名家の者がおれば主も見つかると思いましたのじゃ」
「……なるほど、松倉殿が仕えるべき主を探す事が二つ目の理由ですか」
「素質を知る機会じゃと思うて、手始めに本日の件に麻呂も参加したのでおじゃる。じゃが、策と呼ぶにも遺憾を覚える幼稚な嫌がらせに幻滅する結果でおじゃった」

 派手な黄色の衣装に身を包んだ男の暴言から、企みが成就しなかった事は知っていた。
 しかし顔ぶれから大した策でない事は予測できたのでは? と口を挟みそうになって慌てて噤む。
 幼稚だと表現した嫌がらせに対して語る松倉殿の表情は、心底嫌悪感を抱いている時のそれだ。
 微かに震える松倉殿の指先が当時の心境を語っているように見え、妙な気分になった。
 何が起こったのかは不明だが、相当不本意な状況だったのだと悟る。
 語られる言葉から、松倉殿が少なくとも小太りの婿候補と違う事は分かった。
 むしろ、抱いている理想や描く未来は東条の真髄と同じ方向に傾いている。
 そして求めるものは、オレの望むモノと限りなく近い。

「所詮、地位や権力に踊らされた上に己の底を知らぬ愚か者。今思えば、そのような者に期待した麻呂も浅はかでおじゃった。――……ここ数日で目にした名家の子息達は不作の極みでおじゃりますな。故に、その中で頭角をあらわし家名に恥じぬ様を魅せた方もおじゃりますが」

 そう言って、恭様を正面から真っ直ぐに見つめる松倉殿の目は強い光を宿しているが、澄んでいるとは言い難かった。
 理想は美しく望む未来は光に溢れているが、松倉殿の心はそれを夢見ているだけだ。

 松倉殿の想いは、言わば雲を掴むようなもの。
 それを読み取った恭様は、語られる松倉殿の理想や未来に何も言わない。
 その理想を共に叶えようとも、未来を描こうとも思われていない。

「最後の理由は……ただ純粋に、貴殿が治める東鬼一族に興味があるのでおじゃります。松倉の地で、主無きまま余生を過ごす事が麻呂の運命(さだめ)だと思うておった。しかし貴殿を見て、後世の東条家に己が知を役立てたいと感じたのでおじゃりまする」

 誰の背に長年追い求めた理想を描いているのか。そんな事は、わざわざ訪ねなくても目を見れば分かる。
 だが頭で理解するだけでは、松倉殿の語る理想の主など見つかるはずがない。
 自ら公言する通り、松倉殿はとても頭の良い方なのだろう。故に、曲げられない思考と膨大な理想が矛盾を起こして先に進めないでいる。

「じゃが、麻呂は其方の者ほどの忠義を貴殿に抱いておらぬのが現状じゃ。東鬼の長に登りつめようとする貴殿の姿に感銘を受けておるだけかもしれぬ」

 控えているオレを見て、ポツリと漏らした言葉の通り。
 松倉殿は恭様を無理やり己の理想に当て嵌めているだけだ。
 それは松倉殿本人も気付いている。何が足りないのかも頭では理解できている。ただ、心が追い付いていない。
 やっと見つけた――、そんな声が恭様やオレの耳に届かない限り、松倉殿が恭様に仕える事はない。
 それはオレが初めて恭様にお会いした時に抱いた思いだ。 
 その感情を知っている恭様だからこそ、傍に置くべき従者が如何なる者かを理解されている。

 満五歳になった日、篠崎家の当主である父に連れられて訪れた藤見の城で、オレの全ては始まった。
 藤見家の当主、義正様と共に広間にいらっしゃった恭様を一目見て、オレの魂が叫び声を上げた。
 何の躊躇いもなく片膝をついて頭を垂れると、感極まって涙が溢れた。
 その涙と共に零れた言葉は『初めまして』ではなく『お待たせして申し訳ありません』。
 あまりに自然に出たそれに、義正様と父が面を喰らった顔をしていた記憶がある。
 そして、そんな中で恭様は当然のように笑って『待ちくたびれたぞ』と返して下さった。
 藤見家と篠崎家にある、魂の隷属など二の次だった。
 ただ主従の契りを交わすだけなら、義正様や父がこの行動を驚くはずはない。

 心が震えた。
 魂が、自分の主はこの方だと叫んだ。
 そして同じく恭様の心も、オレを傍に居る事を許して下さった。
 そんな関係を、絵空事だと心の何処かで思っている松倉殿は恭様に近付けないだろう。

「暫くの間は麻呂が無理に婿候補を辞退せぬ事を理解してもらえぬかえ? 貴殿が仕えるべき主として相応しいか、己が目で確かめたいのでおじゃります」
「……それは私に断りを入れる必要が無い事です」
「それでも、麻呂が婿候補に残る意味を知っておいて欲しいのじゃ。不謹慎じゃが、貴殿がどのような仕掛けを返すのかも楽しみでおじゃる。麻呂は加担した身故に、味方にはなれませぬが傍観を貫く事に致しましょうぞ」

 そう言いながら浮かべた松倉殿の笑みは、空元気だった。
 すっかり冷めてしまった茶を飲み干し、訪ねて来た時と同じく鈍い仕草で部屋を後にする松倉殿の背は、何故かとても小さく見えた。

 恭様を見て、心に従い自ら膝を付かない松倉殿には何かが足りない。
 恭様を理想の駒や枠だと、ほんの少しでも感じているだけで枷となる。
 それはオレが直接松倉殿に言わずとも、松倉殿は理解している。
 だがそれでも、松倉殿は言わずにはいられなかったのだと思う。

 声を上げずにはいられなかったのかもしれない。
 求める理想の先にある未来に、最も近い恭様を間近にして黙っている事ができなかったのだ。
 何か行動を起こさずにはいられなかったのかもしれない。
 松倉家の因果を語ったのも、恭様の敵ではないと伝えに来たのも、全て。
 それが恭様に縋っているようにも思えて、オレは松倉殿の消えた廊下を暫く見つめた――。



◆◇◆



 松倉殿が部屋を退室した後、オレは恭様のご希望通り昼間に買付けた音沁水と赤の杯を膳に乗せ、月見酒の用意をした。
 銀色の月が輝き、零れる光が手酌で酒を飲む恭様を照らす。
 どうやら音沁水はお気に召されたようで、水でも飲むようにグイグイと恭様は杯を煽った。
 酒瓶が一つ、二つ、三つと床に転がり、すっかり気が緩んだ恭様も足を投げ出す。
 中身が空だとしても栓をせぬまま転がっていては、周りを汚すかもしれないと思って酒瓶を拾い上げた。

 ふと視線を感じて恭様を見ると、全く酔った様子もなく退屈だと言わんばかりの表情で酒瓶とオレを交互に見比べていらっしゃった。
 飲み足りないのだろうか、と思い追加分を聞くと十本という言葉が返される。
 さすがに追加十本は飲み過ぎなので、膳を持ち上げながら軽く拒否をしておく。
 不貞腐れて口を尖らせる恭様が幼い頃と重なって、思わず笑い声が漏れそうになった。
 慌てて深呼吸して部屋を出たので、気付かれていないとは思う。
 まぁ、もし気付かれていても、先ほどと同じ数の音沁水を見て許してくれるはずだ、と高をくくった。


 本殿の中庭を通れば、酒蔵への道程は最も短縮できる。
 徐々に完成へ近づいている脳内の見取り図に、オレはついでとばかりに中庭の風景も記憶させた。
 月光を浴びる草木が少し冷たい風に揺らされ、昼間とはまた違った雰囲気を漂わせる美しい場所。
 今度はここで月見酒を奨めてみるのも良い、とオレは一人ごちながら足を動かした。

 酒蔵から音沁水を酒瓶に足し、膳を傾けぬよう強く持って薄暗い廊下を早足で歩く。
 そこでふと、恭様の部屋の方向に進む複数の気配を感じた。
 気配は大小合わせて五つ。
 内三つは僅かな気配しか感じさせないので、東条の忍だと思った。
 そして残りの二つ……、一つは確実に女鬼のもの。気配をどうこうする術を知らない一般のものだ。
 しかしもう一つは、何とも形容し難い気配だ。忍びのようで忍びでないような。

 そこで松倉殿の、花姫様が恭様のことを気にされていたという言葉を思い出した。
 女性が出歩く時間にしては些か遅いが、この気配の集が花姫様なら納得できる。
 女鬼のものだと感じた気配は花姫様のもので、妙な気配は女忍――千代のものだ。
 恐らく女中の格好をしているであろう千代は、気配の在り方にまで頭が回っていないのだろう。
 千代の性格を思えば、花姫様が夜更けに男鬼の元へ行く事に不満を抱いていると推測できる。
 それが原因で気の配り方が雑になり、今こうして感じる妙な気配へ行き着いたのだ。
 まったく、他人事なのに未熟すぎる精神面に嫌気さえ差してくる。

 本来ならば、このような時間に女性が……と咎められることなのだが。
 承諾しない周りを、花姫様が自ら説得して恭様の元を目指しているのだ、と。
 そんな確信を持って、オレは部屋への道を音も無く駆け出した。


 あの場と恭様の部屋との距離があって助かった。
 そう、安堵の息を漏らしながらオレは締められていた襖を少し乱暴に開けた。

「あぁ、良かった。やはり恭様も気付かれたのですね。急ぎましょう、さすがにその姿では刺激が強いかもしれません」

 恭様も既に近づいてくる花姫様の気配に気付かれていたようで、身形(みなり)を整えるために部屋に備え付けられている箪笥の引き出しを開けようとされていた。

 手にしていた膳を一度縁側に置き、恭様に胸元を正すようお願いして、箪笥から肩袖の長羽織を取りだした。
 日中は清々しい陽気に溢れていても、夜は冷え込む事が少なくない。
 先ほどまでは湯殿上がりで火照った体を冷ます事を前提に羽織を渡さなかったが、程良い時間が経過した今は一枚衣を増やした方が安心だ。
 白に近い色合いをした肩袖羽織を持って恭様に向き直れば、正した身形で『どうだ』と言わんばかりの表情を浮かべる恭様。
 それに少しだけ笑ったオレは、若干端の折れた帯に手を伸ばし軽く整えた。
 次に羽織を広げながら背後に回ると、恭様も慣れた様子かつ絶妙な具合で袖を通された。
 少し距離をとり、上から下まで恭様の姿を確認して定番の台詞で称える。
 それに対して満足気に笑う恭様は、やはり昔から変わっていない。




 そして、花姫様が姿を現したのは、恭様が廊下に出てすぐの事だった。
 薄闇の中に、ふわりと現れた見目麗しい東の鬼姫と漂う甘い香り。

 淡く黄色がかった着物生地は見方によって薄紅を含んだ色合いにも見える。
 そしてその着物の模様を視界に入れたオレは、思わず目を細めてしまった。
 共に描かれた菊と雪輪で印象が薄れつつあるが、これは意図的だと捕えるべきなのか。
 
 『それ』は衣に限らず装飾を施す全てに共通して言え、家紋として使用する藤見家も、多用される物だと認識している。
 だから、それ――『藤』を中心とした花が舞った衣を身に付けた花姫様を意識する必要は無いのだ。
 だが、そう頭で理解しているのに、明らかに恭様を意識しての装いだと思うのは花姫様の目が原因だ。

「――藤見様……」

 恭様を呼ぶ花姫様の声は、小さく儚い。
 機嫌を伺い許しを請うようでいるが、奥に秘められているのは熱に浮かされた女の目。
 これが昨日初めて顔合わせを行った者の目だろうか。誰が見ても只ならぬ想いを抱いている事が分かる。

 事前に松倉殿の言葉を耳にしていた為、花姫様が近い内に謝罪に訪れるのは予測の範囲内だ。
 夜更けに直接訪問するという方法は少々意外だが、既に対処法を確立させているであろう恭様に、できないはずがない。
 顔合わせの席で漂わせた冷たい印象を一掃させ、恭様への熱に浮かされる花姫様は好ましく思える。
 これが他の男鬼に向けられた表情ならば違った感情を抱くのだが、花姫様の視線の先には己も焦がれて止まない無二の存在。
 この状況に感化されるな、とうい方が無理な話だ。

「こんな時間に女性が出歩くなど、感心できませんね」
「っ……お、遅くに申し訳ありません。藤見様に一言謝りたくて、了承も得ずに訪ねてしまいました」
「私に謝罪を?」
「はい、未の刻に藤見様と約束をしていたのに……」
「わざわざお越し頂かなくとも、文や人伝で十分でございますが」

 しかし、敢えて突き離すような恭様の言葉に、弧を描きそうになった口元を慌てて引き締めた。
 据えられた瞳に、静かに放たれた言葉。温かみなど微塵もなく、冷たく突き放すような淡々とした口調。

 駆け引きの主導権は恭様にある。
 甘い言葉を口にして、ただ愛を囁くだけが伝える術ではない。
 例えそれが相手の望むものと違う強い鞭だとしても、最後に与える飴が特別甘ければ結果は同じだった。
 オレが気を抜いていたこの瞬間も、恭様にとっては罠を仕掛ける一手なのだ。

「い、いいえっ、直接謝らなくては意味が無いのです」

 ――掛かった。
 自ら恭様に一歩近づいた花姫様を見て、そう思った。 

「ずっと、ずっと藤見様の事を考えておりました。ほ、本当に、藤見様との約束を違えるつもりなど無かったのですっ……」

 今にも泣き出してしまいそうにも見える、必死で切羽詰まった、余裕のない声。
 聞きようによっては告白とも受け取れる言葉に、本人は気付いているのだろうか。
 濡れた瞳が、零れる吐息が、上気した頬が、一瞬だけ伸ばそうとした白い手が。
 全身で恭様に想いを語ってしまっている事に、気付いていないのだろうか。

 花姫様の言葉に、好きなだけ時間を掛けて返答する権利を恭様は持っている。
 それをただ縋るような思いで待つだけの花姫様は、零れ落ちそうなほど瞳いっぱいに涙を溜めて耐えていた。
 この少しの間さえも、花姫様にとっては永遠に感じる時間だろう。
 約束を違えた事で幻滅されていないか、遅れた謝罪に腹を立てて追い返されないか。
 恋した相手……恭様に嫌われてしまわないか、花姫様は不安で不安で仕方が無いのだ。
 そしてやはり、恭様は全てに置いて主導権を握る方だった。


 ついに耐えきれなくなったのか、居た堪れなくなった花姫様の表情が暗く曇っていく。
 微かな希望に縋るような表情に、色濃く落胆が表れた。
 そんな花姫様を見て微かに空気を柔らげた恭様は、ようやく行動に移された。

 ごく自然な動作で立てた一本の指に、皆の視線が集まる。
 困惑した花姫様の視線と警戒を強めた千代の視線。そして、恭様が今から花姫様へ与えるであろう『飴』の言葉を期待する、オレの視線。

「ごめん」

 夜風に乗せられたその声は、耳に優しく馴染んで溶ける。
 謝罪の言葉に聞こえるが必要な感情が込められていないそれは、ただの単語として認識された。

「ありがとう」

 二本目の指が立つと、一本目と同じようにつられて視線が向かい無感情な単語を耳にする。
 一連の動作を理解した花姫様と千代は、次に立てられた三本目の指を見て恭様の言葉を待った。
 しかし、恭様はそのまま口を開かず一点を――花姫様を見つめたまま動きを止めた。
 先ほどまでの深い悲しみは見えず、純粋に恭様の言葉を待つ花姫様は、小さく首を傾げる。

「愛しています」

 他者に対して、表面上では害の無いふうを装って穏やかな笑みを湛える恭様の姿は幾度となく目にして来た。
 その瞳の奥に暗く沈む氷のような冷たさに恐怖し、多くの者を様々な感情で震え上がらせた。
 そんな過去の恭様を、オレは真っ向から否定したい衝動に駆られた。
 するり、するりと包装された贈物の紐を解くように。
 徐々に解かれる恭様の冷淡な心と、決して感情を乗せなかった口調。

「この三つの言葉を伝えられるのは、素晴らしい事なのですよ」

 冷淡な部分とは逆に、ふとした瞬間に見せる微笑みや優雅な所作に見惚れて、思わず感嘆の溜息を零したことは一度や二度ではない。
 今この瞬間も、鈍器で後頭部を殴られたような破壊的な威力に、眩暈にも似た感覚にふらつきそうになる。

「花姫様は私の事を考え、ここまで来て下さった。それだけで、貴女の謝罪の気持ちが私にはよく伝わります」

 恭様は噛み締めるように言って、次に綻ぶような笑みを浮かべた。
 あまりに優しい微笑みに、花姫様と千代が息を呑んだのが分かった。
 横顔しか伺えないオレでさえ酷くくすぐったい気分になるのに、正面からそれを見た彼女達の心境は如何程のものだろうか。
 照れくさくて、胸の中心が熱くなり、ふわふわと空に浮いているような心地。
 それはまるで、足りない言葉の代わりに溢れる想いを伝えるように。
 気持ちを乗せた空気は、どこまでも優しく愛情に溢れている。

「私が怒っていない事は、ご理解頂けましたか?」
「はい」

 嬉しさを再び潤んだ瞳で表現する花姫様の様子に、恭様の機嫌も瞬く間に上昇していく。
 一歩、二歩と花姫様の間にあった距離を縮め、完全に見つめ合う形になった二人。
 今度こそ我慢などせず、恭様の背と懇願する眼差しの花姫様を見て、オレは口元を緩めた。




 謝罪が問題無く済んだと判断した千代が、何やら花姫様に耳打ちし始める。
 恐らく、そろそろ部屋に戻るべきだと花姫様に諭しているのだろう。

 確かに、随分と夜が更けた。
 出歩いているのもそうだが、何より異性の部屋を訪ねているという事は誤解を招くには十分だ。
 それを察している恭様も、名残惜しくも頃合いと見計らって花姫様との距離を元に戻された。
 縁側に置いたままだった膳に近づき、酒瓶を手に取ったのは寂しさを紛らわす為だと思われる。
 飲み直すなら今度は酌をさせて貰おう、とオレが考えたのとほぼ同時だった。
 未だ夢心地な花姫様が、千代の制止を振り切って恭様に再び近づいて来たのは。

「藤見様は、今からお酒を飲まれるのですか?」
「えぇ、月見酒も風情があると思いましたので」
「あの、ご迷惑でなければお酌をさせて頂けますか?」

 おずおずと、上目遣いで恭様に訪ねる花姫様の姿は期待に満ちていた。
 それとは真逆で、恭様に向けて身振り手振りで拒否しろと指示する千代の表情は固い。
 その主張に従うわけではないが、恭様は体面を理由に花姫様の申し出を断られた。

「有難いお話ですが、男の部屋の前で酌をするなど……在らぬ誤解を招きますよ?」
「誤解ですか? それは一体どのような――っ!」

 最初は理解していない様子だったが、およそ三拍の間を置いて花姫様は一瞬にして顔に血をのぼらせた。
 意味を理解できるだけの知識は持ち合わせているようだが、壮絶な己の申し出に花姫様は穴があったら入りたいと思うほどの羞恥に見舞われていた。
 異性の部屋を夜更けに訪ねる事は、下手にそれを口にするより、よほど恥ずかしい。
 けれど――無意識の行動なのだから仕方がない。花姫様の行動は、心が直接体に命じたものだ。
 普通なら、ここで『とんでもない』と否定が入るはずなのに、真っ赤に染まった顔を隠さず恭様を見つめ続けている事が全てを示している。

 花姫様に、恭様を拒む気はない。
 そんな様子に、少しだけ目を見張った恭様から若干の哀愁を感じた。
 きっと、恭様も花姫様と同じ気持ちだ。情に浮かされた関係を持っても後悔しないほど、その心は花姫様を愛しいと思われている。

 婿候補達の妨害により逢瀬の時間が極端に減ってしまった、恭様と花姫様。
 もう少しくらい共に過ごしても罰は下らないのでは、と考えたオレは、中庭の情景を思い出して口を開いた。
 酒蔵への往復で目にした庭には今宵の二人に相応しい場所があるではないか、と。

「恭様、場所を移されてはどうでしょう。本殿の中庭には、庭茶会用に整えられた場所があったと記憶しています」
「従者殿! そのような事を許せるはずが、」
「我等もご一緒すれば問題ありませんよね、女中殿」
「なっ……」
「俺がご案内致しますので、恭様は花姫様の手をお引き下さい」

 千代の声が静かな廊下に響いたが、それを無視してオレは膳を持ち上げた。
 ついでとばかりに、驚愕の相で此方を見る千代を鼻で小馬鹿にするようにして笑ってみせれば、気の強そうな目元が吊りあがっていく。
 唇に白い歯を喰い込ませた千代の拳は激しく震え、一瞬後には床に叩きつけられていた。
 
 それも無視して数歩廊下を進み、案内の為に振り返ると苦笑する恭様と目が合った。
 動かされた口は音を発していなかったが、それは間違いなくオレに告げられた感謝の言葉。
 その気持ちが嬉しくて、オレは赤くなった耳を押さえたい衝動を抑えながら中庭へ先導する事に徹した。
 
 花姫様の手を取り、月明りに照らされて伸びた寄り添う影に、お二人の未来を馳せながら――。


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